思いのままに 250331
2025/4/2
今年度の終わりに当たって、いけばなとの付き合いに終始した1年を振り返る。終始したと偉そうに言い切れるほどの熱中度合いでなかったのは、いけばなを生業として自覚していなかったせいで、副業感覚的に過ごしてしまったからである。副業といっても、本業がないのだから副業もあるはずがないのだけれど。
仮にいけばなを生業にしたらどうなる? そうなると、別の趣味を持たないと、趣味のない人になってしまうではないか! いまのところ、その選択肢はない。
もう一つ煮え切らなかったのは、個人の作家的活動と愛媛県支部長としての社会的活動とを併行させる中で、一般の人々のニーズと内部のメンバーのニーズを探り過ぎたことにある。ニーズの縦横の網目に囚われてしまった私は自分の主体性を見失い、種々多様で茫漠としたニーズの砂漠から抜け出せなくなっていた。
この態度は、私の幼少期から備わった気質であるような気がする。もっと思いのままに動けばいいではないかと、傍若無人なもう一人の私が囁きかけてくる。まもなく始まる来年度は、徐々に血を入れ替えて少しわがままに臨みたい。
ズレ 250330
2025/4/1
人の感覚にはズレがある。自分は相当に急いで仕事に取り組んでいるのに、相手にしてみれば「何をのんびりしているんだ!」と気がせいて仕方がない。また、自分がいけた花がちょっと派手過ぎたかもしれないと心配しているのに、いけばな仲間から「もっと豪華にしても良かったんじゃない?」と暗に地味過ぎると指摘されもする。
たとえば着物を着て華展会場に立ってみると、相反するニュアンスで人の反応が表れる。ある人は、着物を着ている姿に対して、経済的余裕があるのねという目で見ている。ある人は、着物の人が会場にいると、それこそ華があっていいと感じてくれている。ある人は、着物の柄や色味に対して粋だねと心から褒めてくれる。しかし、着物自体が贅沢品になってしまって、着物を着る行為に侘び寂びが入り込む余地がまるでないのだろう。いけばなもいけばな展も侘び寂びを表現するものではない、そういう時代の感覚である。
時間的にも空間的にもどんどん詰めて、密度の高い“充実した”生き方に価値を置く世界になっている。自分よりも重い獲物を担いでは、鳥も飛べまいに。
弘法筆を選ばず 250329
2025/3/29
無理を承知で書道と華道を見比べると、紙に対して筆によって墨で書く書と、花器に対して鋏によって花をいけるいけばながある。弘法大師ほどの達人になると筆に頼らないでも見事に書き上げられるという意に対しては、いけばなの達人は出来映えを鋏のせいにしないということになるが、それでは深みに欠けるので、「筆を選ばない」に対して「花を選ばない」ということに置き換えようと思った。
ウエディング・ブーケなどハレの場面では、トルコキキョウやバラやランの仲間などの人気が高い。花そのものが持っている華麗さや高貴さなどは、そこに立っているだけで目立つ女優のような存在なのだ。
一方で菜の花や虎の尾のような、ハレのイメージを持ってもらえない花たちがゴマンといる。いけばなの原点は、身の回りの花々をいけるところに発しているはずなので、どちらかといえばケの花材を用いていけてきたし、表現の方向として侘び寂びが意識されてもきただろう。
他人の持っている先入観やイメージを捻じ曲げることはできないが、ケの花の魅力を見つけ出すような姿勢を忘れないでおきたい。
花屋の出会い 250328
2025/3/28
花屋にはいろいろな花がたくさんあった。しかし客が減ると仕入れも減る。量も減るし種類も減る。少しつまらなくなった中で、小さい花屋は比較的特徴的な花を仕入れていて面白い。値段が高いのはしょうがない。面白いのは産直市の花卉売場だ。見慣れない花を比較的安く買える。
先日はコブシを買った。ほんのり薄桃色の花びらが縮れていて見栄えが悪いと感じられるからか、思った以上に安かった。買ってみると花びらが散るのが木蓮のように早かったが、遠慮がちで透明感のある香りが部屋中を浄化してくれるような気がして好感が持てた。
小振りな水仙も買った。黄色い花の直径が2cmくらいで葉がとても細い。細ネギの1本よりも細くひょっとしたらアサツキよりも細い。しかし、その小さな花の部分はどれもが綺麗に整った開き方をしていて、花のアタマだけ切り取って水に浮かべると、そのままテキスタイルのパターンに使えるデザインになった。
生花をネット注文できる時代でも、花屋に足を運ぶと思わぬ出会いがある。目的の花のことを忘れて目移りしていると、別の花を買って帰ることも多い。
せっかちいけばな 250327
2025/3/27
修行の足りない私は、いけばなと瞑想とを同時的にモノにできないし、いけばなを侘び寂びとは逆の方向に持って行きがちである。つまり、腰が据わって落ち着いた、隙はないけれどゆとりのあるいけばなになっていない。恥ずかしながら気ぜわしくジタバタしてせっかちだ。
要因は目先の欲である。誰かの目に留まる花をいけたい。目立ちたがりだ。SNSの普及によって、先進国の人々の多数がそうなってしまっているし、その状況を仕方がないと思い、または人一倍積極的に活用している。悪意をもって言えば、狡賢く自分本位の人間が増えてきた。そして、私も流されている。
どのように生きたいのかと落ち着いて自問すると、ゆったり、穏やかに、明るく健康的にというような言葉が浮かぶ。せかせかと、人を踏み台にし、自分の存在感をアピールすることにはいささか疲れたはずなのである。
それなのに欲が消えない。心頭滅却すれば……という境地に至るのは困難な道である。人生においてどの枝を切ってどの枝を残すべきか、考え方はいけばなで熟知しているはずなのに、徹底できないもどかしさなのだ。