枝葉末節 250707
2025/7/12
七夕である。願い事を書いた短冊を吊るすために、竹を使う。笹だろ? という話もあって、厳密には竹と笹は異なる。しかし曖昧なままでいいんじゃないか。笹竹という言葉や竹笹という言葉もあるし、生活上はごちゃ混ぜである。
「吊るす」という表現も、「吊る」のではないかという議論があるかもしれないが、短冊の場合は吊るすのが正しいようだ。また、七夕飾りは一夜飾りとされている。織姫と彦星も、年に1度しか会えないから「願う」ことに繋がる。年に365日会えるとしたら、むしろ会わない日があることを願う。じゃあ2晩しか会えないとするならばどうなんだ? と食い下がるような人は三夜でも十夜でも飾っておけばいい。
すべてにおいて枝葉末節にこだわっていると、神経が衰弱する。とはいえ、いけばなをする時に枝葉末節にこだわらなくてどうする? と確かに私も教えられた。
しかし、いけばなでのこだわり方は多様だ。自分の癖として心身に溜まっている垢を取り除くように枝葉末節をバッサリ切り落とすのも有りだし、逆に枝先の1輪の花を選び取るため、他を全部取り除くのも有りだ。
一貫性 250706
2025/7/6
「一貫性がない」という批評は、たいてい否定的だ。一貫性は、徹底的に極めるための必要条件だと思う人が多いと思う。
私はへそ曲がりだからそんなに厳密には考えない。頭の中に、1本の長い線を引くイメージを思い浮かべるとしよう。幅が1mmの細い線だ。この線の上を足を踏み外さないで歩き続けることが、一貫性のイメージである。では、幅1kmの太い線を引く。ここまで太いと、広い道と呼ぶべきかもしれない。この広い道を歩き続けるとき、右へ行ったり左に来たりしても、それを一貫性がないとは断じられまい。
私のいけばなは、自分が演劇の演出家になったつもりで、花材を書家が引いた墨文字の線に見立てたり、体操選手に見立ててみたりと、花材をいろいろに見立てることが多い。この前など、三段跳びの選手の空中姿勢が目に焼き付いて、そんなイメージのいけばなができたらいいなと思った。
いけばなにはたくさんの流派があり、芸術にはたくさんのジャンルがある。そういうものをちょっぴり舐めたり齧ってみたりしながら、自分の中では草月の広い道を一貫して歩いている自覚がある。
集中と弛緩 250705
2025/7/5
いけばなの生徒さんの甥御が水泳選手である。そして、十分の1秒を縮めようとして力みが出てしまい、大会で1位を獲ることはできても目標タイムを出せないでいるらしい。
昨晩、日本陸上選手権をテレビで見た。100m走は緊張と集中のうちに競技が始まり終わるように見えるが、選手には果たして緊張を緩めるタイミングがあるのだろうか。そして、アスリートが極めようとする1秒は、アーチストにとっては何だろう。
日本画家が襖絵を描いている動画を見た。最初のひと筆を紙の上に置く瞬間、見ている私が息を呑む。ぐっと唾を呑み、顔がスマホ画面にせり出して足指に力が入る。画家本人はサラサラサラと軽やかに筆を運ぶ。幅が30cmもある刷毛に持ち替え、「えっ、そんな!」と声を上げるほどの大胆さと脱力感で、刷毛をスイーッと1m以上も走らせる。
私がいけばなをする時、他人の目があると緊張を緩めることができない。嫌な汗をかきながら力んでいる。玄人という言葉の「玄」、幽玄の「玄」は、私がそこに至りたい境地で、深みはあるのに重さがない感じ。充実していて垢抜けた感じ。
日々の景色 250704
2025/7/4
昨日は、松山商業高校華道部の活動日だった。稽古には草月流のテキストを使う。各カリキュラムには、立面図(正面図)と平面図が示されていて、花材の長さ、角度がわかるようになっている。立面図に示される花材の角度は、床面を基準(0度)とした立ち上がりの角度である。平面図に示されるのは、正面を基準(0度)として奥に向けて広げる角度である。
華道部員たちと付き合ってきて、見えてきたことがある。人間は自分の身長の範囲で物を見ることが多いからか、立面図は得意でも真上から見下ろす平面図は苦手だということ。
この2つの図面は、家を建てる際に施主が請負業者と相談するときにも必要で、図面から実物を想像する能力がなければ打合せが進みにくい。私は美術部員として、演劇スタッフとして、デザイナーとしてのキャリアが長かったから、3次元空間の把握力がまあまあ高くなったのだろう。
鳥が見る景色とトンボが見る景色、魚が見る景色と人間が見る景色、それぞれ大きく違うことは知っていたけれど、同じ人間同士でも、きっと景色の見方がそれぞれ異なっているのだ。大いに。
誰かと何かを 250703
2025/7/4
販売促進(PR)の仕事を請け負う企画コンペでは、競うための人材調達として、デザイナーやコピーライター、カメラマン等のプロフェッショナルの獲り合いに始まり、ライバル社の過去の企画や他社の先進的デザインの研究や模倣など、勝つために何度も徹夜した。ビジネス世界での競争は、楽しかったけれど消耗戦であった。
人間の経験を集積して賢いAIは、人間特有の感情的な弱味がないから、競争的共創も共創的競争もやってしまえるだろう。だが、私たちは一世代分の経験しかない人間的人間なので、誰かと何かをやると競争か共創のどちらかに傾きがちだ。
隠居仕事では、誰かと何かを競うことが第一義的ではない。だから共創ができるはずだ。そして、共創には世界観や物語の共有が必要で、その骨格がしっかりしていると、何を何円でやるのかという枝葉の利害関係に左右されない。
暮らしの中にいけばながある美しい世界観や物語を紡ぎたいと思う。必要ならば「いけばなの効用」などという美しくない武器を準備して、具体的に何に何円で協力していただけるのか、説き伏せることも厭わない。