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いけばな随想
diary

花とカヤック 240906

2024/9/6

この夏がシーカヤックを漕ぐことなく過ぎる。唐突なことを言ってしまうと、いけばなとシーカヤックは私の心を行ったり来たりさせるこっち側とあっち側にある。重なったり離れたりしながら、私はカヤックに寄せて花をいけていることがある。

どちらも季節季節の移ろいと密接に関係した楽しみ方がある。また、花材がなくてはいけられず、海がなければ漕ぎ出せない。そして、かつての私は月影が星空を映す9月に、誰もいない海辺でテントを張り、堤防の向こうの荒れ野のススキのひそかな集会に耳を傾けたりした。

花をいけるとき視界と意識は狭まり、自分の正体も失ってただ花びらの薄さや葉の厚みを指先で感じる。シーカヤックを漕ぐとき視界と意識は拡がり、自分の正体を失ってただ潮の流れと風の誘いに身を任せる。共通しているのは、私の存在を消しゴムで消すようになくしてしまえること。

もう1つ……。私の花は私が忘れていてもそこにあり、カヤックも私が忘れていてもそこにあること。行ってくるよと言わずに置き去りにしても、ただいまと言わずに気ままに帰ってきても、そこにあること。

レシピ 240905

2024/9/5

レシピ通りに作った料理が必ずしも美味いとは限らない。楽譜が読めても、その通り弾けるかどうかはわからない。成績が良くても、就職後の給与がいいとは限らない。

レシピと知識も別物だ。私のばあちゃんは、レシピ本など見たこともなかったが、美味しい晩御飯や、美味しいバラ寿司をよく作ってくれた。昔の人は料理の知識は豊富でも、体で全部覚えて、それをレシピとして整理し直すことをしていなかっただけなのだ。

いけばなに、レシピに相当するものがあるかと問われた。改めて考え込んだ。料理や建築などの場合、材料、材料の数量、大きさや形状、作業の順番、加熱・冷却時間や発酵時間や乾燥時間、使用する用具などが示される。演劇の台本も、配役、衣装、順番、時間、道具や音響照明等を示している点で似ている。いけばなには「型」があるというものの、数量と大きさや形状については例示されるが、レシピと言うほどの縛りはない。習字を習ったときも、そういえば手本と筆順はあったが、それくらいだった。

YouTubeを見てわかったわかったというのは、半分正しく、半分足りていない。

学び過ぎ 240904

2024/9/4

学び過ぎは良くない。過ぎたるは及ばざるがごとしである。

小学生のとき、隣家のO君と路上で対決した。ひらかなの「そ」を「一画で書くのと二画で書くのはどっちが正しいか勝負」を、舗装されていない地面に小枝で互いに書きなぐりながら言い争った。じいちゃんには二画で書く「そ」を習ったかもしれないが、小学校の国語の授業では一画で書く「そ」を習ったので、一画で書くのが正しいということに決着したが、勝った私の心は晴れずに曇った。

学ぶことは、闘うためではない。百条委員会に臨む兵庫県斎藤知事の答弁にやるせなさを感じる人は多いだろうし、似たり寄ったりの答弁をする総理大臣や閣僚が多いのも悲しい(にもかかわらず、それを見逃す国民が多いのも悲しい)。彼らは相手を言い負かす自己正当化を、学ぶことの結果にしているから。

いけばなの世界も無縁ではない。学んだことを金科玉条のように振りかざしている人々には辟易する。そういう発言は、人に投げると自分に帰ってくるブーメランなので、「よく学びよく遊べ」と、バランスよく学んで突き詰め過ぎないユルさが大事だ。

空間の性質 240903

2024/9/3

草月のいけばなの構え方は「場にいける」というもの。そして、「場」というのは人それぞれの関わり方があって、一様ではない。同じ場所にいても、そこに3人がいたとすれば、三者三様の異なる空間として認識される。各人の経験や着眼点が異なるからだ。

私は海が好きなので、どんな海にも魅力を感じるけれど、ある浜にだけは近寄っていない。少年時代に弟と貸しボートを漕いでいて、沖に設置された飛び込み用の筏から飛び込んで溺れた同年代の少年を引き上げたものの、彼は死んでしまった。

私は1930年代の上海の雰囲気が好きで、オールドファッションを売りにしたジャズのビッグ・バンドのライブに行った。平均年齢70歳は超えていただろうバンドメンバーたちの演奏はビシッと決まらず緩かったが、朗らかな演奏に客も大喜びで踊った。上海には1800年代から欧米諸国や日本によって租界が置かれた歴史があるだけに……それを思い出すと、ただ陽気に過ごすことはできなくなってしまう。

だから同じような空間でも、また、同じ場でも、楽しい花もいけられるし暗い花もいけられるのだ。

自分のための花 240902

2024/9/2

いけばなを誰に見せるのか、大きな問題だ。私以外に誰もいない時と場所でいけることもあり、その時は自分1人が主客の役割を入れ替えて問答を繰り返すことになる。

自分のことは自分ではよくわかっていないと言われるように、自分の花を自分で批評するのも難しい。どうあがいても玉井っぽいと言われるようなステレオタイプがあって、それを抜け出せないことについて自己批判することが多く、結局は堂々巡りに陥ってしまうのだ。

こういう行き詰まりは、歳を取るほど頻繁に起こる。新陳代謝が鈍り、血管も何もかもが詰まってしまうのだろう。この停滞状況を脱するためには、理屈に構っていてはいけないと感じる。当てずっぽうに銃を乱射していると、全く偶然にも1つの弾丸が思ってもいない的を撃ち抜いたりする。脳味噌に頼らず肉体の勝手な動きに賭けてみることで、閉塞状況を打開できるかもしれない。

肉体に沁み込んだ体験の記憶も、自分固有のものとして筋肉にへばりついているので、自分らしさの片鱗は、最後までなくなってしまうことはないだろう。1人で花と語りつついけるのも楽しい。

講師の事