猿真似 240813
2024/8/13
習い事は物真似から始まる。お手本を何度も何度も真似ていく。そのうちに、真似ても面白くない手本や、真似ているうちに共鳴するような気持ちの高ぶる手本が現れて、次第に自分の好みや自分のスタイルも見え始める。
私は、早い時点でいけばなの好みが偏ってきて、自分のスタイルの幅が狭くなってしまった。いけない傾向だった。冒険が苦手だったのか、逆に冒険心が旺盛な自分をわかっていて自己抑制していたのか、安全地帯を飛び出すことをせず、小さな生活を送ってきた。
真似をすることは簡単だというのも、思い違いだった。猿真似は楽ちんだが、しかし、人の作品を真似るというのは、単に作品の見かけを真似るだけではなく制作の背景にある思想や心情を真似なければ、本当に真似たことにはならない。だから、真似たいと思った作品や作者に対する共鳴がなければ、本当の真似事には至らないのである。
ということは、共鳴をもとにした真似には、真似といいながらも本人の心の振動が制作に携わっているから、もう猿真似とはステージが違う。クラシックの楽譜を弾くピアニストも同じだろうか。