演出 250110
2025/1/10
日本と中国の間には、国境線がある。だから政治的には100%他国同士ということだが、この線は見えない。文化的には相通じる部分が大きいはずなのに、相違点ばかりが喧伝されて、両国民のセンスや考え方は全く違うと感じるよう教育されてきた。
日本人は、遣隋使の時代から中国に憧れ、また朝鮮半島の国々にも親しみを感じていたはずなのに、いつの間にかそれを忘れた。次いで、欧米に憧れるとともにそれを凌駕したいと思ったが、戦争に敗れてやや卑屈に追随することとなった。その後高度成長を遂げ、改めて「日本の伝統文化」というようなことを言い始めたが、4千年くらいの長さで振り返ると、偉そうに言うほど独自性は高くない。いろいろな文化をミキサーにかけ、新奇性をアピールできるよう演出したにすぎない。
とすれば、日本文化に独自性があるなら、それは演出力なのかも。伝統的な神楽は、神様と住民に向けた踊りであり、祈りである。しかし、イベントと化した神楽は、お金を払う観客が対象となった。いけばなも、野にある花にどういう付加価値をつけるかという、演出の美なのだ。
はみだしてしまおう 250109
2025/1/9
建築家の設計は、1軒の住居、1軒の店舗で完結した図面を描くのが普通だ。マンションや学校など規模が大きく公共性が高い設計では、周辺の道路や川など既存の風景の一部くらいは描き込むこともある。設計者の頭には近所の建物や街区の様子もイメージされるが、彼は業務範疇を超えてまで図面を描かない。
いけばなも「場にいける」もので、いけばなだけで自己完結しない。だけど、いけばなの周辺1メートル四方を意識するか、いけばなのある部屋全体を意識するか、いけばながある家の1軒を意識するのか、その家が建っている敷地全体を意識するのか、いける際の意識の広さで作品は変わる。
私は、知人のショットバーに花をいけさせてもらうようになって、いける際のイメージが広くなった。……自分が客の立場で店にやってくる。さっきまで騒がしい一次会だった。カラオケの二次会を離脱して1人でカクテルを飲みに来る。店は木の匂いがする。そして、自己主張の強いいけばなが目に入る……。空間の広がりだけではなく、時間経過も意識するようになった。茶で迎える亭主の気分といってもよい。
意味のあるなし 250108
2025/1/8
昼間に見えない星が夜見えるのはなぜかという疑問に対し、暗ければ暗いほど光の明るさは際立つからだと教えられた。物事は相対的な関係で成り立っていて、それは人の世でも他人との差異が大きいほど目立つのだとも。
だから、頑張り屋ばかりの仕事場では、少しくらい頑張っても認めてもらえない。1960年生まれの私は高度成長期に働いていたので、何とか目立つように立ち回る意識でアピールしながら働いた。相対的に優位に立とうとすれば、より一層頑張るようになり、当然のこととしてついに仕事中毒になった。でも楽しかった。
楽しさには、理由はあっても意味はない。ただ楽しんでいて、その楽しさを何かに役立てようとかいう気持ちにはならない。意味がないことにのめり込む楽しさは、子どもだけの特権ではなく、本当はすべての世代の人間が味わう権利を持っているはずだ。
今の私は、立場上、意味ある建設的な仕事と同じようにいけばなの意味を考えざるをえないけれど、実のところは、意味ある建設的な仕事で苦しむくらいなら、意味なく楽しめる「仕事の余白」みたいに過ごしていたい。
わからん楽しい 250107
2025/1/7
何事も「楽しいパワー」には負ける。面白いパワーというのもあるが、これは、離れたところから第三者目線で間接的に楽しんでいるようなよそよそしさがある。
青少年期や壮年期の自分は、いろいろ楽しいことに出会っても心の底から楽しんでいたかどうかわからない。いずれ何かの役に立つだろうからと判断し、そこに価値を認めて面白がる姿勢だったように思う。働いている頃は、より大きい目的のために日常のあらゆる些細な楽しさをないがしろにしていた。
歳を取ると、すでに目的地にいるような、いい意味でどうでもいいような気分でいるから、先のために今を犠牲にしなくてよい。何のためになるのかわからないことを楽しめる。退職していちばん大きく変わったのは、芋虫が木の上から落ちてきたり、セキレイ(鳥)が道路を走ったりする姿に見入って、それを楽しむことができるようになったことだ。歳を取ると子ども返りすると言われるのは、何も認知症との関連だけではない。
改めて、小中学生の頃に通った習字の教室を思い出した。鳥籠のカナリヤを注視していて、墨が筆先から足に垂れていた。
いけばな消える 250106
2025/1/6
交響曲のようないけばなもあるだろうし、ビッグバンド・ジャズのようないけばなも、4人組ハードロックのようなのも、2人組フォークソングやソロでギターの弾き語りみたいなのもあるだろう。歌や曲は残るのに、いけばなはそうはいかない。消える。まあまあ悲しい。
しかし、いけばなが本来持つ侘びたり寂びたりした感じというのは、作品の大きさや派手さとは別の次元にあるように思う。日常生活の感覚から離れて、利便性や効率などとは無縁の境地にある。それだけではなく、これまで手元にあった物や人がなくなる侘しさ、なくなるだけでなく身の回りの物や人が減っていく寂しさなどを、自虐的でなく積極的に受け入れて、哀しさこそを愛おしく思う心境が侘び寂びだ。
この境地は所有欲の対極だから、とても困難な道だ。本でも、CDでも、私は手元に自分のものとして置いておかないと気が休まらないタイプだ。それなのに、花器は所有できても、いけばなは所有できないところに未練が残る。画像映像としては残せても無くなるとわかっているいけばなを、夢見心地でやれるようになりたいものだ。