不完全作家 250913
2025/9/13
協調性を重んじるなら、手間なことをやらなければ成立しない。同意や共感を得たいなら、常識的な様々の要請に応える努力が必要である。そんな労力を自分に対して義務化するかどうか、これは作家としての自己プロデュースの方向性を左右する。ともすればプレーヤーでなく、ディレクターの側に近寄る。
人は誰でも、意図した何者かになれる。作家という肩書も、自己責任と自己の権利で表明できる。私も、しばらくのあいだ副業として恐る恐るいけばな作家を名乗っていて、生業を退職して今や専業いけばな作家を名乗っても構わない身分になったが、名刺に作家と書くのはためらわれる。偽者ではないから堂々と書けばいいものかもしれないけれど、自分の不完全さを自覚している以上、胸を張れない。
世の中には、未完の作家も数多くいる。学生時代に美術部員だったり演劇部員だったりした私は、未完の画家であり、未完の俳優でもあった。20歳代後半には、自室に希少品や珍品を並べて「百物館」館長を名乗ったこともあったなあ。
さて、今後のことである。不完全ないけばな作家の私の行く末や如何。
ひねり出す 250912
2025/9/12
いけばなの強さや柔らかさ、空間の取り方や軽やかさは、計算を何度やり直しても納得のいく所には到達しない。ぎりぎり1cmまで切り詰めても、それはまだ5㎜ずつに分割できる。それもまた半分になり、ずっと半分にし続けていける。そんなミリメートルにまで追究の手を緩めないで取り組むのは、実際のところナンセンスだ。
しかし逆に、それでは10cmにこだわるのはどうかということになると、その長さにはこだわるべき大きさがある。では5cmは? というふうに再び長さを半分にしていくと、堂々巡りになる次第でどうにも解決しない。植物は切り花にしても成長(変化)を続けるので、こちらの計算など楽々跳び越えてしまうという難しさもある。
また、例えば、作品がちゃんと立っていられるかという心配な作品をつくることもある。その重心を保つ微妙なバランスは、植物自身の変化によって、より危ういことにもなりかねない。
私たちの仕事は、計算も取り入れながら、最後は計算を捨てて未来予測をするというか、エイヤっと直感をひねり出す瞬発力が必要だ。計算と答えは、たいてい一致しない。
失敗は成功のもと 250911
2025/9/11
1つの失敗をしても、失敗経験をたくさん積み重ねている内にいつの間にか大きく成長していた、というのが人間の成長スタイルだ。単発では失敗だとしても複数の失敗を束ねて挽回するやり方、これがロボットや生成AIと違う特長ではないかと思う。
そして一方、成長というのは最終的に死に至る変化なので、その過程でいくら大きい成功をたくさん手に入れても、死によってリセットされる宿命からは逃れられない。
これまで、いけばな展への出品や施設等への祝い花の制作などを行ってきて、自分なりに納得できたときもある。しかし、その“成功いけばな”にも、いくつもの小さな失敗が含まれていたので、少なくとも大成功ではない。また、数多い“失敗いけばな”にも、わずかずつながらでも小さな成功が含まれていた。悲観する必要はない。
それより何より、いけばなは「場」との関係によって成り立つのだから、「場」の時節や時間帯や雰囲気などによって、いけばな単体での成功や失敗もありえない。だから、完璧を求めるのは難しく、大成功もないという諦めに立ったうえで、よりよく枯らせたい。
色気 250910
2025/9/10
色気があるというのは大好きな言葉だが、誤解を招きやすいので使い方に気を遣わなければならない。色気ムンムンなどと言うと一気に低俗になる。逆に、色気がない物の様子から想像していくと、色気というのが価値あることだ分かってもらえるだろう。
たとえば、色気のない料理。食材が綺麗で美味しそうだが、目を凝らすと刺身の切り口の照りがボンヤリしていたり、ツマの大根がやや乾いていたりする様子。丁寧に盛り付けて品行方正な佇まいだが、隙がなさ過ぎて余裕や個性が感じられない様子。料理の色気は、鮮度に影響される割合が高いのも弱味だ。
これらのことは、そのままいけばなへの置き換えが可能である。料理よりは作品の鮮度は長持ちするし、人間ほどではないにしても、枯れかけた色気というものもある。人間は、若過ぎたら色気は出せない。それに似て、花や草は若さも一生も短く、色気を出す暇がない。いけばなの色気というのは、やはり枝ものに限る。枯れても“枯れもの”として色気を失わない。
そうすると、人間の色気はどこに表れやすいのか。新陳代謝の早い肌よりも、骨だろう。
三つ巴 250909
2025/9/9
何かを得るために何かを失うというのは悲愴な感じが漂うので、せめて何かを得るために何を諦めるか、または替わりに何を捨てるかという少しでも前向きな廃棄・消去が、心の平穏には必要だ。しかしこの考え方は、そもそも土台の部分の二者択一の世界観にある。陰陽や善悪で世界を見ると、どうしても対立関係に見てしまう。終活でモノを捨てることも、あたかも正解のように語られるが、地球資源全体を眺めると正義ではない。
実際の世界は、三つ巴の危うい関係でバランスを取っていると見える。じゃんけんのグー・チョキ・パーは、どれかが1人勝ちすることがない。人間関係や国際関係は、四つ巴、五つ巴と呼ばなくてはならないくらい複雑だ。
いけばなを構成する基本要素は、線・色・塊で、どれか1つの要素だけで花をいけるのは難しい。どんなに細い枝や茎の線でも、一定の表面積があればその色が必ず見える。色は言うまでもなく、線や塊を省いて存在できない。まあ、塊にしても、丸太を彫って塊はつくれるが色はある。
このような三つ巴の関係の中では、完全な選択を厳しく求めてはいけない。