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いけばな随想
diary

美の判断基準 231219

2023/12/19

 高校3年時、放課後ポヨヨンと歌謡曲を聴いていた私は、後輩のTK氏から「普遍性というのは、歴史を越えて国境を越えて受け入れられる、つまり時空を越えて鍛えられたものこそが普遍性を持っているということなんです!」と詰め寄られ、是非ともクラシックを聴いてくださいと懇願されたのは、私の人生にとって決定的な瞬間だった。
 成人して後、「なけなしの自分のお金で絵を買う行為を重ねると、芸術を見る目が格段に鍛えられるんです」と言われながら、彼の家で彼が買った絵の1枚を見せてもらった。縦横斜めに描かれた直線が折れ曲がった先に、宙吊りにされたニワトリがぶら下がっているモノクロ線画だったと記憶している。
「ふーん。それにしても、この曲いいねー」と、その絵よりも彼がかけているBGMに興味を示すと、「わかりますか!」と、やや興奮気味の彼は、Neville BrothersのそのCD「Yellow Moon」を「差し上げます!」と言って、くれた。
 私は幸運である。若い時から、自分の美的基準をはっきり示してくれる身近な人がいてくれたのだから。その後、数をこなして自分の基準も見えてきたような気がする。

未来にあるもの 231218

2023/12/18

 いけばなは、「そこにあるもの」だけがあるのではない。
 いけた本人が「背景の山を借景している」ということであれば、そのいけばな作品の大きさは空間的には直径5kmにだってなり得る。いけばなの空間にはドローイングの絵のような額縁がないから、「そこにないもの(遠い景色)」も、作品の一部として持ってくることができるのだ。
 いけばなは、時間的にも表現を拡げていくことができる。
 いけばなで使う植物は、人の感覚で感じ取れるくらい速い速度で生長し枯れていくため、私たちが普段使っている意味での「現在」と呼ぶ時間に、もう少し前の過去ともう少し後の未来を含んでいる。実際にも、1本の枝の下の方の花が散り始めている丁度その時に、枝先の方の蕾が膨らみ始めていたりする。つまり、過去に存在していた種子や蕾の面影を残しつつ、未来に存在する枯葉や新しい種子を予感させているのが植物だ。
 そんな植物をおもな材料とするいけばなは、やはり「いま」の範疇が広くて、「過去」や「未来」と断絶することなく、「現在」において「未来」を先取りしながら表現できる様式なのだ。

機会と結果 231217

2023/12/16

 野球の世界では、打率3割がひとつの目安となっている。3割を超えると、好打者の仲間入りだ。10の素晴らしい機会をもってしても、良い結果は3しか得られない。とすれば、素晴らしい機会を3つしか持っていないとすれば、得られる良い結果はせいぜい1つしかないわけだ。数量の問題では、そういうことになる。
 次に質の問題を考えると、どういう高質な結果が得られるかは、どういう高質な機会を持ったかということにかかってくる。これも大事だ。
 また、結果を意識する際には時間も大きな問題で、どれだけの時間的遠近を展望するかによって、今この時の取り組み方が変わってくる。いけばな教室を開講するには、半日か1日前に花材を準備しなくてはならない。調理の場合は、部分的に冷蔵や冷凍の食材を仕入れられても、いけばなでは無理がある。だから、最良の花材との出会いは一期一会だ。つぼみの開き具合や葉の弱り具合を見極め、少しでも良い出会い、良い機会にしなくてはならない。
 さて、私自身もいけばな講師として、習う人にとって質の良い機会をたくさん提供できているだろうか。

庭仕事 231216

2023/12/16

 昨日は1週間ぶりに庭仕事をした。ムクゲとアメリカハゼの高枝を落とし、ヤマゴボウの育ち過ぎたのを根元から切った。向かいの家の2匹の猫も「ああ、久しぶりだね」という感じで、恐る恐る作業の様子を見に来てくれた。
 夏が過ぎて涼しくなったら剪定しようと思っていたのに、なかなか涼しくならず、昨日も摂氏22度を示したくらい涼しくなかった。そんなだから剪定作業は思うようにはかどらず、あと2本、大きな木の剪定が残っている。
 さて、庭仕事である。仕事なのに、仕事でない。
 向かいの家の奥さんが、庭のソケイの切り枝を携えて、猫の様子を見に出てきた。ガラス瓶の中で、切り枝の節から、白くて繊細な5cmくらいの数本の根が生えていた。それを数日間見守って、私が来るのを待っていてくれたのだ。「植えてみる?」と言うのを断る理由もなく、アメリカハゼの根元に植えることにした。これから寒くなるのに、ちゃんと根付いてくれるかな? 何より、向かいの奥さんも、猫の様子を見に来る振りをして、この苗木の状態も見に来るだろう。気を抜けない。
 仕事でない仕事が、また増えた。

花器 231215

2023/12/15

 買ってしまった。また、花器を買ってしまった。
 もともと私は「器」が好きで、香合や文箱などの蓋物を見ると眼が泳ぎ、いつの間にか財布の蓋を開けているという暗示にかかるのだった。
 だから、花器も、水盤のように口が大きく開いて隠し事が何もない器より、口をすぼめて中の様子が見えない器が好きだ。
 器はもともと空っぽで、何かが入るために作られている。水盤には申し訳ないが、明け透けな大きな口では、入ったものがすぐに出て行ってしまいかねない。口をすぼめた花器の場合、入るためには相当な努力が必要なので、そんじょそこらのいい加減な奴はさっさと諦めて入ってこない。かといって、入った場所に執着するでもなく、出るのは簡単で、神様も1年に1度しか神輿に帰って来ては下さらないのに、数日で出て行ってしまわれる。
 しかし、水盤には応用力がある。足を広げた花もいけられるし、足元を絞った花もいけられる。口の小さい花器の場合、足元を広げると、花材が花器の外に出てしまう。すると、大小の関係でみると、花器に花をいけるというより、花に花器をいけることになる。

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