風に乗る 240913
2024/9/16
風船唐綿(フウセントウワタ)の花は白く小さくてかわいい。花が萎れると、花だった部分は毛の生えた緑色の小さな風船に変化し、それはみるみる5cmを超える大きさになり、その奇妙に動物的な姿はなかなか言葉で説明しかねる。その中には何十個もの直径2mmの黒い種を宿す。数えたことがないから、ひょっとしたら百個を軽く超えているかもしれない。その種の1個1個には白銀に輝くミクロン単位に細長い産毛が密生していて、タイミングを計って外皮の風船が割れ、産毛のパラグライダーが微かな空気に飛行して、無重力かと見える様子で漂い運ばれていく。
動物は、積極的に動くことで生を掴み取るが、植物は違う。人間は、自分で考えて自分で動けないと学業や運動の成績は伸びないと思ってきたが、ひょっとしたら、人間も自分で飛ぼうとせず、風を掴み風に乗って飛ぶことが、その人生をよりよく送るためには大事なのではないかと思う。
風に乗るのは他力本願ではない。風を読むのも風に乗るのも難しい。空気の動きを観察し予測して、勇気をもって飛び乗ること行為は、すべて自分の意思による。
ピアニッシモ 240912
2024/9/12
ケニー・ドリューというジャズ・ピアニストが弾く「Summer Night」が、私の心に沁みる。音をあまり鳴らさず休符とタメで演奏する。それが収録されているアルバム『Dark Beauty』には、「Run Away」や「It Could Happen To You」など強力なリズムと印象的なメロディの曲があって、そういう派手な曲があるとアルバムも売れやすい。
そうなのだ。強弱のアクセントはあらゆる芸術的表現に欠かせないのだけれど、たいていは「弱」が「強」を補強する役回りになりがちで、「弱」を際立たせるための「強」という役回りはほとんど見かけない。
いけばな展に赴き、「静」×「弱」の素晴らしい作品にたまに出会うときがあって、そのときは心が震える。そうなのだ。私の好みは、どちらかといえば心に沁みたり心が震えたりする作品で、心が踊るような作品ではないのかもしれない。
自分一人が自分のためにいける花も、本当は侘びていたり寂びていたりしていたい。ところが、それをSNSのために仕上げるとなると、派手な味付けになるよう調味料を振りかけ過ぎてしまう。心が強くなれない私は、見かけの強さに溺れるのだった。
個と集団 240911
2024/9/11
1人だと真面目で優しい奴なのに、徒党を組むと人が変わったように荒っぽくなるんだよなあ。そんなふうに、「赤信号みんなで渡れば恐くない」的に変身する奴は多い。残念だと思う。しかし、いけないことをたった1人でやりこなしている奴に出会ったら、いけないことだけれど褒めてやりたい。ちょっとカッコいい。
1人だと迷いに迷って決断できないのに、仲間と飲み会で笑っているうちに迷っていることが馬鹿らしくなって、スッと迷いが消えたりする。ありがたいことだ。しかし、面白いことを1人占めしている奴を見ると、なんて1人よがりなんだと責めてやりたい。いかんやろ! と。
こんど10月に開催するいけばな展は、52人みんながそれぞれ1人で作品をつくる。たいていの展覧会では複数人で関わる合作とか連作があるのを排除して、今回はとことん個人制作にこだわる。
だから、個々の性格や気質が如実に表れるだろう。楽しそうだ。だけど、普段のお稽古や研究会などを通じて、「草月会愛媛県支部」の性格や気質もにじみ出るかもしれない。見破られるのは、こそばい(くすぐったい)。
いけばならしさ 240910
2024/9/10
いけばならしさとは何か? フラワーデザインやフラワーアレンジメントと比べてどうか? 日本の伝統文化といわれる茶道や書道と比べてどうか? 同じ日本の伝統に根差した柔道や剣道などの武道と比べてどうか?
これまで、気分的には、まわりと比較していけばなはこうかもしれないし、どうだろう、よくわからないけど、というくらいの迷い方で、いけばなを繰り返し問うてきたつもりである。しかし、いけばなを習う人のほとんどがそんなことで悩んだりするヒマジンではないし、その迷いを共有するために習い事に来ているわけではない。
昔は、お花の先生も敬われ、私がこう言っているのだから、こうなの! と言えばそれまでだったのが、今どきは何でもその場で検索できるので、先生の言うことが必ずしも正しくないというのが当たり前になってしまった。
ルーツを遡れば、いけばなは華道である。道は先生が実体験によって究めた道で、富士山の登山道のように道しるべがある道だ。しかし、富士山に登頂するには、登山道を登らなくても可能だ。示された道を横目で見ながら、自分の道で登っていける。
モノと物語 240909
2024/9/9
花屋のバケツにあるリンドウは、リンドウという1本のモノでしかない。それを買って帰り、いけばなの花材として使ったとき、モノでしかなかったリンドウが物語を紡ぐ登場人物の1人となる。
私は視界に入る影や光を計算し、大道具小道具を取捨して、舞台を設ける。花器を据えて、花材の登場人物を6人程度登場させる(主枝3本、従枝は3本かもっと多く)。登場人物ごとに主役や脇役、敵役などを担わせ、その他にエキストラの役を与える。
監督兼脚本家の私は、主題とそれにふさわしいタイトルを考え、場面を設定し、俳優達には出過ぎず引っ込み過ぎない発声やジェスチャーを求めることもあれば、常識をはずれた大袈裟な演技を求めることもある。そうして、1本のリンドウも、あまたの生活者の1人でしかない立場から、唯一の役を演じる俳優となり、無名のモノから名高い名優へと脱皮するのである。
もちろん、リンドウが生来持っていた生命力やポテンシャルが必要だったことは言うまでもない。しかし、それ以上に、監督である“私”のリンドウを“いける”行為が、リンドウの未来を左右する。