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いけばな随想
diary

サイン 240120

2024/1/20

野球の試合でコーチがバッターに出すサインではない。画家が作品に記したり、ファンの差し出す写真集にタレントが書いてあげたりするサインのことだ。私自身、自意識が過剰だった頃は、雅号の「汀州」のサインを無駄に練習したりもした。

いけばな展では、席札と呼ぶ流派・資格・雅号・花材が表記されたカードを付すが、作家のサインは見当たらない。サインというのは、誰かが有難がってくれて初めて価値を持つので、欲しい人がいない作家は自分のサインを練習する価値すらないという、経済の需給関係がここでも成り立っている。

しかし、一方で、アンディ・ウォーホールやキース・ヘリングのように、作家のサインがなくてもそれとわかるような個性的な作品を生み出す作家もいる。日本の歌謡界でも、その声だけで誰が歌っているかすぐに分かる個性的な歌手は多い。

ともかく、今のところ、私のいけばな作品だけでは、それが私の作品だとは誰も気付いてくれないし、仮にわかったとしても、じゃあそれを買ってあげようということにもならない。つくづく、やっかいな道に入り込んだものだと思う。

名前 240119

2024/1/19

私の本名は玉井道雄である。過去には、タマ(あだ名)、トム(ニックネーム)と呼ばれたり、玉井万作(芸名)や黒崎祐輔(ペンネーム)を名乗ったりした。今は玉井汀州(雅号)で世を渡る。

大学生の頃、東京の明大前の小劇場で公演(演劇サークルに所属して、当時は万作だった)したとき、近所の寿司屋から小説家の北杜夫さんが酔っ払って出て来られた。私は咄嗟にハンカチを出して「サインください!」。北さんは書生に肩を支えられて、グダグダの文字でサインしてくれた。ギリギリ読めた。

世には、商売上の源氏名を持っている女性も大勢いる。半分くらいは直筆で書いた名刺をくれる。書き慣れていて、みんな達筆だ。そして、最後まで本名を知らないまま出会わなくなってしまうのが、謎めいていていい。

四股名やリングネームを名乗るアスリートもいる。力士の名前に「海」や「山」が多いのは、見ている当方としても納得できるお似合いの名前だ。本人としても、相手を吞み込んでしまう大きさや、どっしりと地に着いた強さにあやかりたい気持ちがあるのだろう。

私はどんな汀州を目指そうか?

趣味 240118

2024/1/18

「あなたの趣味は何ですか?」と聞いて、即座に答えられる人は多くない。そして、考えあぐねた末にかぼそい声で「読書」と答えられると、私は少し寂しい。その答えを聞いても、相手にもう一歩近付くヒントにならないからだ。

それでもし、「どんなジャンルや作家の本を読むんですか?」などという質問を畳みかけてはいけない。苦し紛れに「読書」と言った向こうは答えに詰まるし、逆に私の知らない現代作家の名前など出されたときには、聞いた私が苦しまなければならないからだ。

だから、相手に期待する答えは、たとえばこうだ。「私、何よりホラーが大好きなんですよね……ウッフッフ」と周囲を気遣いながら声を押し殺して言ってくれると、こちらも「いやあ、なるほど。貴女も月夜がお好きですか? 月夜にウチの黒猫は、屋根裏でぴちゃぴちゃミルクを舐めているみたいでね」と、私も夜通し眠らないことを話せる。

では、「趣味が悪い」というときの趣味とは何であるか? 「私の趣味はいけばな」ということとは全く違って、「気質やセンス」の問題だろうから、よほど気を付けなければならない。

いけばな展 240117

2024/1/17

若い頃、ロックコンサートや芝居によく行った。歳を取り、コンサートや芝居に行くことが減った分、美術館に行くことが少し増えた。

コンサートは、ステージと客席の一体感が堪らない。美術展は、仮に友人同士で行ったとしても、それぞれ個々のペースで自分の鑑賞の仕方に沈潜する感じだ。不思議なのは映画館だろうか。暗い場所で1人ひとりがスクリーンと向かい合っているのに、何だか客同士の仲間意識も感じられる。

そんな中で、いけばな展に行ったとき、私はいつも物足りない。だから、1つの作品の前での滞在時間が、美術展のときに比べて格段に短い。私自身がいけばなに興味があるのに、いざ見てやろうとすると、あまり関心がない人のような見方をしている。

原因は、作品が鑑賞に堪えるように展示されていないからだ。そしてその原因となっているのは、たいていのいけばな展は、多目的の展示室でただ展示台に並べられていることである。目黒雅叙園等で開催されるいけばな展に見ごたえがあるのは、作品と作品を包み込む空間とが一体的になって、本来のいけばなを丸ごと見せているからだ。

情報過多 240116

2024/1/16

沢山の人のいろいろな作品を、様々なメディアでいつでも見ることができる。それらを見ては、ああ、こんないけばなもあるのかと、感心したり驚いたりする。自分では試みたことがないような方法もあって面白い。

作家数の何倍もの作品数があるので、それらを見ていると、私の思い描くアイディアの何倍もの無数のアイディアが次から次へと私の頭の中を通り過ぎていく。そしていつしか、自分のアイディアなのか、他人のアイディアなのか混然としてわからなくなる。私自身のアイディアを固めようとしても、通過していく作品たちから降り注ぐ雨風のような刺激を受けて、いつまでもドロドロとして固まる気配を見せない。

それならば、もう、自分のアイディアを膨らませることを諦め、他人のアイディアを搔き集めてジグソーパズルを組み上げる方が、よっぽど面白い作品ができあがるのではないかという誘惑も生まれてくる。

体力と気力が充実しているときは、他人のアイディアを栄養として分解・吸収できるのだが、そうでないとき、私は自分というものがないコピー機になり下がってしまうのだった。

講師の事