仕事は厳しい 250701
2025/7/1
辞書的な意味でなく、私の感覚で仕事とビジネスを比較する。背景には、手は抜きたくないが抜けることがあるという働き方の問題意識があった。
いけばなの仕事を振り返る時、数日後の段階での自己採点は90~110点くらいで、数週間後には70~90点、数か月後には50~70点に下がり、1年後にはもう欠点の気分だ。
私は3年前までビジネスマンだった。ビジネスの評価は自己採点ではなく、売上や利益の明白な数字がモノを言う。だから数字が上がっていれば、仕事内容はあまり問われなかったし、私自身に不満があってもそれは搔き消された。つまり、ビジネス上の成功は、必ずしも自分自身の仕事の満足と相関関係ではない。ビジネスでは、自分も含めた諸条件がうまく組み合わさったら理想的な成果を得られて、それは、ひとり私だけの仕事ではなく、仲間の仕事が積み重なり連携し合って「私たち」の評価になり、その評価は時間を経ても基本的に変わらない。
仕事に対する自身の評価は、自分の物差しが変わるたびにコロコロ変わる。成長している間、自己評価は下がり続けるのが当然だろう。
アイディアは手から 250630
2025/6/30
うんうん唸っていても、いけばなのアイディアは生まれてこない。だから、私はたいてい初めにスケッチを描く。それは殴り描きで、紙の上に雑な線や丸があるだけのものだ。そういうのを何枚も描いているうちにインスピレーションがやってきて、少しずつまとまりのある形が現れてくる。
この段階が数日間から数週間続く。「一旦忘れる」ことを何度か繰り返すと、不意に「いいこと」を思い付いたりしながら、イメージがより明瞭になってくる。それでもまだ決め切ることはできない。所詮、頭で考えただけのものであり、頭の手先として手指が動いたに過ぎない。
次の段階は花木の実物での手遊びだ。枯れものはいつも手元にあるので、そういう物も引っ張り出してくる。手で硬さや重さを確かめるように手遊びしていると、スケッチの段階ではわからなかったことや、可能なこと不可能なことなども見えてくる。こんな面倒な手間を掛けるのは、いけばな展の時だけだけれど、ふだんのいけばなでも、花材を見ただけで思い浮かぶイメージに比べて、花材を触りながら思い浮かぶイメージには大きな飛躍がある。
1杯の飲み物 250629
2025/6/30
100円ショップ、ファストフード、缶コーヒー等々、効率よく大量につくることで利益を得る道がある。これはスローフードと逆向きで、心情的には賛同しにくい。しかし、手軽さに惑わされ、それらを受け入れて生活する私なのである。
心を込め手間をかけたものが良い商品であるとは一概に言えないし、良い仕事振りであるとも言い切れない。それでも人は、マシンメイドにどっぷり浸かって暮らしながら、ハンドメイドを上位に置きたがるのはどういうわけだろう。
今日、バーテンダー協会のカクテルパーティがあって、会費9千円。愛媛県内のバーテンダーが、腕によりをかけてカクテルをつくってくれる。思い込みかもしれないが、家で飲むより外で(バーで)飲む方が美味しいし、居酒屋で飲むよりバーで飲む方が美味しい。それは、グラス1杯の飲み物に対する手間の掛け方の違いだろう。
それでも、手間を掛け過ぎると冷たい飲み物が温くなる。その点では、いけばなの1瓶も似ている。違うのは、口に入るカクテルの味は一定であることを目指し、目に入るいけばなの美は常に新しさを目指すことだ。
画龍点睛を欠く 250628
2025/6/28
マニアックになってどうする? という遠くからの声がする。その場所に長く留まっていると、自分の目がだんだん細かい物を見るようになる。メガネから虫メガネの倍率になり、光学顕微鏡から電子顕微鏡に至ったら、もう全体像は何も見えていない。すなわち、見るべきものをすっかり見失っている。
いけばなをしていて、あまりにも細かい所に注意を向け過ぎるのは良くない。肉眼で見える範疇で完成度を追求したいものだ。画龍点睛を欠くというのは、作品を制作する者に対する戒めの言葉であるが、それを神経質に受け止めると、とりとめのない作業に没頭することになる。薄目でシュッと眺めて「完成!」と決め込むくらいが適当である。
いけばなは、生け花であり、活け花である。あまり長く吟味していると、枯れてしまうか腐ってしまう。だから、いけばなをする上で大事なのは、時間をかけてこだわることよりも、「細部にまで油断召されるな」ということだ。
弱った葉の1枚を見逃してしまうこと、不自然に折れた枝を見過ごしてしまうこと、散りかけた花をそのままにしてしまうこと。これが油断だ。
火事場 250627
2025/6/27
旅は発見が面白いと思っているから、下調べは最低限に止めて行程を緩くしている。タイパにも興味はあまりない。とはいえ、天気予報だけは旅先でもちゃんと見ておきたい。香港で台風の直撃に遭い、3日間も帰国便の手配ができなかった体験があるからだ。
かつて仕事の場において、私は情報や事前調査などを駆使して計画を練り、予定を立ててきた。仕事は、計画と準備で8割が済んだようなものだと教えられもした。
しかし旅は違う。芸術も。いけばなも。いけばなで、予めガッツリと計画を立ててしまって臨むと、作品がどうしても芸術的でなくなるのだった。花材に対する観察力が落ちて、よく知ってしまった相手(花材)を舐めてかかる。頭の中の設計図が邪魔をして、目の前の花材の素晴らしいプロポーションに気付かない。経験的には、計画と準備に半分も労力を割くと、つまらない作品になる。
やり投げでも柔道でも、試合中のギリギリに追い詰められたときの火事場の糞力には凄いものがある。日頃の特訓が必要なことは当然として、計画の完成度が高いほど、現場は冷静沈着で火事場にならない。