見つけるもの 250427
2025/5/2
習い事は、習う側が一方的に受け身で習うものではない。逆に教える側は教える一方ではなく教えられることも多い。師弟間には対話があり、時に役割が入れ替わる(言葉だけでなく、見る=見られるという関係も含めて)。
師弟というのは便宜的な役割分担だ。その場のその時にたまたま担う役割で、恒常的なものではない(先輩後輩関係は不変でも、師弟関係は流動的。人はそれぞれ成長速度が異なり、弟子が師匠を追い越すことは普通に起こり得る)。
また、師匠はいつも全てを語ることはしない。全てを語るためには一生が必要なので、その時語るべきことだけを最小限に語ろうとする。弟子が最大限を得ようと思うならば、師匠が語ることの外に自分で見つけ出さなくてはならない。
また、師匠には語ろうとしても語れない限界がある。花鋏の使い方については、見せることしかできない。だから弟子は教えられるだけでは身に付かず、自分で使いながら発見していくことが上達するためには必要だ。教え方が上手な師匠が理解力のある弟子に教えると、その弟子は自ら発見するチャンスを失うこともになる。