どれも正しい 250403
2025/4/4
こっちが正しいと主張すればするほど、あっちが正しいという理由が出てくる。そうなのだ。一切主張しないところには反論も反証も出て来ないが、何かをチョロッと主張するとチョロッと反対意見が出され、グイッと主張するとグイッと反論がなされる。
正しさというのは100対0ではなくて、落ち着いて眺めれば眺めるほど50対50に近付く。正しいと思っても思い込みにならない余裕を持たなければ、しっぺ返しが来る。逆にこれはもうだめだと諦めかけたときに判断は間違っていなかったと救われたりする。
いけばなの世界には正しさの基準はない。良し悪しを評価するいくつかのポイントはあり、いけばな各流派で互いに違いはあっても評価結果はある程度一致することが少なくない。
「この枝はもう少し長い方が良かったですか?」と生徒さんから聞かれたら、「長い方が良かったですね」と答えることも「短くていいです」と答えることもできる。もう少し突っ込むと、「テキストに倣えばもう少し長い方が」と答えるか「あなたらしさを出すには短い方が」と答えるか、私にはどちらも許されている。
注意1秒 250402
2025/4/3
交通事故などの大きいもの、階段を落ちたり包丁で指を切ったりするような個人的なもの、放送事故のようなそれが事故と呼ぶほど大袈裟なものとは感じられないものなど、事故には様々あるがきっかけは共通して些細な不注意であることが多い。
3月31日に駐車場で車同士の事故に巻き込まれ、保険会社の過去の事例に照らせば3対7くらいの過失割合になるという予想が示された。自分としては自己正当化の自然な心の働きで0対10くらいの気持ちなのであるが、双方ドライブレコーダーを搭載していたため映像を確認してからの協議になる。
自分の目の届かない他所に花をいけると、予想以上に早い時点で花の一部が萎れてしまったりする。これは「予想に反して」という点でも先程の車の事故と同じで、行き着くところ自分の不注意が原因である。これが野生動物の世界であるなら、食われた方にも同情の余地はない。そう考えると、命があり身体的なダメージがなかっただけでもよしとすべきかもしれない。
しかし、年齢と共に注意緩慢という自戒のもとでいけばなもしなくてはならない今日この頃である。
ストリートいけばな 250401
2025/4/3
昨日は松山市中央郵便局に花をいけた。開店と同時に店内にある展示ケースを開いて作業開始。いけばなを始めて間もない頃からしばらく繰り返してきた取組を、約4年ぶりに再開したものである。
あの当時は目先の作業を手早くこなすことに必死で、それでいながら通りすがりの他人の目も気になり、いけばなに没頭する余裕がなかった。今回感じたのは、他人の目が気にならず気分がとても軽かったことだ。
さて、最近はストリートピアノを弾いている姿をよく見かける。上手い下手ではなく、自分の世界に陶酔しているかのように見える。あれが今の自分の姿かなと思った。散歩がてらピアノを弾くような気軽さ、家でピアノを練習している音が隣家の人の耳に入るような無頓着さ、そういう態勢になれる人がストリートピアノを弾けるわけで、そういう人として私も花をいけることができた。
実は私がカラオケが苦手なのも、他人の耳を気にするからだ。人の耳が気になって早く歌を切り上げたくてそわそわしていた。カラオケも今のいけばなの時のように、他人の存在を気にせずふてぶてしく居座りたいものだ。
思いのままに 250331
2025/4/2
今年度の終わりに当たって、いけばなとの付き合いに終始した1年を振り返る。終始したと偉そうに言い切れるほどの熱中度合いでなかったのは、いけばなを生業として自覚していなかったせいで、副業感覚的に過ごしてしまったからである。副業といっても、本業がないのだから副業もあるはずがないのだけれど。
仮にいけばなを生業にしたらどうなる? そうなると、別の趣味を持たないと、趣味のない人になってしまうではないか! いまのところ、その選択肢はない。
もう一つ煮え切らなかったのは、個人の作家的活動と愛媛県支部長としての社会的活動とを併行させる中で、一般の人々のニーズと内部のメンバーのニーズを探り過ぎたことにある。ニーズの縦横の網目に囚われてしまった私は自分の主体性を見失い、種々多様で茫漠としたニーズの砂漠から抜け出せなくなっていた。
この態度は、私の幼少期から備わった気質であるような気がする。もっと思いのままに動けばいいではないかと、傍若無人なもう一人の私が囁きかけてくる。まもなく始まる来年度は、徐々に血を入れ替えて少しわがままに臨みたい。
ズレ 250330
2025/4/1
人の感覚にはズレがある。自分は相当に急いで仕事に取り組んでいるのに、相手にしてみれば「何をのんびりしているんだ!」と気がせいて仕方がない。また、自分がいけた花がちょっと派手過ぎたかもしれないと心配しているのに、いけばな仲間から「もっと豪華にしても良かったんじゃない?」と暗に地味過ぎると指摘されもする。
たとえば着物を着て華展会場に立ってみると、相反するニュアンスで人の反応が表れる。ある人は、着物を着ている姿に対して、経済的余裕があるのねという目で見ている。ある人は、着物の人が会場にいると、それこそ華があっていいと感じてくれている。ある人は、着物の柄や色味に対して粋だねと心から褒めてくれる。しかし、着物自体が贅沢品になってしまって、着物を着る行為に侘び寂びが入り込む余地がまるでないのだろう。いけばなもいけばな展も侘び寂びを表現するものではない、そういう時代の感覚である。
時間的にも空間的にもどんどん詰めて、密度の高い“充実した”生き方に価値を置く世界になっている。自分よりも重い獲物を担いでは、鳥も飛べまいに。