伝統とモダン 250623
2025/6/24
いけばなに、花器はなくてはならないパートナーだ。愛媛には磁器産品として「砥部焼」があり、伝統的産品の代表だ(とされている)。私たちはそれに花をいけて、日本の伝統文化の一翼を担っている(と思っている)。
近頃はクラフトマンを職人と呼ぶことが減ってきていることに、みんな気付いているだろうか。私は、職人という言葉を使う人と、それ以上に職人そのものが減ったことが原因だと思っている。
そして感じるのは、陶磁器を手掛ける職人さんの中でも、職人気質を捨ててアーチストを目指している人が増えたのではないかということ。少なくとも私はクラフトマンではなく、職人気質も持ち合わせていない。申し訳ないが、いけばなをする多くの者もオリジナリティを追求するばかりで、実際には伝統をわかっているフリをしているだけだ。
ところが最近、私が欲しいと思う花器のラインナップに変化が見られる。いけばなを始めた頃は、モダンな花器や見慣れない花器に目が奪われていたのが、だんだん古い花器に目が向くようになってきた。私の中に、伝統的いけばなのセンスが芽生えつつある。
カラオケ 250622
2025/6/22
なるほど、カラオケは日本人の文化の象徴だと思った。プロが歌う原曲があって、別のミュージシャンが歌うカバー曲があり、大勢のアマチュアが歌うカラオケがある。つまり、頂上が高いぶん裾野も広く、様々な取り組み方があるという、その分野が隆盛する理想的な人口分布を示している。
かつての野球もそうだった。どこの子供も野球で遊び、部活の人数も多く、高校でも野球部がグランドの使用権第一位の座を占めていて、テレビの野球中継が一家だんらんだった。
いけばなだって、負けていない時代があったようだ。私も関わっている商業高校の華道部には、ざっと100本以上の花筒と200個以上の水盤があって、その他の花器も100個はある。それらが部室の2つの押入れに入りきらない。部員が何人いたのだろう。
時代が下り、いけばな人口が減ってきた。一方、外国ではIKEBANA人気の高いことがSNSで確認できる。カラオケも日本語の発音がKARAOKEとしてそのまま普及しているようなので、IKEBANAも、もっともっと広がることを期待したい。いまの時代は何事も国境を越えて行くし、国境を越えてやってくる。
解釈 250621
2025/6/21
いけばなの資料を束ねているファイルの表紙に、「解釈してはいけない」と書いたのは5年くらい前のことだ。
私は、他人のいけばなの純粋な鑑賞者でありたいのだが、いけばな教室を主宰しているからには、全く解釈しないで済ますことは契約違反のような気がして悩ましい。
美術館に行って絵を眺め、即座に「好き」「嫌い」と感じる作品もあるが、大抵は「気になるけど、(自分の気持ちが、すぐには)よくわからない」という具合で、感じるまでに相当時間のかかる場合が多いのだ。『プレバト』の夏井いつき先生の居合抜きのような即断コメントを見るにつけ、ああいう瞬発力が欲しいものだと羨む。つまり、瞬発力のない私が講釈を始めると、ああだこうだと屁理屈を喋ってみたり、却って分かりにくい比喩を用いたりして、聞く方が煙に巻かれてしまうのである。
表現の世界には、衝動がある。共感や直感的な喜びがある。他人の作品に対してもそこを掴むことが大事で、周りからじわじわ解釈していくというのは本質を掴み損ねることになる。そう思って、解釈するけど「解釈してはいけない」と書いた。
手遊び 250620
2025/6/21
生成AIの仕事は雑用だと思いたい。私の脳味噌の本業に対する雑用である。ところが実際には、脳味噌の本業が外部化されて、生成AIは人間の脳の代理店になった。こうして自分で考えることが減った脳は、何十世代かの後には退化しているだろう。体を鍛えるように脳には特訓が必要だし、時にはもっと怠けさせなくてはいけないはずなのに。
人生に散歩があったり、寄り道があったり、失敗があったりするのは人生そのものだと思ってきた。昼寝をしたり、ぼーっとしたり、忘れたりするのも人生の一部だと思ってきた。そんな悠々自適な私の人生に、現代社会は効率を詰め込もうとするから、息苦しいったらありゃしない。
あれこれと無駄なことを考えたり、無理したりするのはいけないことですか? あっ、そうなんだ? それじゃあ、仕方ないですね。私に残された大事な仕事は、手遊びくらいかな?
というわけで、手遊びとしてのいけばなは、生成AIにつけ入る余地を与えないと思っていたら、最近は「生成AIが設計したいけばなをやってみました」という投稿が目に付くようになった。手遊び、危うし!
大事にするところ
2025/6/20
いけばなをやる人が大事にするところは、それぞれ違う。私が大事にするのは、花材を俳優に見立てるところ。それは、若い頃に少し芝居を齧ったことがあるからだろうと思う。せっかく起用する俳優を、エキストラのように群衆化できない気質なのだ。1人1人にセリフがあって、1人1人にスポットライトを当ててあげたい。
これは私が好きなジャズのセッションも同じで、メンバーそれぞれが(遠慮し合いながら)、結局は全開で自分のソロパートを演り切るみたいな。だから、交響楽団のような華麗で分厚いハーモニーを奏でる花はちょっと苦手だ。テレビのバラエティ番組のスタジオでキャスターの後ろにあるような、あでやかな盛りだくさんの花も少し苦手だ。
人によって配色を大事にしたり、マッス(塊)の造形性を大事にしたり、1本の枝や草の線を大事にしたり、他人が大事にしているところがだんだん分かってくる。個々に違うからこそ、いけばな展として一堂に会したとき、1つ1つの作品が同調し合ったり反発し合ったりして愉しい空間が生まれるのだと思う。弟子も師匠に同調する必要はない。