入門 240131
2024/1/31
少林寺を描く中国映画などでは、入門早々から拳法は教えてもらえない姿が描かれる。遠い井戸まで水汲みに行かされたり、薪を割らされたりする。
結婚式場に就職した現代の新人も、はじめはトイレの掃除ばかりやらされて、「修行したいわけじゃなく、プランナーの仕事がしたいの!」と、意義を見出せず早々に去っていく。だから、現代社会では教え惜しみをすると拙い。教える側は惜しんでいるのではなく、教わる本人に学び方を見つけて欲しいと思っているのに、明日には「退職したらしいよ」というニュースに驚くことになる。
入門というのは、狭義にはギチギチの弟子になることかもしれないが、広義には“その世界”で暮らす一員になることだ。会社の門やサークルの門をくぐったら、それはひとまず入門だ。
どんな組織に入門しても、先輩達は、その世界の空気や匂いを頭ではなく肌で感じ取った者にしか、流儀や技術を上手く教えられないことが判っている。特に奥義は、とうてい言葉だけで教えられるような代物ではないから、本人が意識的にトイレの神様にも繰り返し習って体得するほかはない。
自由花 240130
2024/1/30
草月カリキュラムでは、5課程のうち1と2で、まず花型法を学ぶ。花型法は全部で40の単位で構成されており、その30番目に「自由花」が出現する。ずうっと「型」ばかりやってきた人間が、不意に「約束にとらわれる必要はないから、自由にやってみろ。」と言われるのだ。
小学校か中学校のとき、時間割に「自由時間」というのがあったように記憶しているが、何をやったか全く覚えていない。クラス全員が1つのルールの下にまとまって何かをする「不自由な自由時間」だったのか、それとも各自1人ひとりが全く自由に過ごせたのか、自由の程度は幅広い。
草月の自由花は、それぞれが本当に自由に考えろという立場だ。型という線路を機関車に引っ張られて走ってきた客車が、いきなり線路を取っ払われた挙句、自走式の機関車になってどこにでも走って行けと突き放される。これ、凄くありませんか?
人間、よくできたもので、ポーズとして途方に暮れた後、たいていはその困惑や驚きを新鮮な気持ちに切り換えて、個性的な造形を見せてくれる。そもそも、草月のいけばなを選ぶ人には底力がある。
いいね 240129
2024/1/29
テレビ番組が、若い世代はLINEで「。」を使わないという話題を取り上げ、それを文末に使うと、怒っているように受け取られる恐れがあるから注意してね、と言わんばかりの軽薄な論調にまとめていた。私は、番組ディレクターのセンスにちょっと腹を立てた。もっと怒りを買う日本語を、与党政治家が確信的かつ日常的に使っていることを糾弾せずして、何が「。」だ?
私の脳味噌は複雑に縺れ合っているので、どうしても一文が長くなってしまう。言葉代わりの記号として、疑問を持ちつつ「いいね」を頻繁に使ってしまうが、「いいね」でコミュニケーションが賄えているとは考えたくない。しかし、実際のところ、それで済む世の中だ。私たち日本人の感覚がとても単純になっているので、国語辞典のページ数は、現在の百分の一で十分である。
もちろん、「いいね」を使っている個人がどうだとか決めつけるつもりはないけれど、人々の文化として、単純になることは薄っぺらになることだと思っていて、私は意地でスタンプは使っていない。
なーんて言いながら、私の投稿には是非とも「いいね」をください。
俳優の振る舞い 240128
2024/1/28
先日、いけばな教室に体験者が来られた。ダンス経験があると聞いたので、わが意を得たりと、いけばなは花材を舞台俳優のように演じさせるという説明をした。
言うは易く行うは難しで、私自身はあまり上手な演出家ではなく、俳優である花材の目線の配らせ方が下手だ。
子供のころ、事情で電車通学をした時期がある。水筒の水を飲んでいると、向かいに座る見知らぬおばあさんから、「電車の中で飲み食いするのはみっともないからおやめなさい」と注意を受けた。人の視線に恐怖を覚えて、電車の座席に座るのが苦手になったきっかけは、そのときだと思っている。今でも電車の座席に座ると目の置き所に困って、眠った振りをするか、スマホに見入った振りをしなければならないから、立っていることも多い。
さて、いけばなである。特に主役の枝は、観客に向けて強い目ぢからで見得を切らなければならない。敵役の枝も油断をしてはならない。主役を食ってしまわない抑えを利かせながら、目線でアピールする。3人目は、文字通り舞台に花を添える。いずれの役も、私のように目線を逸らせてはならない。
意思の力Ⅱ 240127
2024/1/27
昨日は、動機の浅い作品は、鑑賞者が制作者の心的体験を追体験できないと書いた。
しかし、すべての画家が明確な理念を持ち、その理念に忠実な下僕として自分の手を働かせるとも限らない。画家の問題意識が大きければ大きいほど、自身を納得させる十分な説明などできない。だから、ああでもないこうでもないと迷いながら、画布に向かう。
ここで、鑑賞者が真剣に追体験を試みるとき、思い掛けないことに、作者自身がわかっていなかった制作動機を先回りして発見してしまうことも起こるのではないか? 作者がまだ形にしえないモヤモヤを描き、作者としては表現的に未完成だと思っている作品の中に、鑑賞者が客観的かつ論理的に突き詰めて、作者が表現したかったものを発掘する奇蹟。その奇蹟によって、私が手すさびでいけた外形だけの花に誰かが命を吹き込み、いけばなとして完成させる妄想!
作品を制作した時点では意図が浮かび上がっていなかったかもしれないが、私の心か頭の片隅に「語るつもりだった種」はあって、誰かがそれに水をやって、私自身の関与と無縁に発芽させ開花させるのだ。