汀州Japanlogo 汀州Japanlogo

いけばな随想
diary

本末転倒 250613

2025/6/13

 目的と手段が入れ替わるというのは、油断した暮らし方をしていると、ちょくちょく起こる。油断とは関係なく、初めから目的と手段の関係が自分でもよくわかっていないこともある。
 私がいけばなを始めたときは、いけばなをしたかったというよりも、いけばなを通して「ちょっとひねった表現」がしたかった。その時には、ひねった表現が目的で、いけばなを手段に置いていたフシがある。さて、今は何のためにいけばなをしているのか、すぐに答えなさいと言われたら困る。何のために生きているのかと聞かれるくらい難しい。社会性とか他人の目が気になって、答え方を難しく考えてしまう。人間は他の動植物に比べて、とても難しく生きているのだった。
 雨上がりの庭はとても緑が濃い。特に紫陽花と野バラが育ち過ぎるくらい育って、隣で弱々しく何とか生き残っている椿や桃に覆いかぶさっている。生命力はシンプルだ。
 世の中には、美味しいものを食べるために生きている人もいれば、生きるために何とか食い繋いでいる人もいる。決め付けはできないが、目的と手段が入れ替わると人生の景色も変わる。

言うか言わないか 250612

2025/6/12

 ヨガのスタジオをやっている方と話をした。決めてあるレッスン時間内で、生徒さんにどこまでのことを言うか、これは、相手の個性やキャリアや状態を見極めて言えたなら、相手も自分も満足度の高いコミュニケーションになるという内容。
 本当に伝えたいことは、必ずしも相手が理解しやすい事柄だとは限らない。しかし、中学で教える内容を、小学生に教えようとしても難しいことは誰にでもわかるが、みんなが大人の場合に、相手によって伝える内容を変えるというのは、教える側に相当高いスキルが必要とされる。しかも、本当に伝えたいことが明白だという状態でなければ、相手に話せる環境に置かれても、ムダ話で終わったり、他人の言葉を受け売りしたり、質の低い冗談で笑わせて胡麻化すことしかできない。
 だから、相手のレベルに合わせて、言いたいこと伝えたいことを瞬時に引き出せる才能というのは素晴らしい。
「道」の付く日本の伝統文化には、饒舌より無口が美徳という風潮が強かったし、基本的には一子相伝の秘技秘策で「言わぬが花なり」ということで、言わないことが美徳であった。

花の流通現場 250611

2025/6/12

 花市場ではなく、産直市の話だ。出荷者の1人と言葉を交わした。片道2時間かけて山の現場へ行き、枝を切って、また2時間かけて町に戻ってくると言う。
 ここからは私の計算だ。売価500円のアセビを40本分切り出したとする。全部売れると売上2万円。切り出す時間が1時間として、出荷前に長さを整えたり虫や枯枝を取り除くなどの下処理を行い、価格シールを貼ったセロファンを巻き、再び軽トラに積んで産直市に持ち込み、所定の売り場に並べるのに3時間。2万円を売り上げるのに合計8時間だ。苗木の仕入れ、山の手入れやガソリン代などの経費を引いた粗利は1日5千円くらいで、時給625円だ。
 つまり、この仕事だけで生きることは難しい。切り出す本数を倍の80本分にすればいいのかもしれないが、軽トラの積載量には限界もあるし、それだけの量が毎日売れるという期待もできない。
 廃業されたら困る。私が枝もの花材を入手し続けられるためには、その枝を買う人がもっと増えるか、いま買っている人がもっと金を払うか、いずれにせよ出荷者の収入が増えることが鍵になってくる。

数が力か? 250610

2025/6/11

 少年期に、プロレスごっこにハマっていた時期がある。ミル・マスカラスとかタイガーマスクとか、技が派手な覆面レスラーが子どもの私を喜ばせていた。インパクトのある姿かたちと技が観客を湧かせた。堅実で派手さのないレスラーはスマートかもしれないが、熱狂の対象にはならなかった。
 とすると「いけたら、花は人になる」という考えは、正しいけれど注目されない個性も肯定してしまう弱点がある。ショーマンシップを発揮し、目立つ個性を演じてこそ、受けが良い「映える」いけばなになるのではないか。衆目を集めるいけばなは、人目につかない場所でひっそり佇むいけばなよりも称賛されるのではないか。ほのかな悲哀よりも激情的な嘆き、ほほえみよりも狂喜乱舞!?
 世の中を席巻している投稿動画では、むしろやり過ぎたフェイク画像の方が世俗的な名声が得られることもあるようだ。資本主義が本質的に利益偏重であるように、資本主義的芸術は、ファンの数の多さやオークション価格の高さが評価の基準になる。
 数量的多さこそ価値というこの基準は、いけばな界をもじわじわと侵食している。

いけばなコミュニケーション 250609

2025/6/10

 三たびコミュニケーションの話題に戻ってきた。これが一定の波長で頭に浮かんでくる。私はコミュニケーションが理解と表現から成り立つことを知っているし、知っていることと、できることとが違うステージにあることも知っている。
 いけばなをいける際に必要なのは、5W1H(いつ・どこで・だれが・なにを・なんのために・どのように)とか6W3Hと呼ばれる項目をしっかり理解することだ。このことを何で真剣に考えてこなかったのだろうと、今更ながら反省する。
 いけばなを見る人からすれば、いけた人の人格や営業力などには興味はない。どんなに「頑張っていけたんです」と訴えても、いけばながすべてだ。「いけたら、花は人になる」というのは、「花にその人のすべてが出てしまう」ということでもある。さらに突き詰めると、「いけた花が、すべてを語っている」ということだ。
 だから、いけばなは、いけた本人に代わって見る人を呼び寄せたり遠避けたりする。成功している建築業の社長が、「事務所に花がいけてあると、成約金額がなぜか大きくなるんです」と言っていたことを思い出す。

講師の事