図らない 241231
2024/12/31
世の中は、モノとコトに溢れている。モノにはたいてい意図が含まれていない。コトは人が主体的に為すので大いに意図が含まれている。
いけばなは、「はな」というモノを「いけ」るコトで成り立っている。だから、いけばなには意図が含まれるはずなのに、図らずも、意図がないまま無心に(ボーッと、夢中で、がむしゃらに、惰性で……)いけている時もある。
不思議なのは、計画的にいけて計画通りに進んだ時、つまらない作品になりがちなのに対して、無心だったり我に返ったりしながら悩んだり迷った時の方が、結果的に自己満足度の高い作品ができることだ。自覚半分無意識半分というのがちょうどいいのかもしれない。
全く何も考えていないところからは何も生まれるはずがないけれど、日頃からあれこれ思い巡らしているところには、何かのきっかけで何かが芽吹いてくる。いけばなの制作については、様々な(かなり無限に近い)選択肢から1つのゴールを決め切る必要があって、その落とし所というのは、自分の意図と「図らないインスピレーション」や他人の「ふとした発言」などとの交差点だ。
「絵になる」いけばな 241230
2024/12/30
いけばなを描くとき、花器と花だけでは絵にならない。背景が描かれて完成する。背景には部屋の壁が描かれてもいいし、森や湖が描かれてもいい。ただし、人を描き込むと、花より人の方が主役になりがちなので注意がいる。
高知県の牧野植物園には、牧野富太郎博士の描いたスケッチがたくさんある。それらに背景はない。彼が描いているのはいけばなではなく、植物だからである。図鑑に載せる意図があったので、ただその時に咲いている花を描いて終わりではなく、その植物の発芽や雄しべや種子などが、超細密に1枚の紙に詰め込んである。彼のスケッチは、それだけで完成した価値を持っている。
絵としてのいけばなは背景がないと成り立たないということは、実物のいけばなも背景を含む空間がないと成り立たない。彫刻を絵に描いても作品として意味がないように、本来はいけばなを写真に撮っても、記録資料としての価値しかない。
ただ、土門拳が撮影した勅使河原蒼風の作品を見るとき、土門拳の目は空間を「絵になるように」切り取っているから、いけばなを写した写真として「絵になって」いる。
環境設計 241229
2024/12/29
1軒の小間物屋が、山間の村はずれの四ツ辻に建った。それまで村の集落から大きい町まで買い出しに出掛けていた人たちの流れが、そこで時々ひと休みするようになる。小間物屋は、饅頭も売り始めた。人々の流れがその店で滞留することも増えた。そういう店が日本全国にあった。
ところが、道が拡幅され長距離路線バスが運行するようになり、トンネルが掘られて大きい街に行きやすくなってマイカーを持つ家も増えると、その店で買物するのは腰の曲がったおばあちゃんばかりになってしまった。店は昭和時代の遺物となって、平成の頃にはほとんどなくなってしまった。
日本全国にまんべんなく分布していた小さな町や村は、令和の時代を迎えてますます小さくしぼみ、店ばかりではなく集落から人が消えてしまった。いまの日本は、大都市と、周辺の比較的大きい町と、あとは荒れた山や海辺の風景から成っている。
あの1軒の小間物屋は、いけばなという習い事の盛衰を象徴しているように思える。いけばなは、それ自体がひとり独立して生きられるものではない。その周辺環境によって生かされるものだ。
花の時間 241228
2024/12/28
ある流派のある方が、「いけばなの一瓶に、過去・現在・未来をあしらうのです」と教えてくれた。そういう構想での取組を意識したことがなかったので、とても新鮮な気分がして面白いと思った。
具体的には、1枚の虫食いの枯れかけた葉を挿したり実ものをあしらって過去を表現し、まだ堅く締まった蕾をいけて未来を感じさせたりする。
私が草月の諸先輩から習ったのは「枯れても花は美しい」ことで、人間が綺麗な歳の取り方をするのと同様に、花の一生にも各段階の美しさが宿っているというものである。だから、私がいける一瓶の花は、切り取った一定の時間の範囲で異なる花材が過去・現在・未来を表しているのとは違って、花器の中の花たちが時間をかけてそれぞれの一生を過ごしているというイメージだ。言い換えれば、そのいけばなはには「完成の瞬間」はなく、絶え間なく変化し続けて過去・現在・未来を過ごしていく。それが生長であろうと老化であろうと。
変化することが生きている証であり、いけばなは絵画や彫刻のように時間を凝固させて完成させる表現よりも、音楽や舞台の表現に近い。
詩的な花 241227
2024/12/28
同じ言葉を使っても、使う意図や使い方が異なると全く違う表現形式となる。例として、電気製品の説明書の表現は、一義的でなければ役に立たない。使用する人が使い方を間違えると、事故につながるからである。説明書に「最初に電源ボタンを押す」と書いてあったら、それ以外の行為を想像してはいけない。しかし、ある詩に「扉を押す」と書いてあったら、それは家の玄関かもしれないし、結婚式場の入場口かもしれないし、実体の見えない“人生の扉”かもしれない。
つまり、説明書の用語は、いつ誰が読んでも正確に1つの意味を示すが、詩で使われる言葉は多面的にいくつもの意味が考えられるし、同時的・重層的にたくさんの意味を併せ持っているかもしれない。
そういう見方をすれば、説明的ないけばなは誰が見ても同じように“わかりやすいいけばな”で、詩的ないけばなは人によって捉え方が違えども、それぞれが“感じやすいいけばな”である。
ジャズシンガーのサラ・ヴォーンは、歌(歌詞)で聴かせるというよりも、声で感じさせる歌い方をするから、英語がわからない誰が聞いても素敵だ。