母の日記 250901
2025/9/2
実家の押入れには、まだ整理のつかない書類や手帳(父母が遺したもの)があって、こんど母の十七回忌を迎える前に少し手を付けてみようと思った。十三回忌のときは、母が晩年描いたり出品したりしていた油絵の額縁を十数点、彼女の母校である内子高校の美術部に寄贈に行った。絵は手元に置いてあるが、絵から何かを読み取るのは困難だから、再び押入れにしまってある。
黒表紙の大きめの手帳を開くと、弟が生まれて数か月間の家計簿がわりの日記だった。弟が大阪の病院に長期入院しなければならなくなって、私が五十崎の祖母宅に預けられた状況も改めてわかった。
しかし、母や親戚から聞かされて思い込んでいた内容とは、少し食い違う内容も多かった。私の幼少年時代の記憶はおぼろげで、ひょとしたら、ほとんどが夢で作り上げた仮構かもしれない。
私のいけばなも言わば仮構だ。野にある花は実在でも、いけた花は想像力によるしつらえだ。仮構ならば、現実の足枷を振りほどいてもっと非現実的であっても構わない。現実が強固だとしても、未来から振り返ると、それは溶解しているだろうから。
遠雷 250831
2025/8/31
いけばなは空間をつくる。いけばなは空間を変容させるということも言われる。だから私たちは、花をいける部屋の全体に意識を向けて、何が求められているのかを考えていける。屋外空間のときは、その空間に合わせて意識を広げる。
子規記念博物館にいける場合は、明治時代のことや、俳句のことなども考えていける。空間の性質を考える場合、歴史の時間的な性質も考えることには大きな意味がある。空間の構成には時間も関与する。
遠くで打ち上げ花火の音がした。夏の終わりのセレモニーだ。遠い花火もそうだが、遠雷は姿が見えず、音と振動だけが伝わってくる。どこまで意識を広げるかは人それぞれで、聞こえる音をいけばな空間に連れ込むかどうかは個々の趣味の問題だ。
私が少年時代に通った書道教室は、縁側でカナリアが鳴き、隣室の琴の教室からは『春の海』が聞こえていた。私のいけばな教室は、たいていBGMを流しているが、時々それを止めるときは蝉が鳴いているか雨音が聞こえているか、私が心の中で懐かしい音の思い出に浸っているときである。音は、遠い記憶を呼び戻してくれる。
夢見心地 250830
2025/8/30
夢日記を今もずっと書き続けている。つげ義春に感化されて、2007年7月17日に入院先のベッドで書き始めてからのことだ。2027年の草月創流100周年を迎える年が、いみじくも玉井夢日記20周年である!
私は急性心筋梗塞で2度の手術入院をしており、1回目は2002年の5月だった。そして、3年後の2005年の夏に2回目があったと、なぜかずっと思い込んできた。人にもそう説明してきた。それで今年、心筋梗塞からの快癒20周年と決め付けて既にそれを祝ったのだが、実際はまだだったというわけ。
2007年7月17日の夢日記に、夢ではない現実の自分の病状をちゃんと記していた。つまり、正しくは2007年に2回目の心筋梗塞を患い、2027年こそが快癒20周年なのだ。この18年間、20年分の夢を見ていたことになる。これは、損したのか得したのか。いずれにせよ、2027年が私にとって記念すべき年であることが、より一層意味づけられたことになる。
あと2年、本気で“花咲か爺さん”を夢見て過ごそうと思う。夢を見るのは意外に体力も気力も必要なのだが。
知らない相手 250829
2025/8/29
名前を知っている花ならば、その名を告げて花屋に注文できる。しかし知らなければ、花の姿かたちや大きさや色などを電話越しに説明しなくてはならない。
道を歩いていて知っている花が咲いていれば、心の中で「あ~ここにもフジバカマが咲いていたか」などと目にも心にも留まる。しかし、知らない花に示す関心度合いは普段の生活の中で低いし、植物博士になるつもりはないから、よほどのことがないと名前や正体を調べるには至らない。
ところが、知らない花なのに目を奪われることもある。初めて奄美大島に行ったとき、ヒカゲヘゴ(高さ4~5mの木生シダ)の森で空を見上げて感動した。その森でずっと過ごしたい気持ちになった。大蛇のようなモダマの蔓にも、メヒルギ、オヒルギで構成されるマングローブの林にも私は虜になり、時間が経つのが惜しかった。普段から流木にも関心がある私は、どうやら花よりも木に感応する傾向が強いようだ。
見知らぬ相手に対するストーカー行為などは論外だが、探検家や生物学者や遺跡の発掘者など、未知の何かに魅入られた人々の気持ちはわからなくもない。
過ぎたるは…… 250828
2025/8/29
何事もバランスなんよねー。愛情も不足が過ぎると破局が待っているし、過ぎたら鬱陶しい。
木の枝は人工的に増やすことができないから、いけばなは切って切って切りまくるという方法を駆使する宿命にある。切り過ぎたらもう元に戻せない、際どい綱渡りだ。ボリュームを増やしたいがために他の枝を加えると、もともと表現したかった枝ぶりが、その他大勢に紛れて失われてしまう。ドラマの主演俳優のオーラが足りないからと言って、群像劇に仕立て直すような愚挙となる。
バランスということで見ると、こんなことも言える。シーソーの両側に、同じ体重の子どもが同時に静かに乗る。左右が釣り合って動かない。釣り合いが取れて静止した状態からは動きが予感できないから、人の心を動かさない。左右の子どもの体重が違い過ぎると、今度は重い方が地面に付いたまま動かない。そこにはやはり運動の起こる気配がないから、人の関心を引かない。
映画では、壊れそうな愛のバランスが描かれていると気を引くし、いけばなでは、倒れそうで倒れない枝の傾きが目を引いて離さない。良し悪しは別としても。