植物と人間 250822
2025/8/22
植物との対話は、人間である自分のペースで回していける。庭木は、枝が伸び過ぎたり病気にかかったりもするので、放っておけなくて急いで対処しなくてはならないこともありはする。だけど、さあ、すぐに取り掛かりなさい、さあ、明日までに頼みますよ、という慌ただしさはないから助かる。
切り花の場合は、鮮度の問題があるから急ぎ気味で取り掛かる。とはいえ丸1日は待ってもらえる。水替えや切り戻しを前提にすれば、もうちょっとちょっと待ってもらえる。
けさ知人からの電話があって、ある人に連絡を入れて欲しいと言う。感覚的に、それは今日中にやった方がいい案件だ。私の苦手とするところは、人の気持ちにも鮮度があるということに付き合わなくてはならないことだ。生身の人間の気持ちの鮮度は、植物のように徐々に枯れたり腐ったりというのではなく、ある臨界点でストンと落ちる。人間の気持ちは、いつも断崖絶壁に直面していて、落ち始めた気持ちはもう助け上げることができない。
自分の気持ちを切り換えて、何かが終わらないよう5~6時間の内には電話をしなければなるまい。
椿の葉 250821
2025/8/22
私は猫を飼っている。その雌猫は躾がままならない。幼猫から4年も経つのに、しょっちゅうトイレの粗相がある。長毛種の中でも特に毛が細くて長いから、毎日数回はブラッシングする。機嫌が悪い時はシャーーーッと怒って爪を出されるし、ほんとうに手がかかる。
実家の庭には、祖父の代からのサルスベリやモクレン、キンモクセイ等の木がある。ツゲが1本枯れて、サルスベリが病気だ。父の代からのツバキやサンザシ、センリョウやムクゲもある。サンザシが病気で、ツバキは1本枯れた。
ナンキンハゼ、モモ、トネリコ、クロガネモチ、クチナシ、アジサイ、アメリカハゼ、マンサクは、私が苗木を植えた。育ち過ぎた枝垂ヤナギは、隣家から夜風になびく姿が気持ち悪いと聞いて切った。ヤブ蚊が湧くし野良猫の公衆トイレになるし、手間がかかる。
いけばなではよくツバキを使うが、庭のツバキは葉の色が悪く、虫と病気にやられて汚いから花屋で買ってくる。でも産直市のものは、たいてい安い分だけ汚い。だから、生徒さんに渡す前に必ず洗う。手のかかる子ほど可愛いというが、まあそんな感じだ。
花の感じ 250820
2025/8/21
私に信仰はないし、信念もない。しかし、理性的であろうとする気持ちや、論理的であろうとする気持ちよりは、根拠もくそもない矜持みたいな感じのものを大事にする気分が強い。「理屈じゃないんだよねー」
私がいけばなにハマったのは、生きているものは必ず変化する、変化する限りそれは生きている、そういう気分を強く感じさせてくれたからだ。そして、生きて変化するものがあれば、その周囲の環境も何らかの影響を受けて変化する。変化するのであれば、その環境自体も生きていると見ることができよう。理屈っぽくなってしまった。
ともかく、自分のいけばなも「感じ」でつくるし、他人のいけばなも「感じ」で見る。もし、いけばなに難しさがあるとしたら、桜とか薔薇という固有の名前を持っている花という見慣れた実体で具体的に形づくられていながら、いけばなが作品としては抽象的な絵画や彫刻の性格を持っていることだろう。
私も立場上の必要から、花材事典を脇に置いている。しかし、いけばな作品を見るときは、花の名前にこだわらず、その“花の感じ”だけで見たいと常々思っている。
メッセージ性 250819
2025/8/19
ポーカーフェイスが板についたスマートな紳士は、心には穏やかでない怒りやタフな野望を秘めていたり、ウェットなロマンチストの側面を隠しているかもしれない。しかし、他人のそんな裏側を見抜く必要を感じることなく生活しているのが普通の我々である。
たいてい、かわいい花やきれいな枝は、多くの人に好まれる。嫌われないためには、個性やメッセージ性をあまり見せないで、「明るく素直で元気な子」を装っていればいい。そうは言っても、個性がなく主張もない存在は嫌われないかもしれないが、長い付き合いの中では飽きられて、興味関心を失っていくのではないかという心配もある。
いけばなでは、花言葉や色彩の持つ性質(明度や彩度)に表されるような表面的なメッセージを、制作者の側はほとんど意識しない。もっと直感的に花材を扱いつつ、秘めた思いや自らに課した課題を表現する(こともあるし、そうでないことも多い)。
動機や過程がどうであれ、つくった作品について何か理由が欲しいのは自分自身なので、「こんなつもりでつくった」という後付けのメッセージは隠し持っている。
空洞をいける 250818
2025/8/19
昨日から「空洞」について考えている。
子どもの頃、絵を描くのに黒い紙を渡されて、戸惑った記憶がある。白い紙ならば、少しずつ線や色を足していけば“余白”がなくなっていった。紙は“白紙”であるものと思い込んでいたから、真っ黒な紙を前にしてどうすればいいか分からなかった。大人になった今、黒い紙は白い紙を一度塗りつぶしたようなもんだという風にも思える。隈なく黒く塗りつぶしたものに、白い隙間を開けていく作業を始めるというわけだ。
いけばなであれば、何もない透明空間に少しずつ枝の線や花の色を足していけばそこにスキがなくなっていくというのが常態だが、頑丈な箱に枝葉をぎゅうぎゅうに押し込んで固めた後、外箱を取り去って、枝葉の固い塊に穴を彫り穿つという丸太彫りに近い方法である。
彫刻の制作は、そのように丸太を彫り削っていく方法と、何もないところに粘土で捏ね上げていく方法とがある。いけばなでは、流木や切り株をいけることがあるが、流木や切り株を彫り削っていくと新しい作品の可能性が広がるだろうか。花をいけるのではなく、空洞をいけるのだ。