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いけばな随想
diary

時間遡行 250920

2025/9/20

 映画『予告された殺人の記録(ガルシア・マルケス原作)』を久しぶりに観た。ここ数日ボルヘスの小説を読んでいたので、2人の南米作家に共通する迷宮的世界にどっぷり浸かった。
 時間に素直に従っていると、1日は24時間でしかない。しかし、昔のことを思い出すなどして時間を遡れば、過ぎる時間と戻る時間がパイ生地のように何重にも重なって、体験的な延べ時間はどんどん長くなる。
 夢見る人を他人が見ても、その夢を体験できないように、いけばなを見て、それをいける人の時間は体験できない。手に取った花があと何日何時間で枯れ始めるか、いける人の意識は必ず未来へ先回りする。流木を使う時は、その流木がどこから流れてきたのか出生を想像する。コスモスなどは、1つの株に蕾もあれば満開もあり、散り始めている花も付いている。花の1輪1輪が別々の時間を紡いでいるので、私はそのすべてと並走しながら、花の時間を行ったり来たりしているのだ。
 音楽鑑賞は、演奏する人と聴く人が同じ時間を共有できるが、いけばなはできない。祭と同じで、いけばなはこっち側に来てこそ面白い。

時間といけばな 250919

2025/9/19

 もし、散文的ないけばながあったら、豊かな時間を愉しむという鑑賞のしかたもできるだろう。時間を愉しめることは、急いで到着しなければならない約束がないという幸せと同じだ。
 ただ、言葉は多義的だから、俳句のような短詩形であっても時間をかけて咀嚼する深みがあるが、いけばなの鑑賞は難しい。見たことのある花が使われ、名前も知っている花だということになると、その具象的な花しか目に入らない。また、一切名前を知らない花だとすれば、抽象絵画を見て「わからん」と呟くような対象となる。どちらに転んでも、5秒くらい眺めて「ふん」と言って立ち去られる。
 鑑賞者は、作者に対する思いやりなどないから、作者としては、無理矢理にでも目を引く装いを取らざるを得ない。展覧会場を舞台とみなし、他の作品を共演者とみなし、自分が最も輝ける主役として出演俳優の中で最も強い個性を強調することで、“冷酷な鑑賞者”や“無関心な鑑賞者”の目を1分でも2分でも長く自分に向けてもらいたい。
 アイディアや演出に走り過ぎて“王道”を忘れるのは、青二才の新米俳優の愚行であるが。

巨大迷路 250918

2025/9/18

 人生は選択行為の連続だ。ふと溜め息をつくような些細なことを含めて、一瞬一瞬の「点」の選択で人生の「線」が描かれてきた。その一筆書きの自分の歩みを俯瞰したら、きっと迷路に迷う蟻のように心許ない自分の姿を見つけるだろう。
 そんな「イエス・ノー・クイズ」みたいな選択を生まれてから何千万回も繰り返した挙句に、たまたまいけばなを始めることを選択し、その選択をずっと繰り返している自分がいることを自覚すると、これは大変なことではあるなと思う。今更、いけばなを選択しなかった自分を想像することは難しいが、明日にでもいけばなを放棄する選択ができるということは想像できなくもない。
 その昔「巨大迷路」というのが流行った。迷路は抜け出すことを目的につくられていて、もし小学生が巨大迷路で丸一日迷い続けることがあったりしたら、PTAから悲鳴と苦情の嵐が来ただろう。
 しかし、大人が迷路に迷うのは自業自得だとされる。また、人生の迷路は、元々抜け出すことを目的につくられていない。ああでもない、こうでもないと迷えるいけばなは、趣味であって人生である。

純化 250917

2025/9/17

 いけばなのアプローチでの1つに、「単純化」がある。工業製品の大量生産では必須の条件なのだが、いけばなで言うところの単純化は、工業製品の生産における単純化とは意味が異なる。
 草月における単純化は、「それ以上省略すると、その植物素材ではなくなってしまう、いけばなではなくなってしまう、というぎりぎりまで作品のあり方を考えていく(『草月のいけばな』より抜粋)」ということで、「最少の要素で最大のものが表現されていなければ(同抜粋)」ならない。俳句的といえば俳句的だと思う。
 この作業は、不用な枝葉・無用な枝葉を削ぎ落し、残す枝葉を切ったり曲げたりして強調するというものだ。これを単純化と呼んできたのだったが、単純化という語句には効率化という概念が張り付いており、豊かさを増すという意味が足りていない。
 そういうわけで、単純化に代わる言葉として、「純化」を推したい。ただ、この語にしても、私にはまだフィット感が薄い。純に磨くと同時に複雑さも増すような、相反する成果を実らせる感じである。磨いて開かせる大吟醸酒を造るやり方のイメージだ。

作品の消去 250916

2025/9/16

 記憶しておくべき自分自身の作品は少ない。今や恥ずかしいだけの稚拙な作品にこだわることは、続けなければならない航海の途中、寄港した港に錨を下ろしてしまうようなものだ。
 自分の作品だけでなく他人のいけばな作品も、片っ端から撮り溜めてきた。スマホの膨大な画像をさてどうすべきか。ということで、私は私の基準で、撮り溜めたいけばなの画像を少しずつ捨て去りながら、自分の好みを広げたり狭めたりしている。
 人類史で、図書館が果たしてきた役割はとても大きい(私も青年期までは大変世話になった)。しかし、図書館が書籍を収蔵するだけで一切破棄しないとすれば……それは無理だ。すると、誰がどんな権利で捨てるものを決めるのか。制度上は決まった手続きで処理されているにしても、取捨選択の基準など、ほんとうは誰も決められないのではないか。
 私が捨てられないのは、図書館にあるような、いけばなでいえば1冊の作品集、音楽でいえば1枚のCDやLPだ。一定の意図で編集された作品集は、作品制作の意図と編集の意図が二重に張り付いているからか、捨てるに捨てられない。

講師の事