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いけばな随想
diary

わからん楽しい 250107

2025/1/7

 何事も「楽しいパワー」には負ける。面白いパワーというのもあるが、これは、離れたところから第三者目線で間接的に楽しんでいるようなよそよそしさがある。
 青少年期や壮年期の自分は、いろいろ楽しいことに出会っても心の底から楽しんでいたかどうかわからない。いずれ何かの役に立つだろうからと判断し、そこに価値を認めて面白がる姿勢だったように思う。働いている頃は、より大きい目的のために日常のあらゆる些細な楽しさをないがしろにしていた。
 歳を取ると、すでに目的地にいるような、いい意味でどうでもいいような気分でいるから、先のために今を犠牲にしなくてよい。何のためになるのかわからないことを楽しめる。退職していちばん大きく変わったのは、芋虫が木の上から落ちてきたり、セキレイ(鳥)が道路を走ったりする姿に見入って、それを楽しむことができるようになったことだ。歳を取ると子ども返りすると言われるのは、何も認知症との関連だけではない。
 改めて、小中学生の頃に通った習字の教室を思い出した。鳥籠のカナリヤを注視していて、墨が筆先から足に垂れていた。

いけばな消える 250106

2025/1/6

 交響曲のようないけばなもあるだろうし、ビッグバンド・ジャズのようないけばなも、4人組ハードロックのようなのも、2人組フォークソングやソロでギターの弾き語りみたいなのもあるだろう。歌や曲は残るのに、いけばなはそうはいかない。消える。まあまあ悲しい。
 しかし、いけばなが本来持つ侘びたり寂びたりした感じというのは、作品の大きさや派手さとは別の次元にあるように思う。日常生活の感覚から離れて、利便性や効率などとは無縁の境地にある。それだけではなく、これまで手元にあった物や人がなくなる侘しさ、なくなるだけでなく身の回りの物や人が減っていく寂しさなどを、自虐的でなく積極的に受け入れて、哀しさこそを愛おしく思う心境が侘び寂びだ。
 この境地は所有欲の対極だから、とても困難な道だ。本でも、CDでも、私は手元に自分のものとして置いておかないと気が休まらないタイプだ。それなのに、花器は所有できても、いけばなは所有できないところに未練が残る。画像映像としては残せても無くなるとわかっているいけばなを、夢見心地でやれるようになりたいものだ。

自然な感じ 250105

2025/1/5

 いけばなで難しいのは、「自然な感じ」に仕上げること。心の内が見える不自然さは嫌だし、かといって切り花にしてしまったからには、もう自然には戻れない。不自然と自然の中間にあるのが「自然な感じ」だ。
 いけばな制作では、作為を抑制しないと生々しい欲望が入り過ぎる。息を吐いて力みを取らないと、花材を擬人的に俳優に見立て、舞台のようにドラマを生み出したくなるから困る。
 よく否定的な意味で「間抜け」と言うが、この状態は実は好ましい。抜けていないと遊びの間がない。人が住む家も、居間、床の間、欄間、土間……等々、間だらけだから、いけばなをいける余地も生まれるというものだ。そして、いけばなも、人間のドラマが展開されるの空間の舞台装置かもしれない。
 日本家屋には、基本的に境界としての壁がない。室内が縁側や土間を介して室外と繋がっている。内と外が、互いにフェードイン・フェードアウトする関係だ。そもそも、自然の風景には境界線がない。人間が柵や窓やファインダーなどで切り取って、作品の範囲を決めている。自然ないけばなも、境界がはっきりしない。

シンプル 250104

2025/1/4

 茶碗のようにシンプルだから魅力が際立つデザインとか、白菜&ベーコンのように簡単なのに美味しい料理には、心が踊ったり癒されたりする。部品の多い腕時計や食材の多いコース料理も魅力的だが、少ない材料で完成度を高める職人には頭が下がる。
 いけばなは、生花を扱うという性質上、また、基本的にはコース展開ではなく1点完結なので、短時間作業が求められる。また、一期一会の場に設えられた伝統によっても、長時間同じ姿を保つことは求められなかっただろうし、移ろいが前提としてあったことも想像に難くない。シンプルで一瞬の表現を目指すのが、究極のいけばなだろう。
 現代社会において、情報発信の対象が一気に拡張された。歴史も文化も信仰も習俗も体験も世代も異なる人々にも受け入れられたいという欲求に、危うく捕らえられそうになる。そうすると、いけばなも「盛り盛り」になる。
 そうなることを戒めて、安い少量の花材でギリギリまで切り詰めた稽古も大事だと思う。断食やデトックスに取り組むことを、花生活に取り込むように? 私には、そこまでのストイックさはないけれど。

図らずも 250103

2025/1/3

 過去の自分が「あっ」と気付いたきり忘れていたことが、別の局面で符丁が合うように「あっ」と思い出されることがある。
 昔、4級小型船舶の免許を取るとき、海図を初めて見た。陸地が中心の見慣れた地図ではなく、文字通り海洋が中心の海図であることに「あっ」と驚いた。いけばなを意識的にやるようになって、花木をいけながらそれによって生まれる空間(空虚)をもいけていることに気付き、海図を思い出して腑に落ちた。と同時に、少年期に習っていた習字が上手くならなかった理由の1つが、余白に心を寄せられなかったからだということにも思い至り、また短期間バンド活動をしたときも下手糞だったのは、やはり休符を疎かにしたからだと納得できた。
 それでいま、いけばなの実体と同じくらい、いけばなによって生まれる空虚が大事に思える。これと関係あるかどうか、私は日記こそつけていないが、図らずも夢日記は20年以上つけている。
 また、これもひょいと思いついた目標で、今年は庭木の剪定を上手にしたいと思う。そんなことが1年の計かと問われると、そうでもなくそうでもある。

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