汀州Japanlogo 汀州Japanlogo

いけばな随想
diary

いけばなはチャレンジング 241211

2024/12/12

 いけばなには即興的な要素がある。出会った花材次第でどうにでもなりえる。だから、いけばなはジャズに似ている。それでサッカーにも似ている。
 それから、アクロバティックなポーズをよしとする点では、サーカスにも似ている。しかし、重力に反する動きを伴わない静止したいけばなは、重力に抗い切れないとき、脆くも地上に崩れ落ちる。
 即興・危険姿勢のどちらに着目しても、いけばなはチャレンジングだ。守りの意識では成り立たない。攻める気持ちが必要だ。しかし、攻め切るためにはチャレンジ精神だけではダメで、それを後押しする経験も必要。失敗経験が多いほど、チャレンジは無謀ではなくなり、実現可能性が高まる。
 当然ながら、チャレンジには失敗がつきもので、トライ&エラーのエラーが大きいと意気消沈する。もうやめたいと思う。自分には向いていなかったか……と放り出したい気持ちになることもあるだろう。このまま続けていっていいものだろうかと、迷宮に迷い込むこともある。しかし、投げ出したことの多い私にとって、最後の拠り所がいけばなになってしまったというわけだ。

手持ちの技 241210

2024/12/12

 いけばなは芸術の仲間だと言いたい気持ちと、いけばなは職人技だと認めてもらいたい気持ち、どちらもあるし、どっちだっていいじゃんという思いもある。
 いけばな教室で教えているとき、私はどちらかといえばアーチストとして生徒さんにいけて欲しい気持ちの方が勝っている。自分自身への言い訳にもなるが、私は自分の作品に満足したことがないし、アーチストとしては他人の作品にも100%降参したことがない。
 ところが、職人としては、他人の作品にひれ伏すことが多い。否、作品にというより、技術に対して感心している(感心するという表現はとてもおこがましいことであるが、創造力に対して感動することはあっても、技術力に対してはなかなか感動は得られない)。ともかく、他人の技術について、このところ感心している自分が増えた。手持ちの技だけでは、作品づくりが思うようにいかない。
 手持ちの技だけでは、自分の創造力を超えた作品をつくることはできないことが、やっとわかってきた。技が創造を支え、創造を望むことが新しい技の習得につながる。手持ちの技を大いに増やすべし!

セルフプロデュース 241209

2024/12/11

 私にも迷いや悩みがたくさんあって、その1つが自分のキャラクターをどう作り上げていくかということ。本来の自分に対して、タレントとしてのもう1人の自分を作ること。本来の自分がプロダクションの役割を担って、別人格の玉井汀州というタレントをこの世に売り出す大仕事である。
 しかし、タレントが1人歩きを始めたら、もとの自分はどうなてしまうのだろう。お亡くなりになった中山美穂さんが32歳でパリに移住したのは、タレントとしての自分がどんどん増大化し固定化していくことに反発し、霧のように消えかけた本来の自分を取り戻すためだった。
 いまSNSでの発信力の高い人がその発信情報を上手くコントロールすれば、いくらでも自分自身を売り込むことができる。ただ、売り込み方を間違って誤解されることも少なくない。それよりも私の問題は、私が私の枠を超えられないタイプの人間なので、どんなに足掻いても第二第三の分身を生み出すに止まり、新しいキャラクターを作り出せないだろうと諦めていることだ。
 私が作りたい“花咲か爺さん”のキャラがあるにはあるが、覚束ない。

大義 241208

2024/12/8

 同じジャンルで動いている者同士は、互いの細かい動きや専門的な考え方まで、全部くっきり見えてしまう。だから、近い者同士は分かり合える部分も大きいけれど、ちょっと違うと感じる部分もたくさんある。い
 けばなでも、流派が違えば使うハサミや剣山の形も違うくらいだから、いけ方も全く違うくらい差がある。しかし、一般的には、どれも似たようにしか見えない。
 異なるジャンルに属する者同士は、互いに遠過ぎて細かい所はぼやけて見える。何を見たらいいかわからなくて焦点が合わないから、遠い者同士は細かい衝突が起こる心配がなく、大雑把に俯瞰して大義で共感し合える。視力の弱い者は、なお幸いである。嫌なことでもぼんやり流せるというか、利害にこだわらず「ま、いいか」で全部済ませられる。
 ビジネス界の同業組合は、共通の利益追求を表立って行う。いけばなの無数の流派は、それぞれが牽制し合いながら表では大人の付き合いをしつつ、大人になり過ぎているというのか、特に地方では互いに「さわらぬ神に祟りなし」で、冷めた気分で足も引っ張らないが助け合うこともしない。 

距離感 241207

2024/12/7

 人間関係の距離は、ときに近しい人と遠くなったり、遠い人と急速に近くなったりする。趣味が同じ人同士の場合は、特にその現象が起こりやすい。
 趣味が同じということで、その技術や知識が狭い範囲で重なっているため、ちょっとしたことに差異を見出してしまうから、普段は仲良くしていても、ひょんなことで対立したり対決したりすることもなくはない。また、異なる芸術分野で活動していたらいたで、いけばなをする人が書に手を出すと嫌悪感を示したりプレッシャーをかけたりするような書家もいる。
 しかし、私は向う見ずに何にでも手を出すタイプで自信家でもあるから「まあ、何とかうまくいくんじゃね?」という姿勢だ。意見が食い違う華道家よりも、意見に重なりがありそうな音楽家の方が、自分との近さを感じる。門外漢だとしても、感覚(センス)が近い人にはとても親近感を覚える。
 音楽に限らず、書道や絵画や、または医学や宗教やお笑いでも、表現するときに拠り所にしているもの(それは制作以前の思いや姿勢)を理解し合えると感じるとき、その人との距離感が限りなくゼロに近付く。

講師の事