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いけばな随想
diary

現代美術的な花 250618

2025/6/19

 アクション・ペインティングやシュールレアリズムの自動筆記など、制作者の意図や理屈を超えようとする表現形態がある。その手法で表現された絵画や小説などでは、“傘とミシンの出会い”など、意味不明だったり荒唐無稽な浮世離れしたモチーフが喜ばれる。
 何をするにも人間的でありたいという人間らしい願いを蹴飛ばし、自分を偶然性や夢の世界に放り込むところから表現を開始する。理由や目的にがんじがらめになっていた自分を、テーマ性がなく計画性のない無限空間に委ねるのである。
 そういう現代美術とは別のアプローチで、障害を持つ人によるアートや、自覚のないまま描く子どもの絵画などに価値を見出そうとする取り組みも見逃せない。ナイーブな感性や無垢な感性によって表現された作品に、崇高さや透明さや温かさを感じたり、逆に人間の宿業を味わったりする。
 そういう視点で見ると、リサイタルの迎え花やホテルの玄関花のように目的意識が明確ないけばなは、特に面白味がない。勝手に手が動いたとか、花がこういけてくれと言ったとか、そんなトボケたいけばなも案外面白いと思う。

外国人のいけばな 250617

2025/6/17

 昨日、モルモン教を伝道する若者2人が、いけばな体験をしてくれた。私は知る限りの英単語を連発し、大振りなジェスチャーで手ほどきをした。私の拙い英単語を頼りに、彼らは頭の中で理屈を構築し理解しようとする。しかし、私の言葉を繋いだところで、きっと理屈の通らない説明だったはずだ。
 それなのに、私の説明の先へ先へと彼らの手は動いていった。私は2人に天才を感じた。
 天才には2つの素質がある。1つは直観力で、説明する内容を、いくつかの単語とその発せられた順序から直感的に全貌を感じ取る能力だ。もう1つは、経験の豊富さと、その経験のストックを目の前の事象と関連付ける能力である。彼らは20歳前後でそれを既に会得していた。
 私の印象では、信仰心の強い西洋人は信仰のない日本人を見下しがちだ。一方で信仰のない西洋人は、人間全能主義的なビューマニズムに陥っていて、人間以外の植物や物体に対して畏敬の念が低い。しかし2人には、天才に加えてもう1つ特別な能力を感じた。彼らは偉そうぶらないのだ。何に対してもへりくだり、吸収する構えを身に着けていた。

大事と小事 250616

2025/6/16

 修行して、ある境地に達した者は、諸事一貫、大事・小事に関わらず過不足のない平常心で事に当たれるという。
 さて、勝ち目はなくとも、面白いことこの上ないという博打(ばくち)がある。人生で1度きりしかないような博打だ。変な三段論法かもしれないが、小事はだいたい計算できるから、負けることはない。負けることがないものは博打とは呼ばない。負ける確率が高ければ高いほど大博打で、生きているという人生こそが一番の大博打である。
 私は病気と事故で都合4回死にかけたけれど、死んでいない。悪運は強いことが証明された。だから、というわけでもなかろうが、こんなに先が見通せない人生において、毎日毎晩、何を細ごまと小事の計算をしているんだろうと面倒臭くなることがある。
 いけばなと出会ったのは40歳。最初の心筋梗塞が42歳。運命を感じるほどのタイミングではないものの、見えない伏線があったのだろうとは思う。どんな縁が人生に作用するかわからないから、面倒がらずに小事に当たるのがよかろう。今晩もウチの猫を膝で挟んで毛を梳き、花瓶の萎れた花を1本抜く。

道場という場 250615

2025/6/15

 剣道の道場は、空気がキンと引き締まっている。柔道や空手にも道場があって、なぜ華道には道場がないのだろうか。茶道には道場がないかわりに、茶室と呼ばれる一定の基準というか室礼というものを備えた空間がある。道場や茶室には、必要最低限の設えがあると同時に、不用なものは徹底排除している。わざわざ用意され、完璧に制御された空間だ。
 おそらく、道場の中では1人の人間の命の長さは、大した問題ではない。天から眺めれば、1年も10年も50年も大した差ではない。だから年齢もキャリアも関係なく、志と技を研ぎ澄ませた者だけがその空間の支配者になり得る。
 だからといって、しかめっ面で緊張ばかりしていては心も体も動かない。ピアノを正確に弾くだけではなく、弾きこなす域に達してこそピアニストになれる。一定のところまで技術も気持ちも磨くと、自由に自然体で物事に取り組めるようになる。
 いけばなの最後のステージもこうだ。長年やって身に付いた作為的な態度や癖の分厚い垢を、なんとか擦り落として自由になりたい。長くやった分だけ、引き剝がすのは大変な作業だが。

山の郵便配達 250614

2025/6/14

 フォ・ジェンチィ監督の映画『山の郵便配達』、そしてケビン・コスナーの映画『ポストマン』。どちらの題名も郵便配達だが、テーマに共通性はない。また、前者を静とすれば後者は動で、性格もまるで異なる。類似を無理矢理見つけようとすれば、郵便配達の務めを受け継ごうとする若者が登場することだ。
 フォ・ジェンチィ監督には、10年以上前に来県した時に会った。静かに感動したことを静かに伝えたかったが、通訳はうまく表現してくれただろうか。今日、『ポストマン』を再び観た。
 どちらの映画でも郵便配達の務めは厳しく、常識的にはその働きに見合った報酬は得られない。普通に愛媛県の郵便配達を考えてもわかる。雪の降りしきる山あいの寒村に、黒い空が降りてきた山道をたった1人で向かう心細さ。数十円の切手代で、それは完遂される。
 仕事の満足は報酬額によっても得られるし、使命感の達成によっても得られる。資本主義下では必然的に搾取が起こる。それで公共性の高い事業は国家事業とされてきた。郵便事業が民営化された代わりに、森林保全と活用を国家的事業にしてはどうか。

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