汀州Japanlogo 汀州Japanlogo

いけばな随想
diary

ホームレス 241119

2024/11/19

 いけばな教室の2階のベランダで、しばしば毛づくろいや昼寝をしている若い黒猫。ホームレスの野良猫で、さしずめ住民票の住所が私の教室のベランダ、本籍はお向かいさんの玄関先だ。
 本籍地には、彼のために食事を毎日自転車で持ってきてくれるおばさんもいて、お向かいの奥さんと育ての役割がシェアされている。水色の首輪も付けてもらい、病院にもちゃんと連れて行ってもらっている。一方、住所である私の方には庭木の茂みの自然トイレが完備されているし、近所で市民権を得ているので、別宅や別荘も数知れない。甘え上手なホームレスだ。
 さて、朝日新聞の投稿歌壇に現れたホームレスについて、三山喬のノンフィクション『ホームレス歌人のいた冬』がある。また、昭和前期の華道界に分け入った早坂暁の『華日記』もある。表現欲求が優先するあまり暮らしが破綻する人もいるし、暮らしが安定しているからこそ表現行為に邁進できる人もいるということを考えさせられる本だ。
 いけばなのためにホームレスになることも厭わない、またはそれに準じるような人々が実在した。今では考えられない。

意見の表明 241118

2024/11/18

 先日の衆議院議員選挙での私の投票内容については、誰にも話していない。ところが合衆国の大統領選挙を見ていると、多くのアメリカ国民が熱烈にトランプ支持を大声と大きな身振りで表現していた。
 いけばな教室では、生徒さんの顔色によって「何故そのようにいけたの?」と聞く。自分の意図を他人に話し、いけた結果について他人の意見を仰ぐのは勇気がいる。他方、意見をする側の人にも、一定の発言責任を背負わせることになり、他人への意見は勇気と精神力が必要だったりする。奥ゆかしい日本人にとって、「なんとなく」と言っておくことで済んでいた時代は、もう過ぎてしまったのかどうなのか。
 いけばなは、私以上に意思表示しない日本人によって育まれてきた。以心伝心で「わかってくれるだろ?」「うん、わかったような気もする」で済んできたところもある。
「SNSの活用」などと特別なことのように言っている私は、もう過ぎた時代の人間で、現代人はそれを話題にすらしない。積極的に表明することも、積極的に隠すことも、当たり前のように使い分けられるのが現代人なのだろうか。

四角い風景 241117

2024/11/17

 故赤瀬川原平さんの本に『四角形の歴史』がある。カメラのファインダーが丸くなく四角であることから話は始まり、犬は人間のように“風景”を見るのだろうか? という疑問に話は吹っ飛んでいく。
 人間だって、みんながみんな同じ風景を眺めていると思うのは幻想である。知人の店では、いけている花が目に入らなかった客が、枝先に服を引っかけて花瓶ごとひっくり返してしまった。その客の見る風景に、花は意識されていなかったということだ。人が見る風景は、彼や彼女が意識して見たものだけで構成されているということ。
 そう考えると、いけばな展に来ているくせに全然花を見ず、花を見ている女ばかりを眺めている男がいるのも頷ける。花を見ず女ばかりを見ている男を見ている私は、その時やはり花を見ていない。
 再び戻って四角い話題である。何を意識して見ているかは人それぞれだが、赤瀬川さんが問題にするのは、みんな四角い窓から外を見るように、四角いスマホみたいな視界で風景を見る癖がついているのではないかということ。いけばなを見るにも丸く見ないで、みんなも四角く見ている?

出来事 241116

2024/11/16

 人と交わらず1人で暮らすとすれば、出来事(ドラマ)があまり起こらないのではないかという気がする。出来事は、文字通り何かが出来上がる事だが、たとえば、私が1人でいけばなを制作して出来上がったとしても、それを出来事とは呼ばない。それはせいぜい、出来上がった物で“出来物”でしかない。
 ということは、私の行動が出来事になるためには、私がやっていることに対して、私以外の力が1つ以上加わって、偶発的要素を伴って出来上がる事が必要なのである。何者かを加えた共同作業を行うことで、出来事は起こるべくして起こるのだ。
 ということは、人生をドラマチックなものにしたければ、誰彼構わずたくさんの人と交わることだ。そのドラマが、悲劇になるか喜劇になるか、あるいは静かな安らぎの物語になるか、当たるも八卦である。しかし、花のちからを借りた出来事は、たいてい前向きになれる明るい生命力を宿している。
 いけばなは、偶発性が高いのが魅力である。師弟間の仕掛け合いの妙と、花材の偶然的な性質による挑戦的な態度によって、いけばなはドラマチックな出来事になる。

社中とは 241115

2024/11/15

 ソサエティである。結社とか仲間というくらいのもので、社会というほどの大きさを持っていない。また、会社とか町内会のように、定款や規約というような制度化したものでもない。あるとすれば、一般常識の範囲でのタブーくらいか。
 草月流でいうと、1人の共通の先生のもとに集まった人のグループを社中と呼んでいる。そして、私がそこに求めようとしているのは、よそよそしい規律社会ではなく、緩く解放された小さな田舎の駅の待合室みたいな場所だ。人々は、その駅から電車に乗って先の駅へ向かう。終着駅を目指す人もいれば2つ先の駅で降りる人もいる。乗換駅で都会への路線に向かう人もいるし、山へのバスに乗り換える人もいる。
 雪の日は、その待合室の土間にはストーブが焚かれる。顔見知り同士が、長椅子に腰かけて水筒の冷めかけたぬるい茶を分け合ったりする。私はさしずめ駅長であるが、運転士と入れ替わることもある。安全運行を心掛けながら、乗客がうとうと居眠りしている隙に、銀河鉄道のように空を走らせることもある。
 乗客は、それが夢だったのか現実だったのかわからない。

講師の事