手を見る 241019
2024/10/19
私は「この枝をこう切ろう」と思って、枝を左手で支え、右手に持ったハサミを凝視しながら枝を切る。よく切れるハサミなので、指を切ってしまったら元も子もない。私の手は私の頭が操る道具である。
すごいなと思うのは、熟練した音楽家たちが手元を見ずに演奏する姿である。彼らの手は、彼らの頭が操っているとはとても思えない。手そのものが“彼として”主体的に演奏しているように見える。卓球選手などもすごい。彼らが球を打つとき、頭が手に対していちいち命令を出していない。待てよ、剣道だってそうではないか!
このように考えたとき、書道や茶道も自分の手元をよく見ていることに思い当たった。手を道具として使っているのは「文科部系」で、手が自身として動いているのは「運動部系」であり、音楽は「運動部系」の仲間なのだ。
これは、自分と時間の関係に由来するのかもしれない。運動も音楽も、試合中や演奏中の流れに対して、自分が勝手に休みを入れることができない。いけばななどは、自分の動作と時間をある程度好き勝手に操ることができる。だから、じっと手を見る暇がある。