快楽のいけばな 251017
2025/10/17
愉悦と言うと精神性に傾き過るので、その感じを快楽と名付けたものかどうか、シンプルに幸福感と呼ぶ方が合っているか、言葉の選択に迷う。
一昨日、才能に思いを寄せた。いけばな作品に才能が現れないことはないのは当然だ。しかし、どんな大芸術家にも習作や駄作があるように、才能は1点の作品に十分現れるという保証はない。それよりも確実なのは、そういう習作や駄作を含めて(仮に世に認められる作品がないにしても)、その制作行為に快楽を伴って没頭する時間を持っていられることが才能である(没後に価値を認められた画家の、何と多いことか!)。
つまり、第三者は生産された成果(作品)に注目するしかないが、制作者本人は、自分が消費した時間によって日々を生きている。消費する時間とその時間に費やす体力や精神力の総計が、生産された作品の評価と釣り合わなかったり、報酬に置き換えられなかったりするのはよくあること。
課題は見えている。音楽や芝居やダンスのように、演じる者と観客とが同時に同様の快楽を得られるような、そんないけばなの時間が提供できないだろうか。