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いけばな随想
diary

いけばな降臨 250908

2025/9/8

 経済的に、社会的に、いけばながどういう貢献をするのか、これを主題に掲げると失敗するような気がしてきた。いけばなは目に見える実益から距離があるからこそ、心も体もひとまとめに洗われるような、滝に打たれる禊ぎのような性質に近いのかもしれないからだ。
 花を束ねて壺に挿すという行為を物足りないと感じ、そこに作為を加えていくといけばなに近付き、目の感覚では達成感があってもまだ満ち足りなさを覚える。それを越えると「ゾーンに入る」というか、滝行や座禅の域に向かうというか、遂に目的さえも霧消して、気付いたときには心身が健康になっている、そうあることができれば申し分ない。
 生きるということの主題(目的)は掴みきれないけれど、みんな薄々わかっている。だから、あとは生き方(方法)の問題である。いけばなのある生き方というのが、精神衛生上いいかもしれないし、経済生活上はよくないかもしれない。しかし、人はいつも正解を選ぶとは限らない。
 選ぶというよりも、むしろ、心を開放して着想が降りてくるのを待つという態度が望ましい。他力本願の積極的選択だ。

主題から方法へ 250907

2025/9/7

 松岡正剛さんは、多くの著作の中で何度も「現代はもう主題の時代ではなく、方法の時代」だと言っておられた。みんな幸せになりたいのに、その方法がわからない。金儲けや戦争で勝つ方法はわかるというのに。
 いけばなでは、「美しい」「かわいい」「素敵な」等の形容詞と組み合わせるか、「意外な」「個性的な」「印象的な」等の言葉と組み合わせた主題が設定されがちで、それらは遠い昔から多くの人に試し尽くされてきた。私たちがいま試されているのは、どのようにいけるかという方法の新しさである。
 今日のお稽古で、1人の生徒さんに「カボチャ尽くし」を要求した。いびつな形の重たいヒョウタンカボチャ2個と、ソラナムパンプキンという鑑賞用の花茄子3本の2種。大きく湾曲した薄褐色のヒョウタンカボチャは大きい方の長さが50cm、花茄子は40~50cmの枝に直径4cmのカボチャの形の赤と黄の実が6~7個ずつ付いていた。
 彼女はこれらをどのように組み合わせ、間を取り、安定させるだろうかとギャラリーの気安い立場で見守った。結果は期待を上回る斬新さで、嬉しかった。

AI無効 250906

2025/9/6

 確立された業務ならば、ロボットの早さ・確実さには敵わない。また、経験を土台にした工夫も、生成AIには敵わないかもしれない。しかし、いけばなの面白さは、「AI無効」という局面に立たされるところにある。
 さて、技能オリンピックで見ることができるのは、どんな精密機械でも設計図に表されない“遊び”がないと動作できず(例えばエンジンのシリンダーとピストンの関係)、その“遊び”は、最終的に人間が研磨するしかないということだ。
 花の場合、花店に注文しても「今日は市場に出荷がなかったんです」とか、「黒っぽい赤はあったけど、明るい赤はなかったんで」とか、「茎の長さ、足りませんかねえ」とか、買い手のイメージ通りのものが手に入るとは限らないし、ほぼイメージ通りだったとしても、枝ぶりが広がり過ぎているとか、花が大き過ぎるとか、問題は少なくない。作業を始めても、茎が折れたの、枝を切り過ぎたのと、問題が増えることはあっても減ることはあまりない。
 結局は、現場での試行錯誤発生率100%という、面白さが尽きない状況に身を置くことになるのだった。

スタイル 250905

2025/9/5

 ピカソは、表現のスタイルを変え、多様な表現による作品群を遺した。例えば東山魁夷には、ピカソに比べると類語反復的な作品が多く、見る者が作者の心情を追体験できるくらい、それらの作品は必然的に描かれたと感じられる。私がうわべで知っている日本画家にはその傾向が強く、毎年繰り返される四季が、それでも少しずつ違っているよという如く、マイナーチェンジを繰り返しながら同じテーマを追求する。
 ただし彼らも人間なので、偶発的に思いがけない作品をつくることがあると思う。それを、世間に発表するかどうか、おそらく自分の手元に隠し持っている作品もあるのではないだろうか。現代語で言うセルフ・ブランディングである。
 そんな日本的アート界にあって、ピカソ的スタイルで制作したのが勅使河原蒼風なのではないか。類語反復を意識的に避けて、脱皮につぐ脱皮を繰り返すには、大きな包摂力と強い意志の力が必要だ。
 私はそれを目指したい気持ちはありながら、単なる飽き性だから継続性が保てないという性格と、惰性的に自分のスタイルを踏襲してしまう安易さを脱ぎ捨てられない。

停電 250904

2025/9/5

 夜中前から雨が断続的に強まり、雷が鳴ったと思うと不穏な衝撃音と共に停電した。スマホのライトは温存して蝋燭を点けたが、ランタンが見当たらない。
 カーテンを開いて外を見ると近隣一帯が暗く、少し向こうのマンションンの階段の非常灯が明るかった。少しでも情報を集めようとベランダに出る。近所に消防車か救急車が来ているのだろう、赤色灯の明滅がビルの壁や窓ガラスに反射していて、夜中にしては大きな声の会話が雨音の向こうに聞こえていた。遠くに目を遣ると、石手川沿いに、ダムの放流を知らせる赤いランプの点滅の3つばかりが滲んで見えた。
 停電は30分くらい復旧しなかった。夜は暗く、光も音も少ない。そして、台風が運んできた湿った空気が暑苦しい。こんなとき、昔の人はどのように過ごしていたのだろう。未来の人は、どのように過ごすのだろう。
 家の中に目を戻すと、蝋燭の炎が揺れて、花瓶の花の影が揺れている。仄かな光では、花は影絵になるのだった。巨大化して壁と床に映っていた。部屋に入ると、足元に猫が絡んできた。晩御飯で食べた焼きサバの臭いが漂っている。

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