汀州Japanlogo 汀州Japanlogo

いけばな随想
diary

人工的なモノ 240727

2024/7/27

私の子ども時代は、メンコやビー玉、銀玉鉄砲やブリキの玩具などが全盛で、学年が進むとプラモデルやリモコンカー、ミニチュアカメラや安物の天体望遠鏡などが宝物となった。夏休みには、昆虫標本をつくることと、天井からテグスで吊られグルグル回って飛ぶウロペラ飛行機に熱中したりした。水面や水中で動く潜水艦模型も楽しかった。

少年の私にとって、昆虫の世界も天体も、空や海なども、広い自然界は未知のアドベンチャー・ワールドで、それと同様に人工的な機械仕掛けの世界も謎に満ち満ちたワンダー・ワールドだった。

草月カリキュラムには、異質素材の扱いを学ぶ課程がある。いけばなを始めた頃、異質素材を使うのは邪道ではないかと感じ、そういう作品を見ると嫌な気分になった。自然に枯れたり風化したりする材料を使うことが良しであり、なかなか腐らない人工物を使うことは悪手だと思っていた。

しかし、花器も人工物ではないか! 自然由来の花材と人工的な材料を融和させることこそいけばなの醍醐味なのかもしれない。今はそう考えて、その両方を同格に扱うよう心掛けている。

抽象化 240726

2024/7/26

花にはそれぞれ名前があって、同じヒマワリでも一重咲きから八重咲のもの、小さな一輪から大輪まで同じ個体が1つもない。しかし、その一輪一輪にこだわり過ぎると、いけばながいけばなでなくなり、花屋さんの花の陳列になってしまう。

絵具のように売買される工業製品ではないとはいえ、花はいけばなにとっての材料である。しかし、日本人は米一粒もおろそかにしない民族だから、単に材料だった花一輪にこだわって、擬人化したり神格化したりするし、そうでなくとも大事に扱う。花一輪を切り難いし、捨て難い。

昨晩、バー・コンアルマにいけた花は、リンドウ(濃青)、デルフィニウム(水色)、アジサイ(白)で、花器は土台部分が白、筒部分が水色だった。青と白のツートーンで抽象的に仕上げることを初めから意識して取り組んだ。意図はまずまず達成したと思うが、リンドウのリンドウであることを無化し、花器の花器であることを無化することは、相当意識的でなければならない。

花一輪に思い入れが生まれると、抽象化は迷走する。そうすると、なくした方がいい花を残して台無しになる。

離島の分校 240725

2024/7/26

昨日の愛媛新聞の第一面に、岐阜県から愛媛県の離島の分校に進学した、1人の高校生の記事が載った。この話題が第一面に掲載されたのは、新聞社としても相当に気持ちが入ったのだろうし、分校も島も嬉しかっただろうことが想像できる。

小学6年時からその分校に憧れていたという彼女の情報への接し方、感じ方、行動力、価値観等々、記事を読んだ私も驚きと共に嬉しくなって、妻に読み聞かせたくらいだ。

グローカルという造語は20年も前から使われていたが、「地理的に国境を越えたインターナショナルさを備えた地域的視座」くらいの意味合いだった。彼女の場合は、縦横斜めに複数の次元を一気に突破し、時空も思想・哲学も超えた本物のグローカルさだと感じた。

私は、田舎を賛美する傍らで都会に憧れ続けてきた。田舎には何か不足があり、都会には充足があるように洗脳されていたことを否定できない。いけばなというものが都会的趣味に陥ってはいけないし、田舎だからどうだということではなく、花材も花器も、センスも状況も、ハイブリッドでグローカルな取り組みの土俵にしたいものだ。

アレを超えたい 240724

2024/7/26

24年前の秋の初めだった。落葉を敷き詰めた地面の一部が、ペロリと剝けている。落葉をたっぷり載せた「地面の表皮」が、畳より一回り小さい大きさで長方形にめくれているのだ。巨人がカッターナイフで地面にコの字型に切れ込みを入れ、注意深く端っこをつまみ上げたような光景だった。その作品の花材はというと、上に反らせた鉄板と落葉と地面である。

私を驚かせたいちばんの理由は、地面を作品に取り込むことによって、どこまでが作品でどこからが風景なのか境界がなかったことである。空の上の人工衛星から地面のめくれた部分を眺めると、地球全体が作品だったのか! と判明するだろう。

そのショッキングな“地面ペロリ作品”は、草月いけばな展への賛助出品として、愛媛大学教育学部の美術専攻学生たちが取り組んだものだと聞いた。いけばなではないようにも見えるし、いけばなのようでもあるその作品が、私を刺激して草月の門をくぐらせたのだ。

それ以降、草月代々の家元の作品をはじめ、私を引き付ける作品に何度も出会ってきたが、やはり最初の出会いの強烈な印象は忘れられない。

ためらい 240723

2024/7/24

私は、この人生ずーっと「文系」だ。算数に苦手意識はなかったけれど、科目名が数学に上がってからは、からきしダメだ。私の捉え方として、「理系」の人にはためらいがない。自己正当化のために反発を恐れずに言うと、理系の人には遠慮がないし思いやりが足りない。

ためらいというのは、優柔不断と言い換えてもいい。悪く言えば、シャンとしてなくて意志薄弱である。これは性格というよりも気質なので、変えようがない。鉄の性質、木の性質、水の性質等々のように、それをそれと規定する性質なのだから。

だから私は、いけばなをためらいつつ行う。ああでもない、こうでもないと幾度もためらいが訪れ、その度に足してみたり、かと思うと引いてみる。ためらっている私に、足すなら足し続けろ! 引くなら引き続けろ! と、もう1人の私が発破をかける。しかし、彼の激励は虚しく終わってしまうのが常である。だって、私は文系だから!

文系・理系と区分するのは、現代グローバル社会ではナンセンスという風潮になっているが、私個人としては、文系であることを言い訳として叫んでいたいのである。

講師の事