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いけばな随想
diary

ノイズ・ミュージック 240819

2024/8/19

1980年代後半、ラフォーレ原宿・松山に提案して、「ラフォーレ・アートパフォーマンス」というアート・イベントを行った。落葉をかき集めて作られた2人掛ソファは、展示翌日に大量の生きた芋虫を吐き出すなど、幅広く意表を突くような作品もあって面白かったし、アートって何? というのを再認識する機会を得た点で、自分にとってありがたかった。しかし、ファッション産業の旗手を自認していたラフォーレの意向にそぐわなかったためか、3年後に大広という広告代理店に仕事を持っていかれた。

当時、学生の時から付き合いのあった友人がノイズ・ミュージックにはまっていて、楽器演奏以外の生活音を拾い集めてハイブリッド編集し、デモテープを海外のラジオ局などに送っていた。少し飽きたのか、数年後にはその話題は彼から消えた。

人は他人と異なる表現を目論むとき、とんでもない材料を使いたいけれど、結局は現実的な落とし処を見つけて妥協する。

私のいけばなも、構想段階ではものすごい作品が空想されるが、その思いが一旦舞い上がった後、面白くない沈降曲線を描いて軟着陸する。

わからないから続けられる 240818

2024/8/18

いけばなをやっている。どこまで知っていて、どれだけわかっているかはわからない。わかろうとしてはいるけれど、わかっていないことが多いことはわかっている。

いろいろな画家の絵を見ても、「わかった!」と膝を打つようなことはない。はじめからわかろうと思っていないから、わかることが大事ではない。この場合は何かを感じたいと思っているので、何も感じられないと損をした気分になる。

猫を飼っている。いろいろわかってやりたいとは思っているが、つぶさにわかるはずがないという諦めが元にあるので、あまりわからなくても気にならない。しかし、トイレ以外で頻繁に“大きなほう”をしてくれるので、そこは逆にわかってくれよと歎願したいところだ。人は猫ではないから、互いにわかるはずだという前提に立ってしまう。ところがどっこい、わかり合えるという奇蹟はめったにない。やはりそうなのだ、人間同士ですらわからないのに、他のことがよくわかるなんてことはないのだ。

どの道の人でも生涯学び続ける。偉そうに言ったところで五十歩百歩だということがわかれば、しめたものだ。

夢のいけばな 240817

2024/8/17

1昨年のいけばな展は、屋外会場だった。大きいいけばなを制作しても園内の木の1本にも敵わないと直感して、私は背景の立木を取り込んだ作品をつくった。借景というよりも、その1本の大木と一体化させた作品だ。持ち込んだ材料でつくった部分は高さ2m幅3m奥行き4mくらいで、完成した一体化作品は高さ6m幅8m奥行き8mにまで拡がった。

昨年は個人的な遊びで、2mの竹を108本繋いで筏を海面に流すインスタレーションに挑戦した。筏部分も全長2mで竹と竹の繋ぎ部分が10cmなので、総延長228.8mの作品になるはずだった。途中まで海に繰り出した時、波の力で作品はあえなく引きちぎられ、漂流物となった(海の藻屑は、満潮を利用して後でちゃんと回収した)。

できれば次は、瀬戸内海と同じ大きさの作品をつくりたい。しかし、残念なことに、ドローンを飛ばすことができたとしても、その全体像を眺めることはできない。そうすると、人工衛星画像を見るか、ミニチュア模型をつくってそれを眺めて想像するしかない。どちらも潮風を体感できない点で偽物でしかないが。

精神的免疫力 240816

2024/8/16

新型コロナのさなか、免疫力という言葉がよく使われた。これは肉体的問題だが、精神的にも免疫力が低下することがある。

精神的に元気なときは、外界からの情報の受容量が高まり、取捨選択能力も高まって、免疫力が高いなーと感じられる。逆に鬱病的に元気がないときは、情報を遮断したくなり、処理能力が低下してアップアップで息苦しくなる。そうして気分が乱れて落ち込み、精神の健康を欠くことになる。健康なときはそうでもないのに、精神的に不健康になるにつれて外敵も増える。外敵を排除したいのにその力が足りなくて、熱を出して唸るのであった。

どこまでが自己であり、どこからが非自己であるか、肉体的には敵味方が明確なのだろうと想像するが、精神的な自己は、その時どきの調子によって変化するようだ。多重人格者のように、その時どきの自己は確立しているかのように振る舞いながら、他人から見ると安定を欠いているわけだ。

非自己を完全にやっつけて排除するか、非自己を敢えて取り込んで新しい自己を形成するか、いけばなにおいても生活スタイルにおいても考えどころである。

倫理 240815

2024/8/15

私は、華道という言葉もいけばなという言葉も好きだ。ところが、華道と呼ぶにおいては心構えとか身繕いとか言われたりして、そうすると華道が儒教的な精神論を期待されているような窮屈なものになってしまう。私自身はさほど反発心がないからいいようなものの、伝統的な習い事に対して倫理的側面を嗅ぎ取って近寄らない人がいるのも、残念な事実だ。

暮らしの中での一般的なエチケットや、社会生活を送る上でのマナーについては、いけばなをやっていなかろうとも、意識して過ごす必要はあるだろう。

しかし、いけばなを芸術の仲間に入れるとすれば、少なくとも非常識(反常識)へと向かうベクトルに片足は乗っけることが、アーチストとしての条件でもある。そんな立場の人にいくらマナー違反と責め立てても、アーチストは深刻に受け止める必要はない。もともと彼らは、常識界とは異なった可能性を求めているのだから。

私は、現実的に世の中に騒乱を起こす心積もりも勇気もない。行動を伴わない以上、革命家への階段を上がっていくことはないというのが、自分に対する安心であり侮蔑でもある。

講師の事