汀州Japanlogo 汀州Japanlogo

いけばな随想
diary

慣れ 240509

2024/5/11

私より6歳下のM.G.さんが病気で逝ってから、もう15年くらい経つだろうか。その1年前に、この歌が一番好きと言って彼女が聴かせてくれたのが、ノラ・ジョーンズの「ドント・ノウ・ホワイ」だった。

2002年のデビューアルバムに収録されたその曲は大ヒットし、その後もノラのアルバムはヒットを放ち続けた。そんなノラが、あるアルバムでスタイルを変えた。それまでのノラはずっとピアノの弾き語りをしてきたのに、そのアルバムではギターを弾いて歌ったのだ。

「慣れたピアノを弾いて歌うと、新しいものが生まれにくい気がしたから、慣れていないギターを弾いて、何か新しいものに出会いたかった」らしい。実際、慣れないギターを弾いてファンを失望させないために、ノラは相当な努力をしたはずだ。

そして、新しいものが生まれた。

昨日と同じことをするのも辛いことはあるだろうが、安心だ。今日と違うことをするのは不安かもしれないけれど、新鮮で楽しい。

慣れは恐い。馴れ馴れしくなったりするのも恐い。初めて会った時のような気持ちで、明日の花と向き合ってみられたらいい。

破調 240508

2024/5/11

1970年代にジェントル・ジャイアントという英国のロック・バンドが、少し活躍した。本国ではどれくらいの人気だったか知らないが、日本ではマニア御用達のバンドで、それを聴いていることを自慢したくても、ほとんど知られていないから話にならなかった。

今は、ダウンロードすれば聴けるが、昔は聴かせたい奴の家へLPレコードを持って行くか、自宅へ呼んで聴かせるしかなかった。互いに手間暇をかけ、リスクを負って友達づきあいをした。

そのバンド・メンバーは、クラシック音楽の演奏や作曲をたしなんでいて、演奏技術に破綻をきたすことが全くなかったかわりに、1曲の中でリズムの切り換えや転調を多用するし、何より特徴的なのが、特にリズムにおいて躓くような部分を挿入しないではいられないという問題児たちだったのである。美しいだけでは済まさないという根性があった。心地よく聴いて寛いでいても、必ずリズムが破調をきたして神経が逆立つというトラップが仕掛けてあるのだった。

そんなのを聴いて育った私だから、いけばなにも、ついつい破調を組み込んでしまうのである。

花材の宝探し 240507

2024/5/11

人にはいろいろな魅力があるように、草木にもそれぞれ魅力がある。何度か付き合っていくうちに、最初にはわからなかった新しい魅力を発見することもできる。

私が好きになっていったのは、リンドウだ。いけばなを始めた頃、まっすぐに長い茎を使いこなすのが厄介だった。思い通りにならないので、嫌いな部類だった。5年経っても、10年経っても好きになれなかった。ところが、15年も経った頃だろうか、どうにかなるという関係を築けていることに気付いた。1本のリンドウを2つに切って使うと、2倍得した気分にもなる。生徒さんたちに仕入れるローテーションの頻度も上がった。

ニューサイランもいい奴だ。昔は形が面白いモンステラの葉の方がずっと好きだったが、今ではニューサイランの方が3倍好きだ。何たって応用力がある。長く真っすぐも使えるし、円のように丸められるし、裏表を使い分けられるし、裂くことだってできる。

初代家元がよく使ったのが椿で、絵も描いておられる。様々に使える万能選手のように言っておられたが、椿がアスリート過ぎて、ボンクラ監督の私の手に余る。

好きな花 240506

2024/5/11

私はヒナゲシが好きだ。マーガレットも好きだし、1本2本の少ない数であればコスモスもいい。殺風景な荒野や河原、断崖などに、そういう茎の細い花がまばらに咲いているという切なさがたまらない。

ところが、そういう花をいけばなに使いたいかといえば、これはもう完全に苦手だ。なぜなら、いけばなで荒野の雰囲気を出すのが難しいからだ。いけばなで、花を野にあるようにいけるのは大変難しい。かといって、野でヒナゲシをいけるかというと、野にあるヒナゲシをわざわざ切ってその現場で使うくらいなら、切らずにそこにいさせてやりたい。

そんなわけで、私の場合は好きな花と、いけたい花とが一致しない。

もう少し説明を繰り返す。ヒナゲシならヒナゲシを切り取って屋内に持ち帰るとしよう。その花を、さきほど野にあったとき以上に儚く美しく寂しげにいけられる見込みが薄いのなら(切り取った責任を果たせないのなら)、雨も降る風も吹く彼らのいた場所で、彼らの人生を全うさせてやりたい気持ちなのだ。

いけばなを行うシチュエーションと花との組み合わせは、とても大事な作業なのだ。

花の主役 240505

2024/5/10

草月の花型(かけい)は、3本の「主枝(しゅし)」と数に規定のない「従枝」とで構成される。そして3本の主枝は、「真・副(そえ)・控(ひかえ)」の役割を分担する。

呼称からすれば、真が主役であるはずだが、そうとも言い切れないのが面白いところだ。なぜなら、作品を正面から見る人の目線にまっすぐ向いているのは、3本のどの主枝でもなく、従枝の花の1本だからである。人の目は、褐色の枝葉よりも、鮮やかな花の方を見染めてしまうようだ。

映画であれば、カメラが主役を主役らしく見せるように追いかけるので、観客は安心してカメラワークを追っていれば済む。しかし、舞台であればそうはいかない。観客自身が自分の感覚と判断で、舞台上の人物を選択しクローズアップしなければならない。いけばなも同じだ。

さて、主演を担うのが従枝の花だとするとき、3本の主枝が果たしているのは、舞台空間の創出であろうか。そして、その空間そのものが人目を魅了することもある。美術館等で、展示された美術品以上に建物がクローズアップされることの多い安藤忠雄の建築がそれに当たる。

講師の事