片付け 240304
2024/3/5
いけばなの研究会が終わった。私は、片付けが嫌いではない。一旦ばらばらになっていた物が、一定の規則のもとに整列していく様子が好きだ。この作業には時間がかかる。そして、その時間がかかること自体が好きなのだ。時間がかかるのにはわけがある。片付けるにあたって、いつも決めていた規則を変更したくなるからだ。
引っ張り出した物を元の場所に返すだけにしておけば早く片付くのに、敢えて一工夫してしまう。部分的変更は、当然全体の変更に及ぶので、大変なことになる。準備に2時間かけたとしたら、片付けには4時間はかかるわけだ。
これは無駄な作業ではないかと言われるかもしれない。しかし、そんなことはない! 長い時間軸で片付けを眺めると、必ず次の準備作業になっている。たとえば、いけばなで使うワイヤーを、色ごとに分け、太さごとに分けておく。次に使おうとしたときに、スムーズに取り出せる。
こう説明されると、私の片付けは、さも合理的に行われているように聞こえるだろう。それは違う。片付け方が細かいため、収納スペースが余計に必要で、場所を取ること半端ない。
研究会 240303
2024/3/5
「いけたら花は人になる」は、草月の初代家元・勅使河原蒼風の言葉である。その人となりがいけばなに表れるという意味だ。
その言葉通り、今日の研究会では参加者の個性が遺憾なく発揮されたと思う。言葉を交わす付き合いだけではなかなか見えない性質が、作品にありありと表象されたのだった。
人の性質というのは、これまた作品だけに表れるのではなく、制作態度や準備・片付けの様子にも表れるから面白い。それはそうと、10年前、20年前の研究会と比べると予定調和的な取り組みが減って、新しいことを試みようとするチャレンジ精神を持つ人が多かったと感じた。
人生を試し続けるのはタフさが必要かもしれないが、いけばなは、試し続ける対象としてもってこいである。仮に自分の考えや技術がマンネリ化しても、枝や花に同じものは2つとないから、意識しなくてもいつでも新しい試みになってくれる。
そして、研究会の良さは、日頃の人間関係を越えて、初めて会う人のいけ方を初めて見られる点にある。「そう来たか!」という思いがけない切り方や挿し方に接して、脳が掻き混ぜられる。
しつこさ 240302
2024/3/5
東京から草月流本部講師をお迎えして、懇親会を開いた。会場は、ANAクラウンプラザホテル松山のガーネットルーム。
個人的なことでは、当ホテルとは相次いで特別な関係にあった。去る11月、ある大きな催しで、私の不注意から会場のパーテーションを倒して穴を開けてしまった。もちろん快く弁償した。明けて1月には、ある新年会で、私が用意した竹が余興の最中に折れて、竹の黄色い粉が舞い散った。出席者は、それを演出だと思って拍手を送ってくれたが、ホテルのスタッフは、カーペットに絡んだ粉を吸い取るのにとても苦労されたと思う。
で、今日の懇親会だ。私が三たび粗相を仕出かしたら困ると思ったのか、新年会の担当者が満を持しての担当だ。申込時にホテル内の和食店が満席で、用意していただいた宴会場は、7人の会食に対して30人は収められる部屋だった。
料理が美味しいのは折り紙付きとして、貸切の贅沢な部屋で、専属スタッフが2名付いて、慣れない我々にとっては貴族の晩餐会のようだった。
「禍を転じて福と成す」ためには、失敗しても、しつこく食い下がることだ。
献花祭 240301
2024/3/5
毎月、月始めに、愛媛縣護國神社で献花祭が執り行われる。靖国神社と同様の性格上、第二次世界大戦の英霊も祀るという部分が取り沙汰され、「英霊」の表現が軍国主義を彷彿とさせることに向き合うことを避けたい人も多い。
そんな背景が影響したのかどうか、献花祭の役割も担う「愛媛県華道会」の会員団体は少しずつ減ってきて、草月流愛媛県支部も十数年前に脱会している。
私はしかし、2つの点で、献花祭に反対の立場ではない。
まず、私の母方の祖父は、戦時中に「アカ」の汚名を着せられ、収監後東京で国粋主義者たるべく洗脳教育を無理強いされた。戦場で肉体的に散ったのではなく、国内で同朋から追い詰められて、精神的に殺された。英霊という言葉は嫌いだが、余儀なく戦争に巻き込まれた人々の鎮魂を誰がするのかと思うと、私は自然に手を合わせたくなる。
もう1つは、フランスとかに旅行して、信仰もないのに教会を見学して「素晴らしいわねえ」と言ってしまえる人が、なぜ日本の神社に目くじらを立てるのか。キリスト教会を見学する感じで、淡々と花を供えてもいいのではないか。
おいしさの指標? 240229
2024/3/5
テレビで、産学連携で「おいしさの指標」を設定する取り組みが紹介された。かねてより、おいしさは人によって感じ方が異なるとされてきたし、ミシュランの評価に対して疑問を呈する人もいらっしゃる。そこで、おいしいという証拠固めをしてギャフンと言わせたいらしい。
私が小学生か中学生のとき、写生大会があって三津の内港へ行った。私の隣で描いていたY・S君は、快晴の真昼なのに空を赤く塗っていた。通りがかった教師がそれを見て色がおかしいと指摘すると、Y・S君は、「もう少ししたら夕焼けになるけん」と答えた。教師は「写生会やから、ちゃんと写生せい」みたいな残念な捨て台詞を残して行った。私は、Y・S君をヒーローだと感じた。その後、彼は画家として人生を歩んでいる。
美しさの指標、賢さの指標、おいしさの指標等々……、ナンセンスだ。いけばなにおいても、自分の指標を自信満々で主張するのはよい。それでこそ作家だ。しかし、他人の指標を全否定することだけはやめた方がいい。昔の画家同士のように、決闘したり拳銃をぶっ放したりしなければならない羽目になる。