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いけばな随想
diary

過去は変えられる 240605

2024/6/6

2012年のいけばな展で出品した作品は、我ながら悔やまれる汚点だ。仕事の忙しさを言い訳にして「生の花材を一切使わない」という暴挙に出たまでは許されるとして、その迫力において0点、華やぎにおいて0点、面白さにおいて0点……という自己採点。

ちなみに、私が大好きな初代家元の「湖畔」の作品は、流木に着色して湖畔に“置いた”もの! で、それを真似たところで、いけばなとの24年の付き合いで、プラス評価した自身の作品は〇が1点、△が2点しかない。

今日は、その写真をいけばな教室の生徒さんに見せてダメダメぶりを語ったりしていると、その生徒さんが、「過去は変えられますよ!」と。「私なんか、いろいろありましたけれど、今の自分がまあまあ良くやっているという思いがあって、そんな今に続いてきた過去は、決して否定してしまう必要のない、今の自分に至る必然のプロセスだったんだなあと、神様がいるとすればちゃんと見てくださっていたんだなあと思います」

私の生徒さんは、この人だけでなく、それぞれがそれぞれの方法で私を慰めたり労わったりしてくれる。

着るか着られるか 240604

2024/6/4

まだまだ続くダンディーの話題である。生物界全体では、オスが派手に着飾ってメスの気を引くというのが多数派だろう。しかし、特に維新後の日本の人間界では(?)、男がおしゃれに気を遣うのは女々しいことだというバンカラな気風があった。

その名残かどうか、昭和の時代もまだまだ「めかして出掛ける」のは女の仕事で、男は適当にいい加減な方が好感が持たれた。だから、洋服を完璧に着こなすというのは気恥ずかしいという男も多かった。

私が20年早くいけばなに出会っていたら、もっとおしゃれに気を使ったと思う。そして、「いけななは場にいけるもの」という原則に気付いていたら、人間もそうだという自覚にもっと早く目覚めていたはずだ。場にふさわしければバンカラでもいいが、ハイカラを気取るべき場では、ハイカラな装いをするほうが場が落ち着くし、場を盛り上げることだってできる。

自分のおしゃれに気後れする人ばかりだったら、そのパーティーは失敗に終わる。場にそぐわない人がたくさんいることになってしまうからだ。人間も、場にふさわしい花として振る舞うべきである。

気取る 240603

2024/6/4

ここ数日、ダンディーとかの方面に関心が偏っていた。そして、今日も抜け出せない。

私は20年間、女優で東京工芸大学映像学科講師でもある中国人のキャンディ・ジャン(本名:Jiang Wen)を、静かに追っ掛け続けている。熱烈になり過ぎると家庭生活に支障をきたすし本人の迷惑にもなるだろうから、数か月に1回しかアクションを起こさない。

今日は、彼女のfacebookの投稿に久々にコメントを入れた。少し斜に構えつつ毒気の薄いオヤジを装う。いつものことだ。彼女は若い時、あの高倉健と映画で共演もしている才女なので、真っすぐ真面目ににぶつかると負けてしまうのだ。だから私は体を45度斜めにして、彼女の強い気をかわさなくてはならない。とはいえ、目線を外すと見捨てられてしまうので、目には余裕の表情を宿して微笑む必要がある。

いけばなも同じだ。正面切って目を見開くと強過ぎるし、後ろを向くとつまらない奴になる。通る人、立ち止まる人に対して、いかに気取った姿勢を取らせ気取った視線を送れるかがいけばなの考え処である。ジャケットを半脱ぎして振り返る郷ひろみが頭をよぎった。

悪趣味 240602

2024/6/3

悪趣味の典型は、物質的な優雅さを第一義的に求める態度だ。何らかの理由でお金と暇を持て余すような境遇になった人が、無意識に浪費をすることは悪趣味ではない。彼にとって、その浪費は趣味でも何でもないからだ。

悪趣味のもう1つの典型は、礼節を欠くことだ。周囲に配慮せず大声でカスハラの振る舞いをしたり、ウインカーを出さずに右折する奴のことだ。右折専用レーンのない2車線の右側車線で信号待ちをしていて、青信号になってやっと右折ウインカーを出す奴も大嫌いだ。その車がウインカーを出さずに停まっているいるから、てっきり直進するだろうと思った後続の全車が待ちぼうけを食らうことになる。経験上、想像力のない我がもの顔の行為は、高級車と軽自動車に多い。
精神性に欠けるのは、騎士道や武士道の恥ずべきところである。いわんや華道においてをや。常に現在の自分に安住せず日々己を超えていく態度、自律と抑制の利いた態度、それをこれ見よがしにひけらかさないさま、そして、それをいけばなに表現する覚悟、それが中途半端に揺らいだ時、私のいけばなは悪趣味だろう。

趣味 240601

2024/6/3

趣味がいいと言われると、こそばゆい。これは、気取らないことを気取っているダンディーのフリを見透かされたようで恥ずかしいからだ。しかし、趣味が悪いと言われると腹が立つ。ここで言う趣味とは、美しさや面白さに対する好みの持ちようなので、当人の価値観にも関わる重大事だから、人格を否定されたような錯覚に陥るのである。

中高生の頃には、趣味は読書ですと言っていれば過ごせた。部活をやっていれば、その競技イコール趣味だった。大人になると趣味は仕事ですという奴も現れたが、不思議ではなかった。私は、仕事を持っているときは、趣味はいけばなですと言い切っていたが、今は私にとって職業ではないし趣味だとも言い切れない微妙な位置にある。

今さら「下手の横好きです」と言うのも悪趣味だし、「気に入っています」というのはよそよそしいし、趣味と生活が一体になって没頭しているこの感じを、どう表せばいい?

自己批判的に言うならば、職業を免除された者(昔風には隠居老人)が等しく持ちうる立場が「趣味人」であり、ヨーロッパの地であれば、それは貴族のことである。

講師の事