論文のような花 241218
2024/12/20
共通の文化的伝統を持つ相手には、作品自体が語るものであって、作者が多くを語るべきではないとされる。だから、俳句もいけばなも、作者が多くを語り過ぎると解剖学的に作品を分析して解説するようなものとなって、面白味がなくなる。
絵画は世界的に昔からコミュニケーションツールだったから、その意味で世界共通語を作品自体が話しながら一人歩きできる。ハーバード大学には剣道部はあるが華道部はないようなので、いけばなの魅力や見方を伝えるためには、専門用語の通訳と文化的理解を促進させる通訳の2人が必要だろう。
私の教室にも、愛媛大学留学生の中国人やルーマニア人が来たことがあるが、言語的に理解してもらいたいことと、文化的に(感覚的に)伝えたいことがあった。だから、多くの言葉で語り合うことが必要だった。
そして結果的に、いけばなに設計図を求められたり、論理的な説明(まるで論文)を求められたりした。こちらの文化と相手の文化が違うとき、互いの理解のためには想像力だけでは埋まらないギャップがある。自明のことが自明でないときは、相当やっかいである。