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いけばな随想
diary

思い込み 250406

2025/4/6

 いけばなをするとき、私がいちばん大事にしているのは「疎密」である。背景と作品の関係もやはり疎密の関係だ。この構え方は、主題(表現したいこと)に対してとてもこだわりのある手法であり、私はそれを当然あるべき表現のしかただと信じてきた。
 しかし、人は歳を取り経験を積むほどに思い込みが激しくなる。その危険性を自分も感じるから、意識的にニュートラルな立場に身を置こうとは考える。思い込みの激しさは決め込みにつながり、迷惑な高齢者になり下がる。
 音楽における十二音技法や絵画におけるオートマティズムなどのように、主題つまりちっぽけな個人の頭から生まれたものに拠るのではなく、もっと大きな無限時間や無為の広がりに託すような制作のしかたもある。
 きょう生徒さんの1人が公共空間にいけばなを展示するにあたって、私のような個人がどれだけ他人の作品に関与できるものなのか、突然畏れのようなものを感じた。いけばなをする彼自身が置かれた緊張感の中で、私ではないもっと大きな何者かからインスピレーションを得て、より彼らしい表現ができるかもしれないのだ。

名前のない木 250405

2025/4/5

 昨日のいけばなの主役は流木2本だ。その存在感の出方は成功でもあり、失敗でもあった。というのは、会場の他の人たちから「いい木(ボク)ですねえ」と頻繁に褒められたからだ。作品についての興味よりも流木に対する関心が上回ったというのが、私にとっては皮肉過ぎる出来事だったのである。
 別の人からは「その流木は何の木ですか」「その流木はどこで手に入れられたのですか」とも聞かれた。きっと彼ら流木にも名前の付いた若い時代があった。それが枯れるか土石流に巻き込まれるかして谷に落ち、大雨と共にもみくちゃにされて流され、土砂に埋もれたまま数年を過ごし、何度かの大水で表土が削られてまた地表に顔を出したのだ(という想像)。
 そうして、表皮が剥ぎ取られて堅い芯を残したその流木は、ついに名前を失って河原の隅に横たわっていたのを拾われたということだ。名前はなくなったが、出身は石手川上流の“木(ボク)”である。
 私もいずれ名前をなくす。そうして誰かが発見してくれた時、愛媛県出身の“ヒト”だったんですねと呼ばれて、時間の流れの川岸に横たわっている。

不思議な働き 250404

2025/4/4

「不思議な力」と言ってしまうとオカルトっぽく感じられるかもしれないので、「不思議な働き」と言うことにする。
 松山春まつりの関連行事で、愛媛県華道会が協賛するいけばな展が始まった。草月から3人が出展し、何の打合せも情報交換もない状態で奇蹟が起こった。出品者3人のうち渡邊は、「ユリ」と「コデマリ」の白の花材で統一し、私は「椿」と「ダリア」と「アスター」の赤い花でまとめた。そして一色は「さくらひめ」を軸にピンクの花材で統一した。渡邊が白、玉井が赤、一色がピンクである。
 これを不思議だと言わずに何と言おうか! しかし、この3人それぞれの色を意識した制作が行われたことには必然的ともいえる背景がある。草月では花をいける心得として、「線・色・塊」の3要素を意識しなさいということが繰り返し教えられる。3人の心には、幸いにもこの教えがしっかりと根付いていたわけだ。
 会場全体を改めて眺めてみた。手前味噌であることを承知で言えば、この3人のそれぞれ1色にこだわった作品が、非常に効果的なアクセントになって会場を引き締めている。草月万歳だ。

どれも正しい 250403

2025/4/4

 こっちが正しいと主張すればするほど、あっちが正しいという理由が出てくる。そうなのだ。一切主張しないところには反論も反証も出て来ないが、何かをチョロッと主張するとチョロッと反対意見が出され、グイッと主張するとグイッと反論がなされる。
 正しさというのは100対0ではなくて、落ち着いて眺めれば眺めるほど50対50に近付く。正しいと思っても思い込みにならない余裕を持たなければ、しっぺ返しが来る。逆にこれはもうだめだと諦めかけたときに判断は間違っていなかったと救われたりする。
 いけばなの世界には正しさの基準はない。良し悪しを評価するいくつかのポイントはあり、いけばな各流派で互いに違いはあっても評価結果はある程度一致することが少なくない。
「この枝はもう少し長い方が良かったですか?」と生徒さんから聞かれたら、「長い方が良かったですね」と答えることも「短くていいです」と答えることもできる。もう少し突っ込むと、「テキストに倣えばもう少し長い方が」と答えるか「あなたらしさを出すには短い方が」と答えるか、私にはどちらも許されている。

注意1秒 250402

2025/4/3

 交通事故などの大きいもの、階段を落ちたり包丁で指を切ったりするような個人的なもの、放送事故のようなそれが事故と呼ぶほど大袈裟なものとは感じられないものなど、事故には様々あるがきっかけは共通して些細な不注意であることが多い。
 3月31日に駐車場で車同士の事故に巻き込まれ、保険会社の過去の事例に照らせば3対7くらいの過失割合になるという予想が示された。自分としては自己正当化の自然な心の働きで0対10くらいの気持ちなのであるが、双方ドライブレコーダーを搭載していたため映像を確認してからの協議になる。
 自分の目の届かない他所に花をいけると、予想以上に早い時点で花の一部が萎れてしまったりする。これは「予想に反して」という点でも先程の車の事故と同じで、行き着くところ自分の不注意が原因である。これが野生動物の世界であるなら、食われた方にも同情の余地はない。そう考えると、命があり身体的なダメージがなかっただけでもよしとすべきかもしれない。
 しかし、年齢と共に注意緩慢という自戒のもとでいけばなもしなくてはならない今日この頃である。

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