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いけばな随想
diary

検査といけばな 260302

2026/3/2

 今日は心臓のエコー検査日。年に2~3回受けている。何年も前の初めの頃は私の担当医が自ら行っていたのを、だんだん彼の監督の下で若い人がやり始めた。受ける側としては、検査用のスティック(?)を胸に押し当てられる力が強過ぎると痛かった。今はまた違う人が担当している。この人が医師なのか技師なのか聞いたことがないけれど、痛くない。
 エコー検査は、精密そうなデジタル機器を使いながらも、人の手指の感覚で患者の皮膚に棒状の物を押し当てて探索する。患者も息を吸ったり吐いたりして協力する。その両者の力学関係については、計算からは導き出せない。医師の手の力と、患者の皮膚や筋肉の柔らかさや厚みなどによっても、二者の関係は一定しないからだ。
 いけばなも、作品が自立するための構造計算はしない。手指と花材の両者がが話し合いをして、「この硬さや粘りがあれば、この高さまでいけるでしょう」などと決定する。相談がうまくいっていないと、いけばな展の会期中に倒壊する。
 技術と感覚とは、両方が仲良く働いてくれないと、仕事もいけばなもうまくいかないのである。

技術と感性 260301

2026/3/1

 技術は教えたり習ったりできる。大抵の技術は理にかなっているので、言葉や図によって説明が可能だからだ。一旦コツを掴むと、努力によって技術はどんどん上達もする。
 冬季オリンピックを見ていて思ったことは、アスリートの技術は身体能力に負うところが大きくて、理解しただけではどうにもならないし、空中で回転する自分をコントロールできる能力などについては、向き不向きも大いにあると思った。分かることと出来ることとは別物で、努力だけでは修得できない技術があるのだ。
 いけばなを始めた頃の自分を思い出すと、かなり恥ずかしい。花に対する感覚が鈍かったのだろう。感性が発達していない分野に対しては、人は鋭い感覚を持ちえない。見ても触っても、感動が湧きにくいというか、どこに対してどういうふうに感動したらいいかがわかっていないのである。感性がいいと、感覚が働く。感覚が働くと、技術の修得にも積極的になれる。
 感性がよくないと、技術の修得は難しいが、逆の順番で、技術を磨くと感覚が発達し、感覚が発達すると感性も伸びるということがあるかどうか、興味深い。

他流いけばな 260228

2026/2/28

 他流派のいけばな展を見た。いいなあと感じる作品が多くて良かった。展示の構成も良かった。現物展示による様々な型の解説や、壁作品や吊作品などのバリエーションにも心が踊った。いけばなの基本的な技術は、切る・矯める・留めるの3つで、それらすべてについて、私たちの草月流とは異なる技法も随所に見えた。
 今まで何度も見てきたにも関わらず、今回改めて感じたことも多い。オクラレルカの葉など、葉ものの使い方の美しさが際立っていたこと、枝ぶりのつくり込みが私の感覚を跳び越えていたこと、水を見せる意識が高いこと、たくさんの花材を使った作品だけでなく一種いけも少なくないこと、木の皮や枯れかけた枝葉などを積極的に使っていること、葉の減じ方や枝先の微妙な矯めなど細部への配慮が行き届いていること等々。
 全部に「参りました」と言うのは悔しかったので、一矢報いるポイントはないかを探して、異質素材の使い方と、造形的な大胆さにおいては、草月に分があるのではないかと、そんなことを思いながらグイッと近接した撮影をしていたら、係の人に注視されていて弱った。

記録 260227

2026/2/27

 スケッチは重要だという話。いけばなの稽古が終わったら、写真に撮っておくことは誰もがする。加えて、自分のいけばなをよく観察して、スケッチに残すことを誰もがすべきである。スケッチをした方がいいことを、私はその理由も含めて1度は語ることにしている。状況によっては2~3度しゃべる。
 しかし、親子関係でもない大人同士なので、それをしなかったら破門だということではないし、「歯を磨きなさい」と親が子にしつこく言うような責任も感じない。
 たまたま『宮大工 千年の知恵(松浦昭次)』をめくっていると、次のフレーズに出くわした。「写真を撮れば簡単ですが、絵を描くということは、そのものをよく見るということになりますから、カメラのファインダーから覗いている時は気づかないようなもの、見逃してしまいがちなものにも気づくことになります」。
 先日、同じ教室でいけばなを習っていた年下の女性に、最近の私のいけばなの写真を見せた。彼女は、「玉井さんも随分上手になったじゃない!」と褒めてくれた。この嬉しさもちゃんと記録しておこうと、ここに記す次第である。

覚えないこと 260226

2026/2/27

 本人の自覚はなくても、1つのことを長く続けていれば、頭で覚えていることも、体で覚えていることも増えている。身に付くというのは、まさに体で覚えた好ましい状態である。
 ところが、間違って身に付いてしまった悪癖もある。私は、つい最近まで、いける時には必ず花器に水を張って、という指導を怠っていた。この良くない状態をやり過ごしてきた原因の1つは、短時間なら乾き切らないだろうという怠け心があったこと。もう1つは、水を張った水盤に木屑が浮くと掃除が大変だからという、これも怠け心である。
 世の中には、覚えるよりも忘れた方がいいものがある。私はだいたい、茶碗(抹茶席で使う形状)の形をした花器が苦手だ。苦手意識を1回でも持つと、その意識は次第に濃く沁み込んでくる。早い時点で取り除きたいが難しい。
 また、最近はSNSなどによって、“時短いけばな”とでもいうような技が披露されている。そもそも、いけばなは急がない。少なくとも、華道においては、度を超えた時短は無意味であるどころか、ブザマである。何を見て、何を見ないかを選ぶ行為も華道である。

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