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いけばな随想
diary

ハーモニー 240403

2024/4/6

 性格の違う花を一緒にいける……と言っても性格まではわからないのだが、花によって萎れるタイミングはどうしても異なる。
 いけばなには「一種いけ」があるとはいえ、大抵は「枝もの」と呼ばれる木と、「草もの」と呼ばれる花を組み合わせて、2種以上の花材でいけることが多い。そして、「枝もの」の方が「草もの」よりも長持ちするので、自宅のいけばなとしては、命の長い枝をベースにして、萎れた花を入れ替えながら長持ちを図ることになる。
 世間には、絵画や映画・演劇など、材料や配役を組み合わせた表現が多く、単独・単一の表現というものの方が見つけにくいくらいだ。しかし、料理でもそうであるように、異種を組み合わせて作り込む方が味に深みを出しやすいという点では異論はないだろう。演奏について言えば、もちろんソロピアノの演奏にはそれとしての魅力があるが、オーケストラを構える方が、ソロ演奏をも含み込めるという点で表現の幅が広がる。
 しかし、学校のクラス編成で苦労するように、いろいろな生徒を1組にまとめるのは至難の業で、数が増えるほど大変なのであった。

主役交代 240402

2024/4/6

「いけばなは、構想が先にあるのですか? それとも、この花をいけたいという欲求が先にあるのですか?」と聞かれたことがある。正直、その時々のことである。
 先頃、らせんの具合がとても魅力的なキウイの蔓に出会った。それを活かせるように花器を選び、組み合わせる花も選んだ。そして、主役となる蔓を目立たせるように、いけ終わった。ところが、どうもしっくりこないのである。脇役となる蔓や花をいじっていると、だんだんサマになってきた。そして、最後の最後に主役と決めていた蔓を引き抜くと、完成した。
 全体のハーモニーにおいて、それを乱すのは特徴的で存在感のある枝ということになる。皮肉なことではあるが、主役級だからこそ交代させざるを得ないということは多い。
 ドラマのキャスティングなどでは、どのように解決させているのか事情は知らないが、おそらく脚本がしっかりしているから、主役の交代が起こりにくいのだろう。そんなテレビドラマでも、放送途中で脚本を書き替える必要が生じることもあるようだ。
 なおのこと、いけばなでも事前のスケッチが必要だということか。

材料と作品 240401

2024/4/6

 高級店でディナーを食べると、数万円の支払いが生じる。客は「おいしかった!」と満足して支払う。超高級店でディナーを食べると、十数万円の支払いが生じる。客は「とてもおいしかった!」と満足して支払う。
 日頃、いけばなの稽古で使う花材代は千円程度に抑えている。花展に出品する際には数万円かけることもあるし、特注花材を使って花器も特注したりすると、費用は青天井だ。
 そんなふうに材料にお金をかけると、「あの桜は立派ねえ」とか、「あんな素敵なガラスの花器は見たこともないわ」と言ってもらえる可能性は高い。しかし、作品として高い評価を受けるかどうかは未知数だ。逆に、ありあわせの花と器で素晴らしい作品を作り得たとき、作家冥利に尽きるはずである。
 私は、作品とそれをつくった作者の構想やアイディアを見て欲しいのだが、花展の場が百貨店である場合、花そのものの美しさや高価さを見せたくなるジレンマを抱えがちだ。華やかな場に合わせて華やかないけばなを見せることをどうにか超越して、美術館に出品されるアート作品のような表現ができるようになりたい。

マンネリ 240331

2024/4/6

 有名な小説家や画家であれば、それは作風とか画風と呼ばれるかもしれない。スタイルとして、価値あるものとなる。
 しかし、それが凡人である場合、同じようなスタイルの継続はマンネリと呼ばれて、軽蔑の対象になってしまう。
 この差は何だ? と考えた。つまるところ、水戸黄門の「この印籠が目に入らぬか!」という権威レベルになると、人々は安心して「ははー、恐れ入りましてござりまする」と平伏できるのだ。ここでは、型として肯定的に捉えられるのである。
 しかし、無名の馬の骨ごとき輩が「馬鹿の一つ覚え」を繰り返していると、人々からつまらん奴と見下されるというわけだ。ワンパターンと言われてしまうところのものとなる。
 昨日から、同じ問題について考えてきたので、そろそろ結論付けよう。まず、型、習慣、ルーチン、傾向等々の言葉には否定的ニュアンスがない。マンネリ、ワンパターンには否定的ニュアンスが強いのは、その2語には「新鮮味が感じられない」という評価が含まれていることに尽きよう。逆に、新鮮さを感じさせられれば、有名か無名に関わらずマンネリ脱却である。

パターン化 240330

2024/4/2

 ウチの猫は、10日前後で寝床を次々変える。寒い、暖かいという感覚以上に、彼女なりの緊張とくつろぎの方程式があるからに違いない。
 猫なりに少し環境を変えて、腐ってしまうくつろぎではなく、気持ちが新たになるくつろぎを探しているのではないか。人間も、丸1日、同じ椅子に座って同じ姿勢でいると、気が滅入る。
 私は、夜出かける店も経路も、犬の散歩以上にパターン化してしまった。このままでは、腐る。そして、問題は、私のいけるいけばなもパターン化していないかということ。そうだとすれば、感覚も技術も腐る。時に古い場所に立ち返ることがあってもいいと思うが、必ず新しい場所を開拓し続けなければ腐る。動かない水も腐る。
 野生動物は、ねぐらを複数持っていて、天敵に居場所を特定されないよう命を永らえる工夫をする。私は、ねぐらをたくさん持つようなバイタリティがないけれど、旅芸人の一座やコンサートツアーで世界を回るバンドは偉い。ノマドワーカーも偉いし、コワーキングスペースなどで仕事をする、“私物”にこだわらない個人事業主やビジネスマンも偉いと思う。

講師の事