汀州Japanlogo 汀州Japanlogo

いけばな随想
diary

具象と象徴 240514

2024/5/18

「いければ花は人になる」

これは、初代家元、勅使河原蒼風の言葉だ。「いける」行為が伴うかどうかで、地面から生えていた松が、いけばなという作品に生かされ直して先程までの松ではなくなり、いけた人の人格を纏った存在として立ち現れるのである。

昨日は「松をいけて、松に見えたらダメでしょう」という一節を取り上げて、具体的な花木をいけて抽象化を目指す重要性を考えたが、千利休にまつわる逸話で、庭の朝顔を見に来た豊臣秀吉を迎えるために、庭の朝顔をすべて摘み取って茶室にたった一輪を飾った。この朝顔は、確かに利休の思いと手によって演出されいけられた朝顔なのだが、「朝顔をいけて、朝顔に見えなかったらおかしいでしょう」というくらい朝顔しか見えない。

要は、いける際の意図の問題だ。その一輪の朝顔は、本来一輪だけで庭に咲いているということはないので、その意味で非現実的だ。一輪の花を残して見せるのは、デフォルメ(削除と強調)の極限で、全くもって朝顔にしか見えないいけばなも、この世の具象の朝顔ではなく、別世界の象徴としての朝顔かもしれない。

講師紹介