個と集団 240911
2024/9/11
1人だと真面目で優しい奴なのに、徒党を組むと人が変わったように荒っぽくなるんだよなあ。そんなふうに、「赤信号みんなで渡れば恐くない」的に変身する奴は多い。残念だと思う。しかし、いけないことをたった1人でやりこなしている奴に出会ったら、いけないことだけれど褒めてやりたい。ちょっとカッコいい。
1人だと迷いに迷って決断できないのに、仲間と飲み会で笑っているうちに迷っていることが馬鹿らしくなって、スッと迷いが消えたりする。ありがたいことだ。しかし、面白いことを1人占めしている奴を見ると、なんて1人よがりなんだと責めてやりたい。いかんやろ! と。
こんど10月に開催するいけばな展は、52人みんながそれぞれ1人で作品をつくる。たいていの展覧会では複数人で関わる合作とか連作があるのを排除して、今回はとことん個人制作にこだわる。
だから、個々の性格や気質が如実に表れるだろう。楽しそうだ。だけど、普段のお稽古や研究会などを通じて、「草月会愛媛県支部」の性格や気質もにじみ出るかもしれない。見破られるのは、こそばい(くすぐったい)。
いけばならしさ 240910
2024/9/10
いけばならしさとは何か? フラワーデザインやフラワーアレンジメントと比べてどうか? 日本の伝統文化といわれる茶道や書道と比べてどうか? 同じ日本の伝統に根差した柔道や剣道などの武道と比べてどうか?
これまで、気分的には、まわりと比較していけばなはこうかもしれないし、どうだろう、よくわからないけど、というくらいの迷い方で、いけばなを繰り返し問うてきたつもりである。しかし、いけばなを習う人のほとんどがそんなことで悩んだりするヒマジンではないし、その迷いを共有するために習い事に来ているわけではない。
昔は、お花の先生も敬われ、私がこう言っているのだから、こうなの! と言えばそれまでだったのが、今どきは何でもその場で検索できるので、先生の言うことが必ずしも正しくないというのが当たり前になってしまった。
ルーツを遡れば、いけばなは華道である。道は先生が実体験によって究めた道で、富士山の登山道のように道しるべがある道だ。しかし、富士山に登頂するには、登山道を登らなくても可能だ。示された道を横目で見ながら、自分の道で登っていける。
モノと物語 240909
2024/9/9
花屋のバケツにあるリンドウは、リンドウという1本のモノでしかない。それを買って帰り、いけばなの花材として使ったとき、モノでしかなかったリンドウが物語を紡ぐ登場人物の1人となる。
私は視界に入る影や光を計算し、大道具小道具を取捨して、舞台を設ける。花器を据えて、花材の登場人物を6人程度登場させる(主枝3本、従枝は3本かもっと多く)。登場人物ごとに主役や脇役、敵役などを担わせ、その他にエキストラの役を与える。
監督兼脚本家の私は、主題とそれにふさわしいタイトルを考え、場面を設定し、俳優達には出過ぎず引っ込み過ぎない発声やジェスチャーを求めることもあれば、常識をはずれた大袈裟な演技を求めることもある。そうして、1本のリンドウも、あまたの生活者の1人でしかない立場から、唯一の役を演じる俳優となり、無名のモノから名高い名優へと脱皮するのである。
もちろん、リンドウが生来持っていた生命力やポテンシャルが必要だったことは言うまでもない。しかし、それ以上に、監督である“私”のリンドウを“いける”行為が、リンドウの未来を左右する。
生命 240908
2024/9/9
子どものころ夢中になった「鉄腕アトム」、「サイボーグ009」や「どろろ」などの漫画は、生命らしさとは何かという問題を突きつける。そんな大問題を子どもが正面から考えるにはハードルが高かったし、不思議な感覚を覚えながら、ただ心が囚われていた。
思えば、生物の生命ほど多様性に富むものはない。標準化してこれが最高だといえる完成形がない。遠からず必ず死ぬということが、生命の神秘性のバックボーンにあると思う。
さて、生成AIの登場で、絵画までもが人間の想像力の手を離れてしまうような心配もあるというが、私はそれを心配していない。人間には隙がある。人間には油断もあるし、人間はふと思い付いたりふと気が変わったりもする。また、気分が塞ぐことも快活になることもあるし、気圧で頭が重いことも、食べ過ぎ飲み過ぎで逆流性食道炎になったりもして、捉えどころがない。
この、捉えどころのなさこそが、生命らしさの原点ではないだろうか。どこまでもどこまでも他人に理解されないいけばなをいけること(私にはできないけれど)、それが生命力のあるいけばなだろう。
目当てなし 240907
2024/9/7
カヤックで海へ漕ぎ出すとき、目線はできるだけ遠くへ向ける。パドルを海へ差し込む近い所だけを見ていると、進むべき方向を見失ってしまうからだ。逆に水平線の彼方だけを見ていると、これも危ない。目に映る景色が変わらず無力感に襲われるし、海面ぎりぎりに突き出た岩礁で船底をこすったり、乱れた潮目に捕まったりするからだ。
また、カヤックでは、目的地なしの航海ほど不安なものはない。漂い続ける行為の向こうには、仮に遭難しなかったとしても死ぬイメージしかないからだ。
私がいけばなの道を歩き始めたとき、目的地はなかった。20余年を経て目的やゴールイメージははっきり見えないけれど、少しずつ靄が晴れつつある気分だ。それは、ある意味で行く先を探すことをやめて、漂い続けることを目的にしてしまうという思い付きによる。シーカヤックでは死ぬ覚悟が必要かもしれないけれど、いけばなでは目的意識がなくても死ぬことはない。
いいじゃん、いけばな! 目的地に到達することに意味があることがらと、目的地に関係なく「それ」をしていること自体が目的なのもいいことだ。