名声欲と金銭欲 250123
2025/1/24
ああ、不幸にも、名声欲と金銭欲のどちらも捨て難い。これを大っぴらに喧伝するのは恥ずかしいから、世間に対しては自分を禁欲的な人間だと胡麻化したい。究極の選択としてどちらか1つを選べということになったら、さてどうしたものか。名声はあるが金はない、名声はないが金はある。名声で金が稼げるようになるのと、金で名声を買えるようになるのと、どちらが手にしやすい?
仮に、いけばなで名声を得たとする。さあ、それで儲けることができるだろうか? 家元ならいざ知らず、大して儲けられない気がする。では、潤沢に金があるとしよう。ひょっとしたら、新しい流派を立ち上げて大いに宣伝すれば、名声も得られるかもしれない。そう考えると、金だ、金だ。
そういう訳で、今の私は名声よりも金が欲しい。ああ、赤裸々に言ってしまうことは、こんなにも恥ずかしいことなのであった。
お金持ちでないと、いけばななんかできないわよね、という言葉を耳にすることがある。半分当たっていて、半分はずれている。何のためにいけばなをするのかという目的次第で、何事も可能で、何事も不可能だ。
インテリア・デザイン 250122
2025/1/23
建築家と華道家の間に立っているその人は、インテリア・コーディネーターだ。インテリア・コーディネーターは、壁紙や家具や照明やカーテンなどをトータルに取り合わせるプランナーだ。
頼りになるインテリア・コーディネーターは、そのような、目に見えてそこにある物だけでなく、今後、住む人や使う人が増やしていくであろう什器備品や食器や壁飾りや電気製品などにも想像力を発揮する。想像力を発揮すると、インテリアはフレキシブルであること(様々な変化に対して融通が利くこと)が望ましいということに思い至る。
さて、優れた建築家は、当然インテリアに対して大きな思い入れがあるし、華道家もインテリアに対して大いに思い入れがある。華道家について考えると、いけばなをいけた花器をどこにどういうふうに置くかが大問題だ。壁に貼り付ける絵画と違って空間に置かれるいけばなには、必ず背景が立ち現れる。
いけばなは、置かれた角度と見る角度の掛け算によって姿かたちを変えるので、無限のバリエーションがある。その中から唯一無二の場所と向きを選んで設置するのがいけばなだ。
床の間の花 250121
2025/1/21
ホテルの夜は暗い。諸外国のホテルと日本の一般的なビジネスホテルとの違いは、部屋も廊下もエレベーターホールも暗いことだ。照明は間接的なものが多く、照度も低いため、屋内空間の至る所に暗い陰がある。スリランカの英国統治時代のホテルのバーは極端に暗く、バーテンダーの顏さえよく見えなかった。「何でこんなに暗いの?」と聞くと、「夜だから」。
第二次世界大戦後、日本の家は明るくなったと言われる。明るい居宅が平和と幸せの象徴となった。そして、屋内には薄暗い片隅のない、のっぺらぼうの家が建てられた。無意味な空間、機能的でない空間が余っているからこそ、花をいける余地もあったというのに。
伝統的な日本家屋には、床の間が神棚や仏壇と共にある。神棚や仏壇は、神様仏様に祈り敬う空間として一定の機能性があるが、床の間は、昔は殿様や家長が座る家の中心だったものの現在は機能性の低い象徴的な空間になっている。使われない飾り棚とでもいうところ。
そんな床の間に、家長の代わりに主役で花に座ってもらうと、姿が見えなくても家じゅうの背筋が伸びるようである。
季節を忘れて 250120
2025/1/20
四季の移ろいが、人々の生活文化や芸道を支えてきたような日本なのに、なんてこった! とても暖かい大寒だった。
昨秋から暑い日々が続いたかと思えば、急激に寒波がやってきたりして、いけばなで使う花材も例年通りのものは手に入らなかった。特に、南天や葉牡丹、蝋梅などが、年末になっても例年価格ではなかなか見当たらなかった。着る服も食べる物も、品薄だったり価格高騰が大きかった。
既に私の身の回りでは、かつての季節感はほとんど失われ、亜熱帯のような別の季節感が漂ってきている。「移ろい」という生易しいものではなく、切り替わりというような段差的な季節変化である。こうなると、季節を少し先取りするというような風流なことはできない。花木の方に、次の季節を迎える準備ができていないからである。食材も同様なので、人間の体も次の季節に馴染むだけの準備が不足して、大きい変化を被れば当然体調不良を招く。
そういう気候変化と、また、国際化や物流の進展によって、お金さえ積めば欲しい花はいつでも手に入る。愛媛産の「さくらひめ」も、秋には北国産を入手できる。
真似まね 250119
2025/1/20
何を真似るか、誰を真似るか、それによって一生が決まると言っても過言ではない。人生は、どうせゼロからの創造はできないから、母を真似て、父に反発し、長兄を真似て、先輩を真似て、上司に反発しながら、人生が充実していく。
たとえば、仕事上で先輩を真似る場合、最初の内は先輩の行動の意味が全部はわからない。何であんなにペコペコ卑屈なくらい頭を下げるんだろうと、何であんなに心にもなく作り笑いするんだろうと。しかし、先輩本人からすれば、後輩に説明できる十分な論理は持ち合わせていない。理屈よりもむしろ、そのビジネスにおける“土俵”の伝統や慣例、期待されるマナーがあるのだ。だから、先輩を真似ると、意味は分からずとも、自然に業界のルールやマナーが身に付く。その良し悪しは別として。
特にいけばなのような習い事は、教える側に信頼されるための努力が必要で、これはビジネスライクに醸成できる類のものではなく、宣教師のようなストイックさを持ち合わせなければならないようだ。
試行錯誤しつつ真善美を追い求め続けることが、真似られる側の責任なのだろう。