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いけばな随想
diary

知らない相手 250829

2025/8/29

 名前を知っている花ならば、その名を告げて花屋に注文できる。しかし知らなければ、花の姿かたちや大きさや色などを電話越しに説明しなくてはならない。
 道を歩いていて知っている花が咲いていれば、心の中で「あ~ここにもフジバカマが咲いていたか」などと目にも心にも留まる。しかし、知らない花に示す関心度合いは普段の生活の中で低いし、植物博士になるつもりはないから、よほどのことがないと名前や正体を調べるには至らない。
 ところが、知らない花なのに目を奪われることもある。初めて奄美大島に行ったとき、ヒカゲヘゴ(高さ4~5mの木生シダ)の森で空を見上げて感動した。その森でずっと過ごしたい気持ちになった。大蛇のようなモダマの蔓にも、メヒルギ、オヒルギで構成されるマングローブの林にも私は虜になり、時間が経つのが惜しかった。普段から流木にも関心がある私は、どうやら花よりも木に感応する傾向が強いようだ。
 見知らぬ相手に対するストーカー行為などは論外だが、探検家や生物学者や遺跡の発掘者など、未知の何かに魅入られた人々の気持ちはわからなくもない。

過ぎたるは…… 250828

2025/8/29

 何事もバランスなんよねー。愛情も不足が過ぎると破局が待っているし、過ぎたら鬱陶しい。
 木の枝は人工的に増やすことができないから、いけばなは切って切って切りまくるという方法を駆使する宿命にある。切り過ぎたらもう元に戻せない、際どい綱渡りだ。ボリュームを増やしたいがために他の枝を加えると、もともと表現したかった枝ぶりが、その他大勢に紛れて失われてしまう。ドラマの主演俳優のオーラが足りないからと言って、群像劇に仕立て直すような愚挙となる。
 バランスということで見ると、こんなことも言える。シーソーの両側に、同じ体重の子どもが同時に静かに乗る。左右が釣り合って動かない。釣り合いが取れて静止した状態からは動きが予感できないから、人の心を動かさない。左右の子どもの体重が違い過ぎると、今度は重い方が地面に付いたまま動かない。そこにはやはり運動の起こる気配がないから、人の関心を引かない。
 映画では、壊れそうな愛のバランスが描かれていると気を引くし、いけばなでは、倒れそうで倒れない枝の傾きが目を引いて離さない。良し悪しは別としても。

生活リズム 250827

2025/8/28

 満ち潮や引き潮は、地球と月との関係によって起こる。満潮のあとは必ず引き潮が来て、干潮を迎えた途端に海は満ち潮に転じる。月の満ちては欠けるという往復運動は規則的だ。
 私の気分は高揚しているときが満潮、塞いでいるときが干潮で、その満干の範囲で上がったり下がったりしている。呼吸や心臓の鼓動はコントロールできないが、思い思いのリズムパターンをつくり出したり、意思に反して乱れさせたりしている。放っておくとリズムが相当に乱れるので、1年を12ヶ月に区切り、1日を24時間に区切って、何とか踏み止まっている。
 子どもの頃の私は朝型で、高校生頃から夜型、働き始めてから深夜型になった。退職後は、飼い猫と共にいつも半分眠っていて、ご飯の時だけ覚醒する。だんだんゆっくりしてきた私のリズムは、もう植物のリズムみたいにゆっくりだ。もはや、反応の早い捕虫植物や時間を選んで開花する花などからも置いてけぼりだ。
 人間は、高齢になると植物的なリズムに近付いている感じがする。いけばなは、リズムの遅い高齢者の方が、植物との対話がうまくいくかもしれない。

出し惜しみ 250826

2025/8/27

 知っていることを全部言うのは、不可能ではないかもしれない。ただ、その状況を想像すると、まず聞いてくれる相手の集中力が続かず、分かりにくい話を延々と聞かされることに対して拒否反応が生じるだろう。100を伝えようとした結果、聞く姿勢を得ることなく1すらも伝えられずに終わってしまう。
 そして冷静に考えると、私が五感を総動員して知り得た情報や体験を喋りだけで展開すると、おそらく実体験の2倍以上の説明時間がかかってしまい、一生を費やしても全てを語り尽くすことが出来ないことに絶望するだろう。
 さて、相手の理解力に応じた説明の重要性である。先日、少年少女向けの文化体験の講習があり、いけばな体験をお手伝いした。最年少は3歳児。何を説明しても始まらないことは自明である。こんなとき、できることは楽しんでもらうことだけだ。これが5歳であっても10歳であっても、50歳であったとしても、初めての人が相手の場合は、説明が過ぎると相手が引いてしまう。
 私はいつも、出し惜しみしているわけではないのである。説明はいつも、足りないくらいが丁度いい。

遊び人になりたい 250825

2025/8/27

 私がいけばなをやっている深い意味は、自分にもよくわからない。「遊びだよ、遊び」と言ってしまうと、一人遊びに逃げているみたいで、いけばなを一緒にやっている人の一部から無責任極まりないとヒンシュクを買ってしまいかねない。
 私自身が楽しんでいることは否定できないし、自分のためでもあるということは間違いない。ただ、はじめは楽しく一人遊びをしていたものが、だんだん一人ではなくなってきて、ついには、花が私に奉仕するのではなく私がいけばなに奉仕しているような感覚になることも出てきた。
 さて、仕事ということになると、必ず責任が問われる。使命感とか、役割とか、目標とか、ワーク・ライフ・バランスとか、コンプライアンスとか、利益とか、チーム力とか、いろいろな角度から見てみなくてはならない。
 だいたい、ホンモノの芸術家は、昔から実生活が苦手だった。日本のムラ社会では、バクチ打ちや遊び人も非適合者でしかなかった。それでも半分隠居の身の私は、「遊びだよ」と言って、実生活適合者をケムに巻いてやりたい気持ちが漏れ出してしまうことがよくあるのだ。

講師の事