花いけの日常性 260109
2026/1/9
愛と言い切るのはおかしいし、愛情というほどでもなく、愛着を持っている、というのが私の庭木に対する思いだ。10年くらい前に庭師をお断りして、自分で庭木の剪定を始めたものの、思った以上に大変だ。
さて、人間は毎日の生活でさりげなく言葉を使っているが、それを俳句や詩にすると、生活の言葉ではなく芸術になる。庭木の枝を1本切って、さりげなくウイスキーの空き瓶に挿しただけではいけばなにならないが、意識的に花器にいけるといけばなになり、もっと意識的に立ち向かうと芸術になることもある。
このように、日常的で特異でもない切りばな花材を、特別なタレントに仕立てるのが、いけばなの一面だ。庭の“草木”は、切り取った瞬間に生花それ自身の本質を失い、“花材”と呼ばれる半死の物になり変わる。面倒臭いと放ったらかして、“金の卵”をバケツの中で腐らせることもある。
「切ったからには、よりよい姿に生き返らせよう」という思いで、新たな生を吹き込むのがいけばなだ。花材自身が歓喜するような仕上がりを、日常的にいけられるようになることが、私たちの仕事なのだ。