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いけばな随想
diary

真似まね 250119

2025/1/20

 何を真似るか、誰を真似るか、それによって一生が決まると言っても過言ではない。人生は、どうせゼロからの創造はできないから、母を真似て、父に反発し、長兄を真似て、先輩を真似て、上司に反発しながら、人生が充実していく。
 たとえば、仕事上で先輩を真似る場合、最初の内は先輩の行動の意味が全部はわからない。何であんなにペコペコ卑屈なくらい頭を下げるんだろうと、何であんなに心にもなく作り笑いするんだろうと。しかし、先輩本人からすれば、後輩に説明できる十分な論理は持ち合わせていない。理屈よりもむしろ、そのビジネスにおける“土俵”の伝統や慣例、期待されるマナーがあるのだ。だから、先輩を真似ると、意味は分からずとも、自然に業界のルールやマナーが身に付く。その良し悪しは別として。
 特にいけばなのような習い事は、教える側に信頼されるための努力が必要で、これはビジネスライクに醸成できる類のものではなく、宣教師のようなストイックさを持ち合わせなければならないようだ。
 試行錯誤しつつ真善美を追い求め続けることが、真似られる側の責任なのだろう。

匂わせる 250118

2025/1/20

 日本的な文化は、伝統的に「隠す」文化だった。今のように何もかもオープンに見せるのは、果たしていいことだろうか。昨日はだれだれに会った、今日はどこどこへ行った、さっきはなになにを食べた……。SNSで見せなくても、みんな素敵にそれぞれの1日を暮らしている。
 40年前から情報化がどんどん進み、情報の質よりも量が競われるようになった。媒体として、まずテレビ、次いでパソコン。1日24時間で接することができる情報というのは、人間の五感を総動員してもたかが知れている。それでも、いかに自分がたくさんのことを知っているかを誇らしく垣間見せたかった。
 10年くらい前から、たくさん知っているだけでなく、誰よりも素敵な体験をしていることを晴れがましく伝えたくなった。
 世阿弥の『風姿花伝』の「秘すれば花なり……」という一節は、芸道全般の奥義だと思う。また、芸道だけでなく、日常生活においても同じだと思いたい。人前で物を食べる行為は恥ずかしいことであるという教えは、人前で物を食べるなという禁止ではなく、品性を保って遠慮がちにせよということだ。

前景と背景 250117

2025/1/18

 今日、高畠華宵大正ロマン館のエントランスに、花をいけた。エントランスまでのアプローチが10メートル、途中にテーブル状の大きい庭石や砂利空間、屋外用テーブルなどがあって、どこにいけばなを置くか迷った。ちなみに、美術館や博物館では、生花をいけることによって、万一、収蔵物が虫や花粉の悪影響を被らないため、いけばなを屋内に入れないことになっている。
 さて、最終的に屋根の出っ張りがあるエントランスを選んだのは、この美術館が山裾の寒い立地なので、直接的な冷気で花が傷めつけられないようにという思いである。しかし、エントランスには、美術館の掲示物や傘立てがあるし、広い透明ガラスの壁にいけばなの背面も映り込むし、美術館内部の景色も丸見えというデメリットも大きい。
 また、アプローチから入ってくる客に対して、エントランスは45度の角度があるので、いけばなの正面をどちらに向けるかというのも問題だった。結局エントランスに対して正面を向けた。
 いずれにしても、いけばなは単体で完結するものでなく、前景や背景との複合的な空間がいけばなである。

助演男優賞 250116

2025/1/17

 30歳代の半ばから40歳頃まで、私は冷蔵庫と洗濯機とテレビなしで暮らした。
 冷蔵庫がない暮らしぶりとして、ビールを飲まない。冷えていないビールほど不味いものはない。大吟醸酒のように冷酒で美味しい日本酒も飲まない。では、どうするかといえば、ウイスキーやジンなどアルコール度数の高い酒を飲む専門家になる。それで、今でもウイスキーが7割という飲酒生活である。残り3割は日本酒で、幸い冷蔵庫のある暮らしなので冷やした日本酒も満喫しているが、体に染みついた癖でビールには手を伸ばさない。
 最近つくづく思うのは、酒にも主役を張れる奴と、脇役に甘んじる奴がいるということ。酒だけ飲んで美味いものと、料理や菓子を引き立てるものと、それぞれに魅力があることだ。
 いけばなは、主演したらダメなのかもしれない。空間のしつらえの一部として、脇役の振る舞いが求められてきたのではないだろうか。絵画などは、タレントとして様々な場所に神出鬼没するのが役割でもあるが、いけばなは主演俳優を迎え入れるための、場の提供者の役割を果たさなければならないのだろうか。

いけばなごっこ 250115

2025/1/15

 いけばなの稽古で、面白いやり方がある。批判があるかもしれないが、聞こえないふりをしておく。
 そのやり方というのは、自分が誰か別の人になったつもりで「あの人ならどういけるだろう」とチャレンジするのだ。一緒にお稽古をしている人がいたら、互いに誰になったつもりでいけるかを教え合ったうえでいける。恥知らずと腹をくくって、「家元ごっこ」をするのがいちばんエキサイティングだ。気が引けるなら「総理大臣ごっこ」や「アントニオ猪木ごっこ」、「MISIAごっこ」や「明石家さんまごっこ」など、著名人で遊ばせてもらうのが特徴を掴みやすく、想像も羽ばたかせやすい。
 テキストに沿った稽古には、安心と保証がある。安心というのは、多くの人と同じように習っていること。伝統にのっとっていること。誰からも後ろ指をさされないこと。保証というのは、テキストの修業によって確実に段位が取れること。
 私は、小中高校で文部科学省が認めたり教育委員会が定めた授業を受けた上で、そういう教育に異を唱える人からもたくさん教えられる機会があった。幸せだったというしかない。

講師の事