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いけばな随想
diary

いけばなとスケッチ 240424

2024/5/6

 草月のカリキュラムの中に、イメージをスケッチしてから実際にいけるという課程がある。それが癖付けされていて、日本いけばな芸術協会の展覧会に出品した際にも、我々はちょっと雑ながらスケッチを描いてから臨んだ。そして、ほぼ計画通りに制作できた。また、日頃の稽古では、いけた自分の作品のスケッチを推奨している。
 なぜ、そんなにスケッチにこだわるのか? 
 草月のテキストの冒頭には、枝や茎の適切な長さが、花器の高さや広さと対比させて規定されている。そして、基本・応用の型では、枝や茎の方向と角度が規定されている。それさえ守っておけば、どんな花材を誰がいけても、それなりに“上手ないけばな”がいけられる。
 スケッチすることによって、忘れかけていた奥義を鮮やかに思い出すことができたり、自分が表現したいものが「線」なのか「マッス(塊)」なのか、それとも「色」なのかを、いま一度再確認する作業ができる。スケッチが事後であっても、自分の作品の出来栄えを、「ああ、うまくできた」というような感覚的・感情的にではなく、第三者の目で評価できるのである。

単純化を目指す 240423

2024/5/6

 私のように「あたまでっかち」は、何をするにもあたまで考えることが前のめりになってしまう。「下手な考え休むに似たり」という諺を地で行っているのだから、やりきれない。下手な考えは尽きることなく湧き出て、樹形図を描くように増殖していき、あたまの中がいっぱいになってついに混沌が訪れる。
 草月のカリキュラムには、「単純化の極」がある。建築でも映画でも、どんなに大規模であっても壮大であっても、組み上げられたピースの1つひとつは単純なモジュールであることが多い。複雑怪奇に見えるものであればあるほど、単純なモジュールの組み合わせだ。単純でないモジュールの組み合わせに取り組むと、サグラダファミリアの建築のように、何百年もかかってしまう。
 で、行き詰ったときこそ、単純化に立ち返るのがよい。あたまでは分かる。しかし、先般のいけばな展でも感じたことだが、人目に晒す作品は、たいてい単純化できていない。「単純な」作品を見せるのは恐怖でしかないのだ。あれこれ考えて、あれこれ足し過ぎてしまう。身につまされて理解できる。
 単純化は、憧れである。

花型(かけい)に戻る 240422

2024/5/6

 自分の居場所を特定するためには、世界を眺めて「相対的に」自分を省みなければならない。しかし、世界は動いているし、見比べる他人も動いているから、自分の居所も絶えず流動的である。世間の流行や見る人の反応に応じて自分の見せ方も変えたくなるので、ますます自分の位置取りは不安定になる。
 そんなとき役立つのがテキストであり、花型である。花型は「絶対的な」基準である。基準に対して、我々はなぜ? を問うてはならない。私は去る2月の昇格試験において、その花型の問題で躓いた。私のいけばなが定まらなかった所以である。そんな私が言うのも変な話ではあるが、花型に疑問を呈するには、家元と差し違えるくらいの相当な覚悟がいる。私はその必要を感じないので、(これからは心を入れ替えて)花型を基に、自分のズレを修正するばかりである。
 テキストや型は、私のように軽んじてしまう者も少なくない。また、そうでなくとも、一旦モノにしてしまうと邪魔なもののように扱われることが多い。
 しかし、不自由を知る者が自由を謳歌できるように、型を知る者が型を破ることができる。

なぜ花をいけるか 240421

2024/5/5

 24年前の私は、いけばなを立派にやっていると思っていたが、今から見ると思い違いも甚だしい。たぶん今の私も未来の私から見ると、いけばなの腕はまだまだ若造だ。
 教える立場にあって、教えるその内容に自信がないというのは良くない。そう思うから少し勉強する。勉強すればするほど至らなさに気付き、少し自信を失う。「少し」しか失わないのは、能天気だからであろう。懲りずにまた少し勉強する。政治や経済の勉強はもうしんどい。経営や心理学の勉強は肌に合わない。
 改めて、いけばなは? と問い直すと、それは人生の勉強にもなる。これぞ大人の習い事だ。いけばなで人生を噛み締める。そんな感じで拒否反応が生じず今日に至ったということで、ことさらな理由で花をいけているわけではない。
 とはいえ、やはり教える立場なのだから、何か決めゼリフが欲しい。それが出ないとなると、二流三流の師匠ではないか! 他人のいけばなを見て「よいなあ」と思うと同時に、「もうちょっと、恥ずかしくないいけばなを見てもらおう」と思う。決めゼリフにならないままで、今日も花をいけてしまった。

空走り(からばしり) 240420

2024/5/5

 今回のいけばな展の出品で、強く心に刻まれたことがある。一緒に合作した先輩の先生が、徹底して準備に気を配られたことだ。
 結果的には用意した花材が余ったが、もちろん足りなかった場合には目を覆う悲劇的シーンが待っていた。余分だろうと分かりながら、それでも多めに準備した。また、使った鉄花器は黒い塗装仕上げだったが、先輩は事前に3度も塗り直して万全を期した。私は1回目にお手伝いしたとき、それでもう十分だと安心しきっていたのに。
 そうだ、私は小中学校でサッカーをしていた。長距離走が得意で、いくら走っても疲れなかった。当時は何の考えもなかったけれど、大人になってから「空走り」の大切さを意識している。「空走り」は、低い確率ながら来るかもしれないチャンスをモノにするため、ムダとも思える走りを繰り返すことである。たまたま気を抜いて走っていなかったときに限って、惜しいチャンスが回ってくるものだということは、少年ながらに直覚していた。
 大人になって、合理的で効率的な行動が求められることが多い。人事評価が下がっても、「空走り」は面白い。

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