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いけばな随想
diary

空間の可能性 250812

2025/8/12

 枝葉を切り落とすことはできる。しかし、枝葉をいけることによって生み出される空間は、ハサミを使っても分割できない(切り分けることができない)。空間を分割したい時は、新しい枝を1本足すことによって2つの小さな空間に分割できる(という思い込みはできる)。それがなぜ思い込みかといえば、2次元平面は1本の線で分割できても、3次元空間は1本の線では分割できないからだ。
 いけばなの空間は、枝葉によって囲われた空間と、そこからはみ出して無限に広がる空間とがある。住居の場合、基本的にドアや窓を閉めれば密室になる。日本建築は、襖や障子や欄間のように“ゆるい”仕切りで構成されるため、密室感はあまり感じない。縁側や土間のように住居の内側でありながら外側にもなりえる構造もあって、内側空間と外側空間がつながっている。
 いけばな空間は、さすがに日本で育ってきただけあって、日本伝統の居住空間に似ているわけだ。
 いけばなの外側空間はとくに、何本の枝を足しても全く分割できない。枝はある部分を切り取れるが、空間はそのどの部分も取り去ることができない。

居住空間といけばな空間 250811

2025/8/11

 いけばなは、実体のある花材と、花材以外の空間によって成り立っている。それはいけばなを始める前からわかっていた。しかし、これについて近頃正体のわからないことが気にかかってスッキリしなかった。
 解けたという納得感は得られていないものの、それが少しほどけた。花材は、枝の長さが40cmだとか、花は直径が7cmというふうに測ることができる。だから、枝をあと5cm短くすることができるし、もう少し大輪の花が欲しかったと残念がることもできる。
 さて、住居の設計図は、実体のある柱や壁などによって構成されて、同時に部屋空間の容積も数値的に割り出すことができる。いや、設計士の頭はむしろ、先に人が過ごす部屋の空間の形や大きさを決めて、それに基いて床や壁の縦横高さを決める。
 いけばなをする私は、設計士のように空間を明確に決めてから花材を配置するという頭の働かせ方ではない。何となくいい加減に作品の大きさを思い浮かべたり忘れたりしながら、行きつ戻りつ作業を進める。いけばなも、何か小さな精霊の棲家をイメージしてみようかしらん。アプローチの思い付きだ。

アール・ド・ヴィーヴル 250810

2025/8/10

 パトリス・ジュリアンという親日のフランス人がいる。東京周辺でレストランを経営したり、『生活はアート』『いんげん豆がおしえてくれたこと』などの著作がある。だから料理人やエッセイストの肩書を持っているが、「元ライフスタイルアーティスト」という面白い肩書もある。
 このライフスタイルアーティストとして、自著の中でも語っているのが「art de vivre(アール・ド・ヴィーヴル)」である。この言葉は、人生と芸術は土俵が別々ではなく、暮らし=アートというくらい芸術が日常に息づいているという状態を表している。広い解釈では、日常生活のあらゆる場面において自分らしく生きることを追求する姿勢を指す。アートが自分らしさに直結するという常識が、フランスっぽいところだろう。
 パトリスが語っている内容は、日本人が昔から思っていた(日本人は思ったことを語らないで黙っているが)内容と大差ない。身の回りの物を大切にしよう、無駄をなくそう、そして生活の質を高めようというものだ。
 生活の質について日本人がより積極的に取り組むと、いけばなのある暮らしということになる。

枕草子 250809

2025/8/9

 夏は夜……。清少納言にとっては、月夜もそして闇夜も同じように趣きがあって好ましいようだ。
 さて、今晩の風は、雨の前触れで湿ってはいるけれど涼気を含んでいて心地よい。日本人は、包容力があるというか我慢強いというか、暑くてもいい感じだし寒くてもいい感じなのである。風がなければすっくと立つし、風が強ければなびけばいいということで自分に強制した姿勢はなく、柔道のような構えで状況対応力があるともいえる。
 日本的な美を求めた東山魁夷も、広く美術全般の教養を高めるために渡欧して西洋美術を学んだ。彼は人の暮らしぶりが美術表現にも表れると考えて、積極的に西欧の暮らしを楽しんだ様子もある。このような日本人的態度は、時に優柔不断と揶揄されるかもしれないが、何事も決め付けてかからない「たおやか」な性質の表れだと思う。
 枕草子では、「春はあけぼの」「秋は夕暮れ」「冬はつとめて」と、四季折々の好ましさを見出している。我々いけばなをする者も、好みの花材があることは当然としても、二十四節季を彩るさまざまな花材に分け隔てなく親しみたいものである。

花の名前 250808

2025/8/9

 お稽古の花材でソテツの葉を用意したことがある。花材名を「ソテツの葉」と生徒さんに提示した。別の日には「ソテツ」と提示していた。
 先日、花材でツバキを用意して出すと、生徒さんからツバキは花がなくても使うんですねと(若干の不満を感じさせる面持ちで)言われ、「ツバキ」と聞いたら花が咲いている様子をイメージするものなんだと改めて気付かされた。花がない場合、「ツバキの葉」と言ってあげた方がよいのだろうか。
 常識の範囲の話として、いけばなで使う花材はだいたい根っこより上の部分を使うから、「ソテツ」と書いても「ツバキ」と書いても、誰も根っこが付いているとは思わない。しかし、正月に使う根の付いたマツは、「根引きの松」という特別な名で呼んであげる慣例だ。つまり、常識や慣例に照らして一般的でないもの、例外的だったり特別だったりするものに、説明的な名前を付加する。
 だから普段は、玉井が足で走ったとは言わなくていい。玉井は口で喋ったとは言わなくていい。けれども、心で呼びかけたりテレパシーを使う時は、そう言ってあげないと気持ち悪がられる。

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