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いけばな随想
diary

カラオケ 250622

2025/6/22

 なるほど、カラオケは日本人の文化の象徴だと思った。プロが歌う原曲があって、別のミュージシャンが歌うカバー曲があり、大勢のアマチュアが歌うカラオケがある。つまり、頂上が高いぶん裾野も広く、様々な取り組み方があるという、その分野が隆盛する理想的な人口分布を示している。
 かつての野球もそうだった。どこの子供も野球で遊び、部活の人数も多く、高校でも野球部がグランドの使用権第一位の座を占めていて、テレビの野球中継が一家だんらんだった。
 いけばなだって、負けていない時代があったようだ。私も関わっている商業高校の華道部には、ざっと100本以上の花筒と200個以上の水盤があって、その他の花器も100個はある。それらが部室の2つの押入れに入りきらない。部員が何人いたのだろう。
 時代が下り、いけばな人口が減ってきた。一方、外国ではIKEBANA人気の高いことがSNSで確認できる。カラオケも日本語の発音がKARAOKEとしてそのまま普及しているようなので、IKEBANAも、もっともっと広がることを期待したい。いまの時代は何事も国境を越えて行くし、国境を越えてやってくる。

解釈 250621

2025/6/21

 いけばなの資料を束ねているファイルの表紙に、「解釈してはいけない」と書いたのは5年くらい前のことだ。
 私は、他人のいけばなの純粋な鑑賞者でありたいのだが、いけばな教室を主宰しているからには、全く解釈しないで済ますことは契約違反のような気がして悩ましい。
 美術館に行って絵を眺め、即座に「好き」「嫌い」と感じる作品もあるが、大抵は「気になるけど、(自分の気持ちが、すぐには)よくわからない」という具合で、感じるまでに相当時間のかかる場合が多いのだ。『プレバト』の夏井いつき先生の居合抜きのような即断コメントを見るにつけ、ああいう瞬発力が欲しいものだと羨む。つまり、瞬発力のない私が講釈を始めると、ああだこうだと屁理屈を喋ってみたり、却って分かりにくい比喩を用いたりして、聞く方が煙に巻かれてしまうのである。
 表現の世界には、衝動がある。共感や直感的な喜びがある。他人の作品に対してもそこを掴むことが大事で、周りからじわじわ解釈していくというのは本質を掴み損ねることになる。そう思って、解釈するけど「解釈してはいけない」と書いた。

手遊び 250620

2025/6/21

 生成AIの仕事は雑用だと思いたい。私の脳味噌の本業に対する雑用である。ところが実際には、脳味噌の本業が外部化されて、生成AIは人間の脳の代理店になった。こうして自分で考えることが減った脳は、何十世代かの後には退化しているだろう。体を鍛えるように脳には特訓が必要だし、時にはもっと怠けさせなくてはいけないはずなのに。
 人生に散歩があったり、寄り道があったり、失敗があったりするのは人生そのものだと思ってきた。昼寝をしたり、ぼーっとしたり、忘れたりするのも人生の一部だと思ってきた。そんな悠々自適な私の人生に、現代社会は効率を詰め込もうとするから、息苦しいったらありゃしない。
 あれこれと無駄なことを考えたり、無理したりするのはいけないことですか? あっ、そうなんだ? それじゃあ、仕方ないですね。私に残された大事な仕事は、手遊びくらいかな?
 というわけで、手遊びとしてのいけばなは、生成AIにつけ入る余地を与えないと思っていたら、最近は「生成AIが設計したいけばなをやってみました」という投稿が目に付くようになった。手遊び、危うし!

大事にするところ

2025/6/20

 いけばなをやる人が大事にするところは、それぞれ違う。私が大事にするのは、花材を俳優に見立てるところ。それは、若い頃に少し芝居を齧ったことがあるからだろうと思う。せっかく起用する俳優を、エキストラのように群衆化できない気質なのだ。1人1人にセリフがあって、1人1人にスポットライトを当ててあげたい。
 これは私が好きなジャズのセッションも同じで、メンバーそれぞれが(遠慮し合いながら)、結局は全開で自分のソロパートを演り切るみたいな。だから、交響楽団のような華麗で分厚いハーモニーを奏でる花はちょっと苦手だ。テレビのバラエティ番組のスタジオでキャスターの後ろにあるような、あでやかな盛りだくさんの花も少し苦手だ。
 人によって配色を大事にしたり、マッス(塊)の造形性を大事にしたり、1本の枝や草の線を大事にしたり、他人が大事にしているところがだんだん分かってくる。個々に違うからこそ、いけばな展として一堂に会したとき、1つ1つの作品が同調し合ったり反発し合ったりして愉しい空間が生まれるのだと思う。弟子も師匠に同調する必要はない。

現代美術的な花 250618

2025/6/19

 アクション・ペインティングやシュールレアリズムの自動筆記など、制作者の意図や理屈を超えようとする表現形態がある。その手法で表現された絵画や小説などでは、“傘とミシンの出会い”など、意味不明だったり荒唐無稽な浮世離れしたモチーフが喜ばれる。
 何をするにも人間的でありたいという人間らしい願いを蹴飛ばし、自分を偶然性や夢の世界に放り込むところから表現を開始する。理由や目的にがんじがらめになっていた自分を、テーマ性がなく計画性のない無限空間に委ねるのである。
 そういう現代美術とは別のアプローチで、障害を持つ人によるアートや、自覚のないまま描く子どもの絵画などに価値を見出そうとする取り組みも見逃せない。ナイーブな感性や無垢な感性によって表現された作品に、崇高さや透明さや温かさを感じたり、逆に人間の宿業を味わったりする。
 そういう視点で見ると、リサイタルの迎え花やホテルの玄関花のように目的意識が明確ないけばなは、特に面白味がない。勝手に手が動いたとか、花がこういけてくれと言ったとか、そんなトボケたいけばなも案外面白いと思う。

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