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いけばな随想
diary

何が神秘的か 250428

2025/5/2

 いけばなと呼ぶとき、そこに神秘性は感じられない。ところが華道と呼ぶと、神秘的な「何か」が宿されているように響く。それは、室町時代くらい昔の人にとって、禅に通じる「何か」があったからに違いない。この「何か」があったという漠然とした気持ちを、私はずっと持っている。
 オイゲン・ヘリゲルという人に『弓と禅』という本がある。日本人にも観取しにくい日本人の精神性を、著者は母国語のドイツ語によって追究しているため、追究の過程を再び日本語に翻訳し直す往復作業によってますます難解さは深まっていると思う。
 それで、読めば読むほど(言葉で理解しようとすればするほど)本質から遠ざかるという逆説的で悲劇的な事態に陥るのだが、ヘリゲル氏は実際の弓道の修行によって実体験を綴っているから、読者も本当は実体験しながら読み進めなければ「わかった!」という境地に至らないというのも絶望的な理由である。
 そしていま、高校に華道部はあるが、華道ではなくいけばなを教えている。そこでは、神秘的な何も教えようとはしてない。私は再び、彼らと共に初心者を始めている。

見つけるもの 250427

2025/5/2

 習い事は、習う側が一方的に受け身で習うものではない。逆に教える側は教える一方ではなく教えられることも多い。師弟間には対話があり、時に役割が入れ替わる(言葉だけでなく、見る=見られるという関係も含めて)。
 師弟というのは便宜的な役割分担だ。その場のその時にたまたま担う役割で、恒常的なものではない(先輩後輩関係は不変でも、師弟関係は流動的。人はそれぞれ成長速度が異なり、弟子が師匠を追い越すことは普通に起こり得る)。
 また、師匠はいつも全てを語ることはしない。全てを語るためには一生が必要なので、その時語るべきことだけを最小限に語ろうとする。弟子が最大限を得ようと思うならば、師匠が語ることの外に自分で見つけ出さなくてはならない。
 また、師匠には語ろうとしても語れない限界がある。花鋏の使い方については、見せることしかできない。だから弟子は教えられるだけでは身に付かず、自分で使いながら発見していくことが上達するためには必要だ。教え方が上手な師匠が理解力のある弟子に教えると、その弟子は自ら発見するチャンスを失うこともになる。

表現力 250426

2025/4/27

 友人のベリーダンス公演に出掛けた。ベリーダンスの公演を観るのは3回目で、真髄を味わうところまでは親しんでいない。けれども2回目のときにチャンスがあって、ステージ脇に270×180cmの絵を描かせてもらった。描くためには具体的な落とし込みが必要なので、1回目のときの動画や写真を見て、ポーズや衣装などを観察し直した。
 その経験が功を奏して、今日の公演では先生をしているのがどの人で、習っているのはどの人かというのが概ねわかった。表現力に差が感じられたのである。
 いちばん大きな差は目線だ。上手い人は客席の遠くの端っこと最前列と、その両方に目線が行ったり来たりする。習い始めの人の目線は泳いでいる。2つ目は表情の豊かさで、1曲の中でも変化が多くて大きいのが先生。3つ目は指の動きの大きさと指先の緊張感だ。習っている人の中にも上手で笑顔の魅力的な人は多いが、3つが全部備わっているのはやはり先生格だ。
 表現力とは何かを改めて思い返す機会となったが、いけばなの花材もダンサーと同じような振り付けができると、声援や拍手をもらえるだろう。

責任 250425

2025/4/25

 人に何かを教えることは難しい。アルバイトで後輩に仕事の段取りを教える、企業で部下に目標設定の仕方を教える、専門学校で学生に世の中の渡り方を教える、いろいろやってきて今いけばなを教える立場になった。教えることにどれだけ精通したかと自問したいところだが、答えを出すことが怖くて問うことができない。
 教える人の立場はさまざまだ。親、兄弟姉妹、先輩、上司、教師などなど。それぞれの立場で役割も違えば、担う責任も違う、しかし、お金を頂戴して教えるにはプロとしての自覚や能力が必要で、習う側から見て憧れたり納得してもらえるくらい輝くか、何かしら習う側に同情してもらい共感してもらえる才能があるか、私が思いつくのはその2つの典型である。
 いずれにしても教えることには責任が伴う。だから私はそれを逃れるために、習う側が自習の態勢をつくってくれると助かる。私は教えるのではなく、学びの場を提供しているのです、わかりますか? と言って黙っていたい。
 私はまだ、自分自身を鍛えている段階です。この道を一緒に歩いてみますか? と貴方に呟いていたい。

直立するアイビー 250424

2025/4/25

 いつものバーに花をいけに行った。購入した花のほかに、庭ですくすく育っているアイビーの1本を切って行った。そのアイビーを見て、バーのマスターが「何の葉っぱ?」。カウンターのお客様も「そんな葉っぱ、見たことないです」と言う。
 彼らに見やすい角度で指し示しながら「アイビーですよ}と言うと、二人は「またまた、素人は知らないと決め付けて適当な名前を言っているんでしょう?」という顏だ。改めて自分も見直してみると、ピンと直立していて確かにアイビーらしくない。何か若い枝のようにも見える。出自を知っているから疑う気持ちにならなかっただけの話だ。
 木の枝は硬くて花茎や草は柔らかいという一般論の知識に汚染されると、アイビーは柔らかくてクネクネしているという思い込みになる。知識に照らして現物を見るから、知識と違った現実は否定されてしまう。これは、ネットニュースを信じ込む人々の無理解と同じで、直に見た現実を知識とするよりも、知り得た知識をもとに現実を見るという危ない世界認識のしかたである。
 実際には硬いアイビーが世の中にはあるのだった。

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