痩せていく時間 240225
2024/3/3
昨日という日は、あっという間に過ぎ去った。今日という日も、どんどん過ぎていく。
踏み止まろうと思っても、時間は雪崩のように崩れ落ちていく。いろいろとイベントがあった2日間でさえこうだから、イベントがない1日は、無意識のまま翌日になってしまう早さである。
かつて就業していた境遇で、私はいけばなと週1回・半日の付き合いだった。年間約50回で、たった25日分。そのペースでは、80歳まで手と頭が動いたとしても、25日×17年=425日。現在、機会が平均週2日に増えたので、1700日の見込みに増えた。それに今は、実家の庭仕事だとか、この日記のような随想を書く時間も含めると、花との付き合いは、のべ週3日の量になる……とかなんとか計算しても、残りの生涯でいけばなに取り組める日数は大したことない。
しかし、70歳くらいまでしか元気でいられないかもしれないので、いけばなに日々没頭して取り組めるチャンスはもっと少ないだろう。勉強でも仕事でも、趣味でも何でも、時間を掘り起こして耕すようにしなければ、“時間の畑”は痩せていくばかりだ。
いけばなをどう撮影するか 240224
2024/3/3
いけばなは空間をつくる。いけばなは空気の入れ物。
そんなことを予め言われて、フォトグラファーはどう撮ればいいのだろう。当然、ピントは花びらの1枚、おしべの1本に合わせられる。ところが、いけばなの人が、私は空間をつくったのです、この作品には気配を宿していますと七面倒臭いことを言うもんだから、空気にもピントを合わせる必要がある。かといって、空気空間にピントを合わせて、花にも葉にもピントが合っていなかったら、このカットの撮影は失敗したの? と失礼なことを言われてしまう。作者にしてみれば、花も空気も上手く撮るのがプロでしょうと、本気で思っているのだ。
結局のところ、いけばなをつくった本人に撮り方はわからないし、撮る側は、そのいけばな作品の意図する主題が見えにくい。それで、作品から距離を置いた写真と、作品の一部が画角からはみ出すくらいクローズアップした写真を両端として、その距離の間を埋める写真を何枚か撮ることになる。
皮肉なことに、広い空間の全景写真は平面的に見え、寄りに寄ってはみ出た写真は空気を含む奥行きと気配が写り込む。
いけばなを撮影する 240223
2024/3/3
平面的な描画では、主題のモチーフを「図」とすれば、背景や余白が「地」となって、それぞれの占める割合が、3:7とか6:4というふうに大雑把にはわかる。その比率がどうであっても、カンバス全体を撮影しておけば事足りる。
いけばなは、花材による造形部分が「図」だとしても、背景や余白にあたる空間の「地」がどの範囲にあるのか捉えにくい。1本の枝の葉の繁りの内部にも、枝と枝の組合せの内側にも余白があるし、外部空間には境界がないので、「このへんが地ですわ」と、その時々の感覚で決めたいのは山々だけど、これが面倒で決めかねる。
だから、いけばな作品の撮影を頼まれたフォトグラファーは、みんな困る。写り込む範囲(画角)を、勇気で決めるしかない。作者自身が決めていなかった作品空間を、フォトグラファーがエイヤッと決めて撮らなければならない。撮影データの縦横比を決めるのも、フォトグラファーの仕事で、たいていの作者はそんなことに無頓着だ。
いけばなの作者は、試し撮りの写真を見てから、細かくたくさんの注文を付ける。明る過ぎるだ、寄り過ぎだと……。
時間といけばな 240222
2024/3/1
昨日、義父の告別式だった。そして、今日は亡母の誕生日だったことを思い出す。
私と義父との関係は18年、実母との関係は51年だったが、人と人との関係は、親子の場合、長いときは60年、70年にもなる。
さて、作家とか画家が自分の作品をつくるとき、着想から完成までにどれくらい時間をかけるのだろうか? 遅速があるから一概には言えないにしても、一般的には、華道家がかける制作時間より長いと思われる。
いけばなは、少なくとも私の場合は、構想や思索よりもインスピレーションで制作することが多い。時代や社会に対する焦燥感や問題意識などが動機になっていないから、「思い付きばったり」なのだ。「構想、ん十年」はありえない。
短時間で準備して短時間で完成させられるので、たくさんいけようと思えば、作品をどんどん完成させられる。そうすると、駄作が多くもなる。かけた時間の長さと作品の出来映えは正比例しないが、かけた時間の長さと思い入れは、かなり正比例する。そして、悲しいことに、どんなに時間をかけて準備したいけばなも、花が枯れたら後には何も残らない。
いけばなは空気の入れ物 240221
2024/2/29
いけばなは、土や鉄で作られた彫刻(密度の高いボリュームをもった作品)に比べて、密度が低い。密集しているように見えても、枝と枝、葉と葉の間には、何もない空間が秘められていて、それは、花材の分量よりも遥かに大きい“余白”である。
自然界で大地に生育する木々も、風が抜ける空間がなければ、虫がついたり腐ってしまったりする。
空間を抱えている点で、木々は入れ物の性格を持っている。隙間だらけの解放された入れ物なので、どこからでも小鳥が入っては出ていく。季節ごとに、いろいろな鳥がくる。近所に暮らす猫も、時折葉の繁りの中で休んでいる。さては、獲物の小鳥を狙っているのか? そしておそらく、たまに神様も降りて来られるのだろう。それで、大昔から、木々が神様の依代とされてきたのかどうかは知らない。
話を元に戻すと、いけばなは空間を大きくつくっていく。自然界の木々に倣って、いけた枝や花で空気を大きく取り込んで、そこに気配を宿す。私は太極拳を知らないが、イメージとしては、自分の体ではなく植物の体を使って太極拳をしているようなイメージもある。