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いけばな随想
diary

ジ・エンド 250625

2025/6/25

 毎週TV放送される『ゴールデン洋画劇場』『金曜ロードショー』などを楽しみにしていた時期、映画館では2本立て・3本立ての上映が行われていたと思う。映画は庶民の代表的な娯楽だった。1980年代くらいまでに製作された映画の終わりに、洋画は「The End」、邦画は「終」と字幕が出て、観衆はホゥっと息を吐き肩の力を抜くのだった。
 競技スポーツでは、ルールに従って試合は自動的に終わる。食事は、お腹が一杯になるか料理がなくなると必然的に終わる。
 演奏や芝居の場合も、楽譜や台本が終われば終演である。そういう外部的な制御に拠らないいけばなは、どのタイミングで終わりにするか、絵描きと共通する課題だろう。どの時点で、ホゥっと息を吐き肩の力を抜くか。「このへんで出来上がり」と制作者がつぶやいても、どのへんで出来上がりとしたのか、見ている他人には全くわからない。見ているほうも、仕方なくホゥっと息をつく。
 絵の場合は、これ以上絵具を載せられないという感じで終わるかもしれない。いけばなは、その時点でちょちょっと枝葉を整理し始めて、終わらない。

見えていないもの 250624

2025/6/24

 写生大会は、私の得意とするところだった。小学校の図工の先生と中学校の美術の先生に褒めそやされたからだろう。写生に熱中しているとき、私の眼と意識で捉えているものが描かれる。逆に私の目が捉えていないものは省かれるし、見えていても意識的に見えていないことにしたいものは描かれない。そうして、見えているものや見せたいものが強調され、見えていないものや見せたくないものは省かれる。
 高校では何を描いて何を描いていないか、純粋な創造意欲がなかったから覚えていない。その頃は好きになった異性や好きになったロックバンドばかりが私の世界を占めていて、絵を描いたりする暇のない美術部員だった。
 次に描き始めたのは大学になってからで、それは写生ではなく妄想の表現だった。見えているものは描かず、見えていないものが対象になった。この作業は、無意識的に日常生活や仕事の場面でも行われていて、都合のいいものはよく見えるが、自分に都合の悪いものは全く見えない。
 いけばなも同じであるが、見えない空間を見せたいという気持ちが強過ぎると、いけている花を見失う。

伝統とモダン 250623

2025/6/24

 いけばなに、花器はなくてはならないパートナーだ。愛媛には磁器産品として「砥部焼」があり、伝統的産品の代表だ(とされている)。私たちはそれに花をいけて、日本の伝統文化の一翼を担っている(と思っている)。
 近頃はクラフトマンを職人と呼ぶことが減ってきていることに、みんな気付いているだろうか。私は、職人という言葉を使う人と、それ以上に職人そのものが減ったことが原因だと思っている。
 そして感じるのは、陶磁器を手掛ける職人さんの中でも、職人気質を捨ててアーチストを目指している人が増えたのではないかということ。少なくとも私はクラフトマンではなく、職人気質も持ち合わせていない。申し訳ないが、いけばなをする多くの者もオリジナリティを追求するばかりで、実際には伝統をわかっているフリをしているだけだ。
 ところが最近、私が欲しいと思う花器のラインナップに変化が見られる。いけばなを始めた頃は、モダンな花器や見慣れない花器に目が奪われていたのが、だんだん古い花器に目が向くようになってきた。私の中に、伝統的いけばなのセンスが芽生えつつある。

カラオケ 250622

2025/6/22

 なるほど、カラオケは日本人の文化の象徴だと思った。プロが歌う原曲があって、別のミュージシャンが歌うカバー曲があり、大勢のアマチュアが歌うカラオケがある。つまり、頂上が高いぶん裾野も広く、様々な取り組み方があるという、その分野が隆盛する理想的な人口分布を示している。
 かつての野球もそうだった。どこの子供も野球で遊び、部活の人数も多く、高校でも野球部がグランドの使用権第一位の座を占めていて、テレビの野球中継が一家だんらんだった。
 いけばなだって、負けていない時代があったようだ。私も関わっている商業高校の華道部には、ざっと100本以上の花筒と200個以上の水盤があって、その他の花器も100個はある。それらが部室の2つの押入れに入りきらない。部員が何人いたのだろう。
 時代が下り、いけばな人口が減ってきた。一方、外国ではIKEBANA人気の高いことがSNSで確認できる。カラオケも日本語の発音がKARAOKEとしてそのまま普及しているようなので、IKEBANAも、もっともっと広がることを期待したい。いまの時代は何事も国境を越えて行くし、国境を越えてやってくる。

解釈 250621

2025/6/21

 いけばなの資料を束ねているファイルの表紙に、「解釈してはいけない」と書いたのは5年くらい前のことだ。
 私は、他人のいけばなの純粋な鑑賞者でありたいのだが、いけばな教室を主宰しているからには、全く解釈しないで済ますことは契約違反のような気がして悩ましい。
 美術館に行って絵を眺め、即座に「好き」「嫌い」と感じる作品もあるが、大抵は「気になるけど、(自分の気持ちが、すぐには)よくわからない」という具合で、感じるまでに相当時間のかかる場合が多いのだ。『プレバト』の夏井いつき先生の居合抜きのような即断コメントを見るにつけ、ああいう瞬発力が欲しいものだと羨む。つまり、瞬発力のない私が講釈を始めると、ああだこうだと屁理屈を喋ってみたり、却って分かりにくい比喩を用いたりして、聞く方が煙に巻かれてしまうのである。
 表現の世界には、衝動がある。共感や直感的な喜びがある。他人の作品に対してもそこを掴むことが大事で、周りからじわじわ解釈していくというのは本質を掴み損ねることになる。そう思って、解釈するけど「解釈してはいけない」と書いた。

講師の事