解像度 231102
2023/11/2
年齢とともに視力が落ちるわ老眼になるわで、物を見つめ続けることに疲労を感じるようになりました。明るいところでも暗いところでも目が霞むし、今はいつでも半目で物をボーッと眺めています。
基本的に、その道でキャリアを積んだ人の見る目は厳しくなります。骨組みも細部も気になるので、他人の作品の評価は厳しいし、自分の作品もなかなか完成しません。
私自身のことを振り返っても、いけばなを始めた頃は結構自画自賛していましたが、だんだん満足度が低くなり、ついには反省点ばかり気になるようになりました。キャリアとともに、見えるものが増えてくるのです。そして、さらにキャリアを積むと、いけばなを置く空間が見えてきます。空間の大きさや明るさ、人の動く動線、インテリアや小物など……。
ところが、観察したすべてをトータル・コーディネートしようなどと考えたら、何も手につかなくなるかもしれません。ここで、プロとアマの違いが出るのだと思います。精神力と体力で徹底するか、私のように半目にして薄目で見ることで解像度を下げて妥協するか、この二択です。
仮説と試行 231101
2023/11/2
いけばなには「折り矯め(おりだめ)」という技術があります。土佐水木などの枝を両手でミシミシと“無理に”曲げて、元の枝ぶりと異なる枝ぶりに変身させる方法です。
折り過ぎると“骨折したよう”にブランブランと千切れかけて、自立できない枝になってしまいます。どの枝のどの部分をどの向きに矯めるかによって力加減が異なるので、いつも、枝と私の「初めまして」の失敗の関係です。
その初めての出会いで、これはきっと折れてしまうだろうなと予測して力を入れると、やっぱり折れてしまった! とか、これは180°くらい曲がってくれそうだと思って力を入れると、予想に反して折れてしまった! とか、これを何度も繰り返すうちに、折り矯めができる枝かどうか、触ってみた感じでわかるようになります。木の種類が違っても、大体わかるようになります。
他人が提示する理論とか、自分の頭で考えた推測とか、“一般的”な常識とか、そういうものが役に立たないのがいけばななのです。自分の仮説と試行の繰り返しによる経験則みが種となって、はじめて身に付いて花開きます。
触感的いけばな 231031
2023/10/31
日常生活では、五感のうちで視覚が優先しがちです。そんな中、様々な表現活動の中で、いけばなは比較的、触覚の関わりが大きいと思うのです。
目で見たものは、大体「わかった」ような気になりますが、触ったり嗅いだりしたものは、「そんな感じ」がする程度で、明確にわかったとは言い切れないものがあります。いけばなでは、「そんな感じ」という微妙なフィーリングが大事です。
日本には四季があることから、日本人は季節感の微妙な違いを細かく感じ分けられるといいます。これは、視覚的な季節ごとの風景の違いに加えて、肌で感じる湿気の重さや気温の上がり具合、風の優しさや流れてくる桜の香りが鼻先で儚く消える感じなど、様々な変化を肌感覚のとても優れたセンサーで感知しているのだと思います。
いけばなは、この日本人の肌感覚が凝縮されたものだと思います。私は俳句はしませんが、俳人が吟行を好んでするのは、やはり肌感覚で世界を捉え切らないと言葉にならないのではないかと想像します。いけばなは、草花や木を媒介にして、もっと何かを触感的に掴み取ろうとしています。
パフォーマンス 231030
2023/10/30
11月3日にいけばなインスタレーションを行います。パフォーマンスと呼んでいいのかな? その場に居合わせた人の手も借りようかと思っているので、ハプニングが起こるかも? いい加減な説明しかできない状態ですが、ともかく海に向かって制作を開始し、6時間後に終了させます。
タイトルは「海を釣る(仮)」。竹とパンパスグラスを使った長い蛇状の物体を海に繰り出していき、材料がなくなったら引き上げ始めて、海が釣れたかどうか確認して終わる計画。
いけばなは1回性の表現で、なかなか再現できないし、作品が手元に残りません。見てくれる人が少ないと、表現した事実を世間に証明できない弱さがあります。画像や映像で記録するしかないですし、記録は平面的で実際に制作したものとは似ても似つきません。
1978年頃、渋谷の随所で“レコードコンサート”なるものが催されていました。煙草の煙もうもうの喫茶店で、ロックのライブアルバムを聴いて熱狂していた私は何だったんでしょう? いけばなのライブ映像を見て面白いと感じてくれる人が、今どきいらっしゃるとは思えないですけれど。
いけばなの空間 231029
2023/10/30
額縁入りの絵画であれば、カンバスに集中して仕事ができます。その絵がどこに飾られるかは時々の選択が可能だからです。絵と飾られる空間には、絶対的な相関関係はありません。
しかし、いけばなは、そうはいきません。与えられた空間が先にあって、そこに花をいけるので、空間といけばなには完全なる因果関係があります。したがって、その空間を綺麗にしておくことが、表現の下地づくりとなります。掃除=ハウスキーピングは、いけばなの創作活動の一部であり、スタートとなります。
ところが、人間がどんどんマニアックになっていくと、一見汚い廃墟に美しさを感じたり、場末の雑然とした溜り場に愛着を覚えたりするので、必ずしも清潔でシンプルな空間だけがいけばなにふさわしいとは限りません。ほんと、マニアは厄介者ですね。
さて、人間がさらにマニアックになっていくと、空間の性質などお構いなしになります。そのいけばなの圧倒的な存在感に目がくらみ、もう、その作品しか見えなくなることがあります。その時、いけばなはいけばなを超えて、オブジェとして君臨するのでした。