ネットワーク 241226
2024/12/27
高度成長期には、ネットワークという言葉を便利に使っていた。人口が増え、仕事の専門分化が進み、会社の業務内容も広がって、営業活動においてネットワークの拡大こそが売上増大の鍵だった。だから、異業種交流会も全盛だった。
ところが、日本の人口が減少するいま、物流・人流や情報の往来がますます広がり高速化すると、対面の「近い人間関係」は薄まる。全体的には、アルコール度数の高いウイスキーを水で割ってマドラーでグルグル掻き混ぜる状態に似ていて、人間関係社会も掻き混ぜられつつ薄まっていく。
実際、産直市で買う花は地元産がほぼ全部だが、花屋で買う花の多くは他県産や外国産になってしまいつつある。私がバラを直接買わせていただいていた生産農家さんは、数年前に廃業してサラリーマンになったし、木酢液や竹酢液をくださっていた方も、山に入ることをやめてしまった。
こうして、私が手に入れたいものは、だんだん遠くのものに頼るしかなくなってきている。さらに地域経済が疲弊していくと、私の購買ネットワークは、目の粗い細い糸で編まれた脆いものになるしかない。
無口ないけばな 241225
2024/12/25
家の花は、いけばなと呼ぶ必要もないくらい手を抜いたいけ方ができる。構想もなければ評価される心配もない、そこに黙って佇む花たちだ。これを仮に無口ないけばなと呼ぶことにしよう。
一方、展覧会でいける時は、良く見せたい一心でついつい饒舌ないけばなになってしまう。引き算のいけばなをしたつもりでも、花の数や作品の大きさに関わらず多弁ないけばなになってしまう。「なんぼでも、盛るでー!」「アッピールするでーっ!」と力が入る。
良く見せたいその心理には、2つの中身がある。1つはお客様から好印象を得たいというもの、もう1つは仲間や生徒さんなど同門の士から認められたいというものである。特に同門の目が鬼門だ。ええカッコしぃをしてしまうのだ。……しかし、SNSも厄介だ。やはり素人の目のほうが恐いのである。同門は作品制作のバックグラウンドまで想像してくれるが、素人は何のしがらみもなく情け容赦なく反応するからだ。
本気の本音で迫ると素人からは疎まれる(と思い込んでいる私)。だから、ポーカーフェイスで嘘のつけるいけばなができるようになりたい。
平和 241224
2024/12/24
日本と日本人は平和を享受している。詳しく書くには字数が足りないが、スリランカに旅行して北部へ行こうとしたら、反政府組織「インド・タミールの虎」が爆弾を仕掛けている恐れがあるとして行けなかったし、香港では「雨傘運動」の大規模デモ行進にちょうど行き当たったし、バリでは、私たちをガイドしてくれた人が2年後に爆弾テロの犠牲で亡くなった。ニューヨークやアルセイユでは、そっちの一角は危ないから立ち入るなとガイドに制止されることも多かった。
最近の日本は十分に危なっかしくなってきたとはいえ、20世紀までの日本は、世界的に見て安全な国だったことは広く認められている。
そんな日本で発生し育まれてきた華道、茶道、書道や様々な武道は、対人的に優位に立つことよりも、自分自身の人生を究める側面が強かったと思う。ウクライナやミャンマー、アフガン、パレスチナなどの国や地域では、戦争や紛争に晒されているから、他人との争いをほったらかして自分を究める余裕などないだろう。
いけばなをしていられる環境や境遇に感謝しなくてはなるまいと思うこの頃である。
ピアニッシモ 241223
2024/12/23
私の薄っぺらな音楽知識でも、フォルテとピアノの弾き分けが十分でなければドラマチックにならないことを知っている。それは、学生時代に演劇サークルに所属して、舞台美術だけをやるはずだったのを騙されて、1度だけ舞台に立った経験が教えてくれたからだ。
私は新米の大根役者で、大きい声を出さなければ客席の後ろの隅に届かないだろうと考え、どんなセリフでもフォルテかフォルテシモで応援団のように声を張り上げていた。すると、セクシーな先輩が私の肩に手を掛け、「大事なことは密かにささやくものよ」と私の耳に息を吹きかけるように言った。その後、ささやく小声から大声に切り換えたとき以上に、大声でがなり立てていたのが急に小声になったとき、観客は耳をそばだてて聞こうとしてくれることを理解した。
だからいけばなでも、フォルティッシモからピアニッシモまで表現の幅がある。1つの作品でその幅を表現することは難しいが、いけばな展の会場レイアウトとしては、大作、中作と小作が上手に配置されると、大小、強弱の変化に富んだ音楽的表現に近付けるのではないだろうか。
物真似 241222
2024/12/22
創造性を問題にするとき、物真似は否定されがちだ。しかし、私のいけばなは草月テキストの型を習うところに発して応用に至っているから、相当程度の物真似の上に成り立っている。
また、いろいろな展覧会に行って、他人の制作方法や制作技術に驚いたり悔しがったりすると、帰ってからそのやり方を頭に焼き付け直して、いつかどこかで使ってやるぞと意気込む。この真似事は、物真似というか事真似である。
人間は、たいていのことは親を真似て成長する。学校で先生や先輩を真似て成長する。電車の中で出会った人を真似たり、ペットの犬を真似たり、人によっては犯罪を模倣してしまったりもする。真似をすることなしに創造力だけを高めることはできないというのが、私見である。ただし、成人してからは、自分の考えもなく猿真似をすることは避けたい。自分の意思をしっかり持って真似る対象と内容を選ぶならば、その物真似はとても創造性のあるものになるだろう。
いけばなの場合、なかなか猿真似ができないのは、同じ花を使っても花材ごとの個性が強いため、結局は異なるいけばなになるからだ。