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いけばな随想
diary

1点もの 240722

2024/7/24

いけばなに、猛暑は大敵だ。花は萎れ、水は腐る。だから、いけ始めからいけ終わりまで、手早い作業が求められる。裏腹なことに、手早い作業を行うためには、いける前の下準備に手間をかける必要がある。どの花材にどの花器を合わせるかによって、作品イメージは180度変わってくるし、料理レシピのように参考になる分量比率が花材に対して示されることはないので、どのいけばなもオーダーメイドというか、手間のかかる1点ものの作品となる。

いけばなには型があるから、既製服をつくるように型にはめたら楽に仕上がるだろうと思われるフシもある。実際に、型があるから、最後の手段としてはそこに立ちかえれば何とかサマにはなる。しかし、それはあくまでも妥協点が見つかるという話で、望ましい到達点ではない。

パリオリンピックの開幕が近くなり、高校野球選手権の地方大会もたけなわの今日、彼らアスリートのギリギリまで攻め切る姿に頭が下がる。私もそうありたくても、何かが足りないのだ。または、諦めが悪くて足り過ぎているのだ。

攻め切るゴールを1点に絞るから1点ものである。

聖なるいけばな 240721

2024/7/21

聖なるものを日頃から意識している人には、対極の俗なるものにも敏感だろう。聖なるものを日頃から意識していない私は、俗なるものも意識しようがなかった。

無理にでも聖なるものを意識しようとすると、私の場合は仏壇のビジュアルと線香の匂いが思い浮かぶ。5年ほど前に実家を改修し、床の間を潰して仏壇を入れていたのを神棚の下の押入れを潰してそちらに移し、壁を塗りなおして床の間を復活させた。かぐわしい香気を感じさせるまでには至っていないが、単に抹香臭いだけではない空間になった。

部屋に神棚と仏壇と床の間の3つが綺麗に整うと、床の間の花は、部屋を使う人に対するもてなしだけではなく、「神様仏様」に向けた献花の性質をまとったのである。部屋のしつらいが、聖を醸し出したことによって、その場のいけばなも聖を意識せざるをえなくなった。そうすると、対極に俗が現れるのも必然である。

問題は、私自身の意識とセンスを変化させられるかどうかである。場に合わせていけばなを聖化させたり俗化させられるかどうか。見てくれる相手への理解の度合いが現れるはずである。

人生の趣味 240720

2024/7/20

小学生か中学生の時、ある姉妹の家に遊びに行った。姉の方は小学校から高校まで同級生だ。姉に促されて妹の勉強机を見せてもらったら、右サイドの引き出し3段の全部が岩石でいっぱいだった。その時の衝撃はずっと忘れない。妹はその後、高校のとき偶然にも美術部の後輩になった。そして、彼女は「地球科学」「地質学」等を教える大学教授になり、今に至る。

宝石が好きな人はゴロゴロいても、宝石ではない石を集める人は少ない。動物か食べ物を扱っておけばテレビ番組は成り立つと言われてきて、それに歌とお笑いを加えれば四天王だ。いけばなは『プレバト』で取り上げられたが、岩石をテーマにした番組は記憶にない。岩石はそれくらいマイナーなのだ。素晴らしい!

メジャーだマイナーだということを吹聴することがナンセンスだと分かってはいるけれど、どっちかって言うと、マイナーの肩を持つ。「少女が小汚い石を集めている」それだけで、ドラマが何篇も書けそうだ。「石の上にも3年」どころの話ではない。少なく見積もっても、あれから50年だ。

私のいけばな歴24年。道半ばである。

生き残る 240719

2024/7/19

私という1人の人間の生死については、あまり考えが深まらない。玉井家の存続に対する心配は、少なからずある。前に飼っていた猫が16歳と9ヶ月で逝って、もう飼うことはないだろうと思っていたのに、2年後に迎えた猫が3歳になった。

生き物の種の寿命は平均の数値としてだいたい定まっているけれど、個々の命は様々な要因でみんな違っている。すべての生き物にとって生活環境はとても複雑で、しかも変化しているから、どんなに長生きのための策を練ったとしても正解はないだろう。

私の場合、厄落としをせず心筋梗塞になったが、仕事のストレスが主因だったかもしれないし、タバコと酒が主因かもしれない。原因は特定できない。勉強したから寿命が延びたという話も聞かないし、食生活や運動に気を配っていても早死にする人は死ぬ。生き残るために何が有利かについて、古来、野生動物と比べて人間の優位性が数え上げられてきたが、いまの人類は危うい。

いけばなを始めてから、よく山を見る。庭木や山を見て思うのは、個が単体で威張っているヒーローの姿はどこにも見えないということだ。

清濁併せ呑む 240718

2024/7/18

善悪と同様、清濁の良否も判定が難しい。本来は対立軸の両端にありながら、「清濁併せ呑む度量」の大きさが経営者や政治家に求められもするからだ。

ファインアートは、大まかにいえば、美しい(芸術的にインパクトがある)こと以外の実用面で役に立たないことを表す。いけばなは実用性のないファインアートだろうかと考えたとき、少なくとも花嫁修行の1つとされた時代においては、いけばなは大いに実用性があったと言わねばなるまい。

しかし、レストランの大壁に絵画が掛けられているとき、その意図は集客装置であるのか、純粋に店主の美への思い入れであるのかは他人にはわからない。いけばなも、玄関にしつらえられた来客へのおもてなし装置かもしれないし、いけばな展に出す作品はファインアートだといえようし、いけ手の意図や見る人の意識によっても違ってくる。

展覧会のいけばなも、単に人気投票の対象になってしまったら、それはエンターテインメントの材料として用いられた(用に立った)として、少なからず濁った性質を帯びることになるのだろう。いけばなも、清濁まぜこぜだ。

講師の事