自分は何者か 240414
2024/4/21
一度は名乗ってみたかった「コンセプター」と名乗ることがないまま、人生も末期に差し掛かった。「アート・ディレクター」、「主任研究員」、「教頭」等々を名乗った内で、「プランナー」の肩書がいちばん便利だった。
「プランナー」として俳句といけばなをコラボさせた冊子の企画が通り、愛媛県文化振興財団から『百人一句』が出版された。国際俳句が盛んな時期でもあり、視覚的効果を高めて俳句への関心を広げる意図があった。いけばな師匠のお2人が、俳句から得たインスピレーションで花をいけ、その書籍に花を添えた。その1ページに、私自身の花オブジェも忍び込ませ、私のいけばなのキャリアが始まるきっかけとなった。
あれから二十数年、仕事を辞めて、私にはいけばなが残った。
私は、まだ「華道家」と名乗る自信がない。かといって、いけばなの領域を越えようとする自分もいるので、「いけばな作家」とも言いたくはない。
暫定的に「いけばな草月流師範」を肩書にしていると、生徒の1人から、理事の資格をもっとアピールした方が、習いたい人にとっていいのだとアドバイスされた。
肩書の効用 240413
2024/4/20
27歳の時、ホテルのチャイニーズ・レストランで、J.M.Hillsという会社の社長、三木清さんから「君は何になりたいの?」と聞かれた。その日の夕方、トムオウルという取引先を訪問した際、そこの社長から三木さんを初めて紹介され、一緒に晩ごはんを食べようと誘っていただいたのだった。
質問に対して、私は「コンセプター」と答えた。「神様みたいなものか」と三木さんは微笑んで、「じゃあ、テレビも新聞も見ないようにしたらいい。神様はそんなもの見ないからね。君の目で直接見たものを大事にしなさい。セカンドハンド・ニュースから遠ざかりなさい」と言った。幸いにも、私はテレビを持っていなかった。
数か月後、三木さんが松山に来られた際、私は新聞購読を解約したことを報告しながら、「プランナー」の名刺を出し、「コンセプターと名乗るのはおこがましくて……」と言い訳した。私は会社員だったので、本来は「営業」と名乗るのが普通だったが、「プランナー」を名乗ることで仕事の範囲が広がったのは間違いない。
それが、後々、仕事といけばなをつなぐことにもなった。
守備範囲 240412
2024/4/18
いけばなには流派がたくさんあるけれど、意識的に選択して入門した人と、いけばなを始めたら結果的に草月流だったというように、無意識的に特定流派に所属した人もいる。私は、始めたいけばながたまたま草月流だったというグループに属す。
流派によって作風が違っているのは感じられても、並んだ作品を見比べて流派を当てるのは、利き酒よりも難しいのではないかと思わされる。草月流の方の作品かどうかも、たぶん当てられない。おそらく、草月流の守備範囲(創作が家元に許される範囲?)が、広いことに要因がある。
もちろん、習い事である以上、草月にも「型」があって、それを大切に練習する。しかし、その先には、「場にふさわしい花をいけること」や「自分(の個性)が出てしまうものと覚悟していけること」が求められているので、その結果、表現の守備範囲が広くなるのだと思う。
水彩画しか描かないという画家がいる一方、絵も描けば詩も書くという作家もいる。描きかた(方法)にこだわる人と、描くもの(表現内容)にこだわる人との違いが、制作の守備範囲に影響するのだと思う。
グレン・グールド 240411
2024/4/15
31歳の絶頂期に“生演奏”活動をやめ、バッハを突き詰めて演奏したピアニストである。彼が、草月流三代目家元の勅使河原宏の監督映画『砂の女』や、夏目漱石の『草枕』に傾倒したことを10年くらい前に知って、私は急いでその2つの作品を買った。
『砂の女』は、観ることに体力が要求されるので若い時に観るべきだったが、『草枕』は歳を取ってから読む方がしっくりくると感じた。
『草枕』というのは、旅路の途上にあることを示すタイトルで、現代人がそれを分かることは難しい。この本の英訳タイトルは『The Three-Cornered World』で、これも一筋縄では理解できないが、作品中に「四角な世界から常識と名のつく一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んで」という記述があり、訳者がそこからタイトルを導いたのだという。ハリウッド映画のタイトルの邦訳に比べて、センスの良さが光っている。
ともかく、『砂の女』をつくった映画監督勅使河原宏は草月流の家元で、四角から常識の一角を削って三角にした世界の住人である、ということに合点がいったのは、グレン・グールドのお陰なのであった。
早坂暁『華日記』 240410
2024/4/15
戦前戦後に日本の華道界が大きく動いたことは、早坂暁の『華日記』に詳しい。1927年に創流された草月流も、その奔流の中心にあった。
その時期の日本は、表現空間も表現資材も窮乏しており、いけばなをする環境にも制約や障害がたくさんあったことは想像に難くない。そうした困難に直面して、想像力は生まれる。そしておそらく、数知れぬ失敗や失望が、華道家たちの前に立ちはだかったことだろう。気持ちが潰えてしまいそうな、ぎりぎり手前で発揮されるのも想像力である。だから、戦前戦後期は、足りないところでどう表現するか、つくり出す人間の力が試される場だった。
いま私が置かれている環境は、当時と比べて個人的にも社会的にも恵まれている。足りないものはあっても、無いというものはない。だから、想像や創造よりも、あるものをどう使うかという、使い方や組み合わせ方に流れてしまいがちだ。
あんなに窮乏していた時代に、なぜあんなに表現欲求を強く持ち続けられたのか? 目の前のご飯を美味しく食べることよりも、心地よい寝床で快眠を貪るよりも。とても真似できないではないか!