自然な感じ 250105
2025/1/5
いけばなで難しいのは、「自然な感じ」に仕上げること。心の内が見える不自然さは嫌だし、かといって切り花にしてしまったからには、もう自然には戻れない。不自然と自然の中間にあるのが「自然な感じ」だ。
いけばな制作では、作為を抑制しないと生々しい欲望が入り過ぎる。息を吐いて力みを取らないと、花材を擬人的に俳優に見立て、舞台のようにドラマを生み出したくなるから困る。
よく否定的な意味で「間抜け」と言うが、この状態は実は好ましい。抜けていないと遊びの間がない。人が住む家も、居間、床の間、欄間、土間……等々、間だらけだから、いけばなをいける余地も生まれるというものだ。そして、いけばなも、人間のドラマが展開されるの空間の舞台装置かもしれない。
日本家屋には、基本的に境界としての壁がない。室内が縁側や土間を介して室外と繋がっている。内と外が、互いにフェードイン・フェードアウトする関係だ。そもそも、自然の風景には境界線がない。人間が柵や窓やファインダーなどで切り取って、作品の範囲を決めている。自然ないけばなも、境界がはっきりしない。
シンプル 250104
2025/1/4
茶碗のようにシンプルだから魅力が際立つデザインとか、白菜&ベーコンのように簡単なのに美味しい料理には、心が踊ったり癒されたりする。部品の多い腕時計や食材の多いコース料理も魅力的だが、少ない材料で完成度を高める職人には頭が下がる。
いけばなは、生花を扱うという性質上、また、基本的にはコース展開ではなく1点完結なので、短時間作業が求められる。また、一期一会の場に設えられた伝統によっても、長時間同じ姿を保つことは求められなかっただろうし、移ろいが前提としてあったことも想像に難くない。シンプルで一瞬の表現を目指すのが、究極のいけばなだろう。
現代社会において、情報発信の対象が一気に拡張された。歴史も文化も信仰も習俗も体験も世代も異なる人々にも受け入れられたいという欲求に、危うく捕らえられそうになる。そうすると、いけばなも「盛り盛り」になる。
そうなることを戒めて、安い少量の花材でギリギリまで切り詰めた稽古も大事だと思う。断食やデトックスに取り組むことを、花生活に取り込むように? 私には、そこまでのストイックさはないけれど。
図らずも 250103
2025/1/3
過去の自分が「あっ」と気付いたきり忘れていたことが、別の局面で符丁が合うように「あっ」と思い出されることがある。
昔、4級小型船舶の免許を取るとき、海図を初めて見た。陸地が中心の見慣れた地図ではなく、文字通り海洋が中心の海図であることに「あっ」と驚いた。いけばなを意識的にやるようになって、花木をいけながらそれによって生まれる空間(空虚)をもいけていることに気付き、海図を思い出して腑に落ちた。と同時に、少年期に習っていた習字が上手くならなかった理由の1つが、余白に心を寄せられなかったからだということにも思い至り、また短期間バンド活動をしたときも下手糞だったのは、やはり休符を疎かにしたからだと納得できた。
それでいま、いけばなの実体と同じくらい、いけばなによって生まれる空虚が大事に思える。これと関係あるかどうか、私は日記こそつけていないが、図らずも夢日記は20年以上つけている。
また、これもひょいと思いついた目標で、今年は庭木の剪定を上手にしたいと思う。そんなことが1年の計かと問われると、そうでもなくそうでもある。
世界観 250102
2025/1/3
紅白歌合戦をぼんやり見ながら、登場する人たちを私は2つに分類していた。世界観を感じるか、感じないかである。歌っている当人のバックボーンや表現したい世界まで見える人と、目の前の姿しか見えない人である。いけばなでも同様に、作者の思いや世界観によって、より大きく深い空間を感じるものと、目の前の作品しか目に入らないものとがある。
さて、全国高校サッカーで、松山北高が躍進した。3回戦で敗れてしまったが、彼らの繰り出す1つ1つのプレーには、展開したいチームとしての戦略が感じられた。思い付きや苦し紛れのプレーがほとんどなく、高校1、2年生でそこまでの広い視野と深い洞察力があるのかと舌を巻いた。
私の青少年期はどうだったかというと、高度成長する産業社会の画一的な世界観しか持っていなかった。個性や自主性が大事という言葉だけを偉そうに使い、実のところ画一的な教育の申し子となっていた。世界観を持っていたつもりだったが、他人のつくった世界観に泳がされていただけだった。
今の人たちに倣って、小さな自分とそろそろおさらばしたいところである。
年明けに老人力 250101
2025/1/1
紅白歌合戦で、南こうせつとイルカが往年の名曲『神田川』と『なごり雪』を2人で歌った。その歌い方に、赤瀬川原平の言う「老人力」をまざまざと見せつけられた。
2人の声は昔以上に魅力的ではないか! 肩の力が抜け、喉の力も抜けて、ギターを爪弾く指の力も抜け、弾いている音もところどころ抜けている感じだった。それでも歌は余裕しゃくしゃくで伸びやかだし、一層の情感がこもっていた。
「老人力」は、物忘れが思わぬ効果を発揮するくらいの理解でしかなかったのだが、真の「老人力」は何か力が付くことではなくて、力みがなくなることだと悟った。しかし、力が抜けていないと力が出ないというのは体験的によくわかっているのに、それを頭で理解していても、体の力を思うようにコントロールできないのである。頭の理解があればあるほど、体の方は頭の理屈の金縛りになるのだった。
頭と体の両方の力みをなくす方法として、飲酒を試すとか、徹夜してフラフラになるとかしてみたが、それでは緩み過ぎる。力みのない、老人力あふれるいけばながいけられるよう、まずは頭のネジを緩めたい。