追い求める先 250902
2025/9/2
勅使河原蒼風を追い求めた自分がいる。勅使河原宏に憧れた自分もいる。それは、時空を飛び越えて行った偉人にはもう追い付くことができないという諦めによって、その純粋さはより磨かれ輝いていく。赤瀬川源平や松岡正剛についても同じで、故人はどんどん神格化される一方だ。
そんな彼らには、それぞれ追い求める人がいたのだろうか。求められる人にも求める人がいるという想像は、遡れば遡るだけ果てしのない高みに登っていく。行き着く先は、われわれ無神論者が言うところの漠然とした神で、それでは神は求める相手がいない究極のどんづまりだということなのだろうか。神が求めるのは無なのだろうか。
俗物の1人である私の考えでは、人間界にも海のような層があり(ちなみに、海の上面と下面には境界があって、それぞれ混じり合わない別々の対流構造があることが知られている。海洋深層水の貴重さの根拠でもある)、聖者と俗物は混じり合えないのだ。
そういうわけで、俗物は俗物の尻を追いかけ、その追う者は別の者に追われてぐるぐると円環を成しているのである。いけばなの無間地獄だ。