花とカヤック 240906
2024/9/6
この夏がシーカヤックを漕ぐことなく過ぎる。唐突なことを言ってしまうと、いけばなとシーカヤックは私の心を行ったり来たりさせるこっち側とあっち側にある。重なったり離れたりしながら、私はカヤックに寄せて花をいけていることがある。
どちらも季節季節の移ろいと密接に関係した楽しみ方がある。また、花材がなくてはいけられず、海がなければ漕ぎ出せない。そして、かつての私は月影が星空を映す9月に、誰もいない海辺でテントを張り、堤防の向こうの荒れ野のススキのひそかな集会に耳を傾けたりした。
花をいけるとき視界と意識は狭まり、自分の正体も失ってただ花びらの薄さや葉の厚みを指先で感じる。シーカヤックを漕ぐとき視界と意識は拡がり、自分の正体を失ってただ潮の流れと風の誘いに身を任せる。共通しているのは、私の存在を消しゴムで消すようになくしてしまえること。
もう1つ……。私の花は私が忘れていてもそこにあり、カヤックも私が忘れていてもそこにあること。行ってくるよと言わずに置き去りにしても、ただいまと言わずに気ままに帰ってきても、そこにあること。