主題 231119
2023/11/19
一昨日は、松山商業高校の生徒が総合文化祭にいけこみをした。予算の関係から日頃の稽古を最小限の花材で行っているからか、放っておくと花材を余らせる者が多かった。
私自身は油彩画より水彩画が好みだし、白地を残す水墨画がしっくりくることもあって、体質的には「引き算」表現を好む。しかし、いけばなにおいても引き算は難しく、私くらいの修養では思い通りに完成することはまずない。下手をすれば、ただ貧相になってしまう。
生徒たちは若いので、まだ枯れるときではないという思いもあり、引く前に足せるだけ足させてやりたい。足してから、ちょっと引かせる。何もない空間に1本1本いけていくのだから、引いてから足すことはできず、必ず足してから引く順になる。
今回、改めて気付いた。足そうが引こうが、「あなたは何にこだわっているのか」、「何を言いたいのか」という主題をまず見つけてあげることが大事だ。意図がないままで足したり引いたりを繰り返していると、だんだん訳が分からなくなってしまう。制作中に主題が変わってもいい。主題を探す意志さえ持っていれば。
花展の難しさ 231118
2023/11/18
草月の愛媛県支部花展を来年度開催する。役員の考え方は様々で、初めて支部長として迎えるにあたり、前途の多難さを感じている。
華道は極めて個人的な取り組みだ。自分の作品だけに集中すればいいところ、花展となるとどうしても他人の作品が気になるらしい。グループ共通の空間と時間の制約にも縛られる。
社会人の各種スポーツチームでも、楽しく和気あいあいとやれたらいいという人、やるからには試合に勝ちたいという人、今より上位リーグに上がりたい人など、各人の目的や優先順位やが異なるため、チームとしてどうまとめていくかが常に大きな課題だ。
さて、高校の華道部である。今日、明日の2日間は、愛媛県高等学校総合文化祭で、華道部門に松山商業高校華道部の2、3年生も出品。昨日のいけこみは、病欠で1人欠けて6人が参加。黒い花器と赤い花材を使うことで、グループとしての大きい共通空間をアピールしつつ、個々が脇目を振ることなく、自身の制作に没頭してくれた。その姿勢がとても嬉しかった。
雑念がない清々しさは、見ている者の心も洗ってくれる。これでいいと思った。
直感 231117
2023/11/17
経験で積み重ねてきたものがある。
自分の嗜好は最たるもので、だいたい嫌いなものは嫌いで、たいてい好きなものは好き。これで、まず間違いない。だから、「直感で選ぶ」というとき、それは賭けではなく、経験に基づいたとても当たりはずれのない選択方法だ。他人に根拠を説明しにくいけれど。
お稽古の花材を選ぶ時もそうだ。あらかじめ、生徒さん本人とカリキュラムとを掛け合わせたイメージを持って花屋さんに行く。で、お店では直感で買い求める。「秋だから、実のある花材を!」と思って出かけても、生徒さんの顔を思い浮かべて、実のない珊瑚水木に手を出してしまったりすることは多い。
そして、それが結局功を奏したりするのは、生徒さんの個性を少しずつ理解し、生徒さんの日頃の作風の傾向が見えてきているからだと、ちょっと言い訳したい。
あれこれ考えていても、現場ではその通りにはならないことが多い。だから、日頃から知識や考え方の引き出しをたくさん作っておきたい。私は昔から意識して、綺麗なものと汚いものなど、相反するものを理解しようと努めてきたつもりだ。
姿勢を正す 231116
2023/11/16
お気に入りの床屋さんが高齢のため廃業して看板も下ろし、「どうしても」という客の髪だけ切っている。非営業なのに、そこのオヤジさんも奥さんも人を迎え入れる時は必ず黒と白の決まった服装を身に着け、二人とも背筋がピンと伸びている。空気感に気持ちよい緊張があって居心地がよい。
そのオヤジさんが怪我をして、当分鋏を持てないとのことで、私は散髪するために床屋を探す。住んでいるエリアを改めて歩き、4軒の候補が挙がった。
そして一昨日、思い切って第一候補の店のドアを開けた。
そこのご主人は私より高齢だったが、私より姿勢がよく、あのオヤジさん以上に身だしなみが完璧だ。“髪結いの亭主”としてフランス映画に出そうなくらいダンディだ。身のこなしも隙がなく、贅沢で素敵なショットバーで過ごしているような錯覚に陥った。いけばなの生徒さんに、オーセンティック・バーのオーナーバーテンダーとイタリアンのシェフがいて、この床屋さんとイメージがぴったり重なるのだった。
教室を開く者として、何より構えが大事だと気付かされ、昨日から少し背筋が伸び始めている。
白雲 231115
2023/11/15
草月流の初代家元=勅使河原蒼風先生の書に、『白雲』がある。直筆の色紙を仲間がネットオークションで落札して、以前プレゼントしてくれた。改めて、お礼を申し上げたい。
夏目漱石の『草枕(ワイド版 岩波文庫)』の巻末解説中に、(ある便りに)「夏は閑静で綺麗な田舎へ行って御馳走をたべて白雲を見て本をよんでいたい」という(漱石の)想いがしたためられていたことが記されている。
このときの漱石の白雲と、蒼風先生の白雲とは、私の印象では全く対照的だ。片方は、世間の利害関係や喧騒からできるだけ遠く距離を置いた穏やかな白雲。もう一方は、社会の有象無象にまみれながら、そこに大空を押し広げて自らが湧き立たせる力強い白雲。
私は、今春退職するにあたって、漱石の白雲を眺めたい心地だった。いまも、どちらかというとそうだ。しかし、少しだけ、蒼風先生の白雲にあやかりたい気持ちもある。遠い白雲を追い求めて一度どこかへ行ってしまうと、もう二度と日常の愛すべき混乱に戻って来られないかもしれない不安がぬぐい切れないからだ。
……かといって、面倒も嫌だけれど。