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いけばな随想
diary

通訳の難しさ 241203

2024/12/3

 通訳の仕事は大変だ。外国人同士の会話は、言葉としては成立しても、当人同士にも通訳者にも割り切れない違和感が少し残る。背景となる歴史文化が異なるためだ。子どものとき愛媛県内の南予の祖母に預けられ、方言が違うことでずっと居心地悪く、自分が異邦人であるような感覚だった。
 いけばな用語で、枝を曲げることを「矯(撓)める(ためる)」と言う。矯の字は、曲がったものや悪いものを改めて真っすぐにする意味を持つが、いけばなでは真っすぐな枝をわざわざ曲げることを指す。
 しかも折り矯めと呼ぶ技術は、小枝を両手で持ってミシミシと音が鳴るまで力を加え、枝の半分を無理に折って曲げる強攻策である。プロレスだったら、相手選手は再起不能となるはずの掟破りのスゴ技である。でも、いけばなをしている者にとっては、そんなこと日常茶飯事の「当たり前田のクラッカー」で、技に数えない。
 つまり、人は同じ言葉を使っていても、置かれている環境によって異なる意味でその言葉を使っているから、コミュニケーションを成り立たせるには、十分な説明か通訳者が必要だというわけだ。

ちいさないけばな 241202

2024/12/2

 習い事はお金がかかると人は言う。花が高くなってきたので、いけばなもお金がかかる。衣服代や家具代に比べると、空間をこれだけ飾ってくれる花なんて安いもんだろ? と思うが、「衣服や家具は一度買ったら3年とか10年とか、買い替えんで済む」「いやいや、流行を気にしたら1シーズンしか持たんやろ?」「花なんて、頑張ったところで4~5日じゃんか」
 花なんてと言われて、いけばなの優先順位は下降線をたどり続ける。服を着ないでは過ごせないが、花はなくても過ごせる。家具はないと過ごしにくいが、花はなくても過ごせる。費用対効果が悪いと言われ、不用物扱いだ。
 食事のことを考える。栄養価だけを考えれば、食費はもっと下げられると思うのに、人はなぜより美味しいものに金を出すのか。食べたものは自分1人が独占できるけれど、いけばな空間は自分1人で独占できないから思い入れが低くなるのだろうか。
 ちいさないけばなだったら、1人独占して楽しめる。パソコンの横のちいさないけばな。ベッド脇のちいさないけばな。線路脇や公園の金網の下で花を摘んで帰ればタダにもなる。

空間の取り込み 241201

2024/12/1

 高松城跡の披雲閣で開催された、香川県支部・草月いけばな展に行ってきた。国の重要文化財の建物は、建築部材も各座敷の佇まいも、窓ガラスも庭の景色も趣があって素晴らしい。いけばな展のタイトルは~空間と語らう~で、門前や玄関前の屋外作品や建物内のあまたの作品は、それぞれに語らった結果が表現されていたと思う。
 和紙に描いた抽象的な墨の筆跡が、障子を通して入ってくる午後の陽光に浮かび上がっている作品は、もはやいけばなではなく書画の作品と言ってもいいくらいで、それが8畳+8畳+6畳が連なった通しの座敷に立体的に構成されているから「やはり草月であるか」と唸らざるをえないというものだった。
 美術館やデパートの催事場では、どうしても1つ1つの完成された作品が空間から切り取られて展示されることになる。しかし、作品展示を目論んで設計されていない空間に展示するとき、作品と空間を素敵に関係づけようという意図が働くため、作品は空間から切り離されることなく一体的に新たな作品として再生される。制作した作品が、展示する空間の力で格段に魅力を増す。

複雑と単純 241130

2024/11/30

 いけばなで陥りやすいのは、使われている花材の種類と量の多さそして複雑さが深みを感じさせるという誤解だ。これは、24人ものメンバーが踊りながら歌うグループの方が、必ずしもソロで歌う歌手より優れているとは言えないことと同じだ。
 いけばな作品の複雑さは一種の目くらましとして作用して、見る人はその細部すべてに目配りできない。全体を捕まえて「スゴイね」と言ったり、または自分の好きな花や名前を知っている花の部分だけに注目して「キレイね」と言って終わることすらある。
 建築の「軒反り」のように、空間を区切る屋根の曲線1本は、その滑らかさやセクシーさを感じるような曲線の変化の具合や、また屋根の面積や重量感とのバランスなど、シンプルなだけに周辺空間との関係の中で念入りに見つめられる対象となっている。
 花材も、枝分かれが多く葉の付き方もまとまり感があるアセビなどは、いけてみると形を取りやすい。しかし、サンゴミズキやすうっと伸びた春の梅など枝分かれが少ないシンプルな枝は、長さや角度や曲げ方ひとつでその印象がまるで違うから、扱いが難しい。

屋根の曲線 241129

2024/11/29

 私は東南アジアのパゴダ(ストゥーバ)のような、道後温泉の湯玉のような、タマネギに似た屋根の曲線が好きだ。これは、てっぺんに向かって閉じていく曲線である。逆に下に向かって開いていく形の、寺社の屋根の曲線にも美しさを感じる。この曲線は「軒反り(のきぞり)」と呼ばれる。
 寺社木造建築のこの屋根の曲線は、大工が木材をうまく加工し組み上げて造る曲線で、こじつければ、華道家がつくるいけばなの曲線と感覚的には似ているところがあると直感した。ただし、花材の1本で曲線を表す華道家の仕事は、宮大工の木材を無数に組んで曲線を出す作業の比ではない。
 軒反りは「下に向かって開いていく」と書いたが、正確には、軒先はやや上に反っているので、屋根の勾配は下降しつつ最後には天に向かって開いていく。この、落ちつつ舞い上がる微妙な曲線を、いけばなの枝先に表せるかどうかというのが、私がI先生から言葉ではなく仕草から受けた薫陶である。
 複雑だから奥深く感じるというのは錯覚で、シンプルなのに奥深いのが本物であるという、その代表が「軒反り」ではないだろうか。

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