水仙 260116
2026/1/16
見るのはいいが扱うのはちょっと、と言う人が多い花材、水仙である。この正月に、護国神社に1瓶いけさせていただいたのは、そんな苦手意識を克服せんがためでもあった。
水仙の扱いとして、葉よりも高い位置にある花を、葉よりも低く組み直す「葉組み」という方法が用いられる。ところが、花菖蒲については、花を垂直に高くいけて、葉をそれよりも低くする。似たような形に思える水仙と花菖蒲なのに、よく見ると異なることに気付く。
水仙の花は、元気のあるなしによらず、やや俯き加減である。だから、葉先よりも高い位置に花があると、全体的に俯いた印象だ。だから、上に伸びた葉を高くすることで、伸びやかな印象を与えることができる(と私は思う)。春の花菖蒲は、大きな花びらを上に向いて咲かせるので、混み合った葉の間にあるよりも、上に突き抜けている方が花を強調できる(とテキストに書いてある)。初夏のかきつばたは、花を葉先の高さと同じくらいにする(というのは何故だろう)。
すべて、日本人の美意識によって醸成されてきた型なので、何故? と問い続けながら尊重したい。
苔梅 260115
2026/1/15
護国神社に奉献した正月花の手直しに行った。今日は、多くの若者が清掃奉仕をする姿が目立つなかで、梅の古木に張り付いた苔を注意深く削ぎ落としている高齢者が1人。
せっかく風情のある苔を、なぜ落とすのか理由を聞くと、「例年これをしていた人が、去年体調を崩して手が付かなかったから、今年は自分がボランティアでやっている。苔が付いたままだと木が弱るから」。私はそんなことも知らず、苔むした枝の「苔梅」を、ただ貴重な花材として認識しているだけだった。
茶器の歪みや割れや欠け、金継ぎなどの景色を愛でる美的感覚と、ゴツゴツした荒れ肌にも見える苔梅を愛でる感覚は、少しは似ているのではないだろうか。そしてこれらは、日本人の特筆すべき性分なのではないだろうか。そう考えて「いや、いや、いや」と即刻否定する私。
茶器については、そういう“へうげもの”を好む“織部好み”は伝統的感覚でも、花器については聞いたことがない。現代の花人が苔梅を好む理由が、高額だからというだけでは哀し過ぎる。霧の舞う山蔭に苔むす枝に、赤い蕾がふくらんでいる梅は美しい。
性懲りもなく 260114
2026/1/15
性に合うと、そこでは損得勘定が消え、ただ面白さだけに身をやつすことになる。職人気質というものかもしれない。思い返せば広告会社で営業をしていた頃、顧客に企画を説明し料金交渉している時よりも、残業して企画書をひたすら作成し続けて朝を迎える方が、充足感が大きかった。
今でも、ワーク・ライフ・バランスというバランスの取り方が、腑に落ちていない。ノリというものは、授業時間のように区切られた時間の長さに収まることがない。長距離ランナーのレースでの駆け引きも、不意にスピードを上げてライバルを揺さぶったり、早目にスパートをかけて相手の気力を萎えさせたりと、時間の使い方のリズムに濃淡がある。
彼らのリズムの変化には計算もちゃんと働いているだろうけれど、私の場合は夢中になっているから、全く計算がない。トランス状態というか、スポーツにおいてゾーンに入ったという状態だろうか。
いけばなは、外から見ると、何年も同じことを性懲りもなく繰り返しているに過ぎない。が、やればやるだけ、1秒を削るアスリートのように、奥深さが見えてきてやめられない。
カマキリの卵 260113
2026/1/13
先日、お稽古の蠟梅(ロウバイ)の枝に、カマキリの卵(卵鞘)が1個ついていた。苦手な人にとっては、見るのも嫌だし触ることなど考えられないかもしれない。幸い、その枝で稽古に臨んだ人は、当たり前のこととして使って、平気で持ち帰ったように見えた。しかし、温かい部屋に置いておくと、万一孵化するかもしれないと後で思ったことを、本人にはまだ伝えていない。
花材には、よく見ると、虫や卵が付いていることが少なくない。特に産直市で購入した場合には……。花店で仕入れるときは、出荷者が予め選別したものが市場に出て、それを花店が購入して店頭に並ぶので、多くの人の目を通るぶん安心だ。
過去にはミノムシや、カメムシ、アオムシなど、「ムシ」の名を持つ虫が付いていたことも結構ある。私は、カマキリやアリやクモなど、「ムシ」でない虫の方が苦手ではない。
さて、教室の庭には、化学肥料や化学薬品を何年も撒いていない。それで、サルスベリにウドンコ病が生じたり、アメリカハゼの立木にアリが巣を作っていたりする。セミの抜け殻がやたら多いのは、嬉しいことである。
剣山 260112
2026/1/12
いけばなは、いける行為といけられる花とが合わさって成立している。そして、映画においてエキストラが重要な役割を果たすように、いけばなにも隠れて目立たない役者が存在する。
いけばなで一番目立つのはもちろん花で、次が花器、そして敷板や台を使っている場合はそれらがそのまた次の存在だ。そして、陰の代表が剣山である。水盤を使って「盛花」をいけるには、剣山がどうしても必要になる。しかし、隠されなくてはならない。「いないことにしてくれ」と要求される役者なのだ。
料理の世界でも、ダシは味を支える決め手なのにも関わらず、最終的には隠れて見えない役柄に甘んじる。人間社会においても、同じような役を引き受ける人は多い。しかし、そこに脚光を浴びせようとすれば、有難迷惑になったり、時として恨まれたりすることもあるから注意が必要だ。
私の生徒さんで、剣山を10個高く重ねて主役とし、それに花を添えて作品となした人がいる。びっくりさせられた。そういう主客逆転の行為も、いけばなでは許される。実生活では試みえない剣山革命、素敵で楽しいクーデターであった。