「ない」と「あった」 250824
2025/8/26
幽霊には足がない。着物の裾に向かって描線が消えていくので、足はあったのかなかったのか想像しにくいが、多分はじめからなかったのではなく、あった足がなくなったのだと思う。
いけばなで枝ぶりを整えていく作業は、不用な小枝を切り落とすことで、残した枝を強調する目的がある。そして、その切り落とし方で、いけばなの印象が大きく変わるくらいだ。
ここに1本の桜の枝があるとする。根元に近い方から枝先に向けて、Y字の形だ。Y字の枝分かれ部分で太い方の枝を残し、細い方を切り落とすとする。そのとき、枝の根元からスッパリ切り落とすか、それともY字の残像を残すように根元を3cm切り残すか、それによって印象が大きく異なる。スッパリ切り落とした場合、その箇所に枝があったと想像させる印しが見当たらないから、切った枝は初めからなかったような印象になる。3cm切り残した場合は、切り残した枝の先に伸びた枝があったという気配が残る。
つまり、「そこに枝はない」という意図で切るか、「そこに枝はあった」と見せるのか、制作者の意識が1点に凝縮される重要部位なのだ。
ほっと、ハッと 250823
2025/8/23
いけばなだけが人生ではなく、いけばなを通した人生というのもある。いけばなから出発して考える人生と、人生から出発して考えるいけばなもあるように思う。
100m走をスタートから追いかけて眺めるか、100m走をゴールから巻き戻して見るかと考え、さて走る本人にしてみればスタート地点では思いきりゴールが見えているが、ゴール地点ではスタートのことをほとんど忘れ去っていると想像できる。
一方、いけばなを始めたときに、いけばなをする自分のゴールは何も見えなかった。いま、いけばなのスタートを振り返ると、その時の光景をはっきり思い出せるが、100m走のケースと全く逆にゴールの景色は霞んでいく一方である。あーらら、この行き当たりばったりの刹那的な生き方よ!
刹那刹那で考えることは移ろいやすく、この数日のあいだは、「ほっとする」はなをいけたいとも思うし、「ハッとさせる」はなをいけたいとも思っている。基本的には、見た人の心が落ち着き安らげるはなをいけたくて、でも同時に、見たことのないはなの様子にハッとして、改めて見入ってもらいたくもある。
植物と人間 250822
2025/8/22
植物との対話は、人間である自分のペースで回していける。庭木は、枝が伸び過ぎたり病気にかかったりもするので、放っておけなくて急いで対処しなくてはならないこともありはする。だけど、さあ、すぐに取り掛かりなさい、さあ、明日までに頼みますよ、という慌ただしさはないから助かる。
切り花の場合は、鮮度の問題があるから急ぎ気味で取り掛かる。とはいえ丸1日は待ってもらえる。水替えや切り戻しを前提にすれば、もうちょっとちょっと待ってもらえる。
けさ知人からの電話があって、ある人に連絡を入れて欲しいと言う。感覚的に、それは今日中にやった方がいい案件だ。私の苦手とするところは、人の気持ちにも鮮度があるということに付き合わなくてはならないことだ。生身の人間の気持ちの鮮度は、植物のように徐々に枯れたり腐ったりというのではなく、ある臨界点でストンと落ちる。人間の気持ちは、いつも断崖絶壁に直面していて、落ち始めた気持ちはもう助け上げることができない。
自分の気持ちを切り換えて、何かが終わらないよう5~6時間の内には電話をしなければなるまい。
椿の葉 250821
2025/8/22
私は猫を飼っている。その雌猫は躾がままならない。幼猫から4年も経つのに、しょっちゅうトイレの粗相がある。長毛種の中でも特に毛が細くて長いから、毎日数回はブラッシングする。機嫌が悪い時はシャーーーッと怒って爪を出されるし、ほんとうに手がかかる。
実家の庭には、祖父の代からのサルスベリやモクレン、キンモクセイ等の木がある。ツゲが1本枯れて、サルスベリが病気だ。父の代からのツバキやサンザシ、センリョウやムクゲもある。サンザシが病気で、ツバキは1本枯れた。
ナンキンハゼ、モモ、トネリコ、クロガネモチ、クチナシ、アジサイ、アメリカハゼ、マンサクは、私が苗木を植えた。育ち過ぎた枝垂ヤナギは、隣家から夜風になびく姿が気持ち悪いと聞いて切った。ヤブ蚊が湧くし野良猫の公衆トイレになるし、手間がかかる。
いけばなではよくツバキを使うが、庭のツバキは葉の色が悪く、虫と病気にやられて汚いから花屋で買ってくる。でも産直市のものは、たいてい安い分だけ汚い。だから、生徒さんに渡す前に必ず洗う。手のかかる子ほど可愛いというが、まあそんな感じだ。
花の感じ 250820
2025/8/21
私に信仰はないし、信念もない。しかし、理性的であろうとする気持ちや、論理的であろうとする気持ちよりは、根拠もくそもない矜持みたいな感じのものを大事にする気分が強い。「理屈じゃないんだよねー」
私がいけばなにハマったのは、生きているものは必ず変化する、変化する限りそれは生きている、そういう気分を強く感じさせてくれたからだ。そして、生きて変化するものがあれば、その周囲の環境も何らかの影響を受けて変化する。変化するのであれば、その環境自体も生きていると見ることができよう。理屈っぽくなってしまった。
ともかく、自分のいけばなも「感じ」でつくるし、他人のいけばなも「感じ」で見る。もし、いけばなに難しさがあるとしたら、桜とか薔薇という固有の名前を持っている花という見慣れた実体で具体的に形づくられていながら、いけばなが作品としては抽象的な絵画や彫刻の性格を持っていることだろう。
私も立場上の必要から、花材事典を脇に置いている。しかし、いけばな作品を見るときは、花の名前にこだわらず、その“花の感じ”だけで見たいと常々思っている。