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いけばな随想
diary

矛盾の中で 240108

2024/1/8

 私は、23歳で政治家の秘書になった。世間知らずの私には“想定外”が多過ぎて、心身を削り1年で辞した。以来、政治が嫌いで、しかし気になって仕方がないという矛盾を抱えている。
 25歳のとき、広告満載のタウン誌に反発して、広告のない雑誌を仲間と創刊した。第2号出版直前のタイミングで、協力してくれた印刷会社が倒産し、雑誌も廃刊した。仲間にはしょげかえった顔を見せたが、「助かったぁ」と心の中で思った。もし第2号が出ていたら、私の借金は倍増していただろう。広告料でしか出版費用が賄えない現実を学んだ挙句、否定していたはずのタウン誌の出版会社に入社したのだった。“踏み絵”を思い切り踏んだ瞬間だ。
 現在は、いけばなをしながら、花木の生産現場の状況については聞こえないふりや気付かないふりをしつつ、片目だけ開けて花木の流通に疑問や危惧を感じている。ポーズとして華道に没頭してはいても、面倒臭いと思うことも時にはある。
 SNSしかりである。日々のジョギング気分で自分のために始めたものの、気付けば他人を意識して、それに縛られた奴隷の気分なのだ。

手間こそが、すべて 240107

2024/1/7

 デジタル技術の活用によって、人の暮らしは加速度的に効率化に向かっているように思う。たしかに、不便を克服して便利をつくり出すことで、暮らしは進歩してきた。人は、文明化の名の下に、技術革新と情報化を繰り返してきた。
 そしてついに、小説も書けば絵も描く生成AIが、私たちの手間をもっと省いてくれようとしている。省かれて余った時間を、人は何に振り替えて使おうというのか。より創造的な物事に使えばいいと考えるかもしれないが、そもそも人は、昔から、自分なりに情報を求め、取捨選択して、創造のための材料にしてきたはずで、その情報の集め方や使い方を含めて個性であり、創造活動の全体だったと思う。
 アナログ時代の情報収集にはとても大きな偏りがあって、偏れば偏るほど、他との差別化が容易になった。逆に、情報収集を外部依存し、制作活動を外部依存すると、個性に基づく創造活動が広がるどころか失われてしまうのではないか。得られる情報の質と量に差がなくなれば、差別化は困難になると思う。
 ここにきて、「手間こそが、(生きていることの)すべて」と感じ始めた。

道草 240106

2024/1/6

 先日、道草を食って道の駅に寄った際、誰かが当たってサイドミラーが壊れた。道草という言葉も、道草を食うという表現も、ノスタルジックで好きだ。
 私が3歳のとき弟が生まれ、しばらくして長期入院することになった。彼に付き添って母も大阪へ行ってしまったので、私は田舎の祖母に預けられた。田舎なので、近所のほとんどの人が私を知ってくれたらしく、安心な環境のもと1人で歩いて保育園に通った。
 物心ついて確かめると、大した距離ではなく、角を1つ曲がれば真っすぐな一本道だ。途中に1軒、駄菓子屋があり、私はいつもそこを覗き込んで長く立っていたという。直接の記憶はないけれど、道草したかもというおぼろげな感覚が、人から聞いて想像した情景として残っている。
 華道は花を追究する「みち」で、「みち」であるならば華道も道草をすると楽しいのではないか。目的に縛られない遊びは、よりクリエイティブになれる。
 人間どうせ死ぬんだからと開き直ってしまったら、生きる証は無に帰す。それならば、どれだけ楽しく充実した道草をするか、華道においても当てはまると思う。

善行 240105

2024/1/5

 好きなことをしている人を見て、羨ましかったり、疎ましかったりした。どんな物事でも、程度というのは相対的で、私も相当好きなことばかりしてきたくせに、真似できないくらい好きなことをしている人が妬ましい。
 専門学校で教えている頃、私は自分を好きなことばかりやってきた人間だと自己紹介した。だから、君たちも好きなことをすればいいという気持ちが大きかった。しかし、それを徹底すると、社会悪をやってしまうことにもなりかねないと、気弱に補足するのだった。
 自分の好きなことをすることが、社会善と一致する場合は幸せである。
 私がいけばなをしていることは、果たして善行だろうか、それとも身勝手な悪行だろうか。もちろん、好きなことをやっている自分としては、悪行であってもやめられない。それなら、受け入れられないまでも、人に許される行為である方が望ましい。最も身近な妻にとっては、ギリギリ許せる範囲かもしれないし、高校の華道部の生徒たちにとっては、別の落ち着いた先生の方が良かったかもしれない。
 しかし、まあ、嫌いなことで悪行になるよりはいいか。

出会い 240104

2024/1/5

 経営資源は次の4つだと、そのむかし教えられた。ヒト、モノ、カネ、情報。
 1月2日に高校3年の同窓会があった。日頃から懇意にしている奴、同じクラスだった顔なじみ、久しぶりに会った女子……。
 特に二次会では、在学中ほとんど話したことがなかったT君や、やはりほとんど話したことがなかったM君とも45年以上ぶりに話をした。Tは寺の住職で、Mは経営コンサルタント上がりのドクター(大学教授)。どちらも、人に話をする仕事なのに、片方は無償の仕事の範囲が広く、片方は無償で抱える部分がほとんどないという印象を持った。住職だけでなく、日本に昔からある仕事は有償・無償の境界があいまいで、欧米由来の仕事は境界が明確なのではないだろうか。日本的ムラ社会では、コトに当たるとき共同で作業に従事してきた。それができない者は村八分にされた。
 それはそうと、改めて、人生において大切なのはヒトだと思う。しかも、「出会い」は求めて得られるものでもない。私は、いけばなをしていて、幅広い世代の幅広い属性の人と出会えている。それもあってか、やめられない。

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