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いけばな随想
diary

環境設計 241229

2024/12/29

 1軒の小間物屋が、山間の村はずれの四ツ辻に建った。それまで村の集落から大きい町まで買い出しに出掛けていた人たちの流れが、そこで時々ひと休みするようになる。小間物屋は、饅頭も売り始めた。人々の流れがその店で滞留することも増えた。そういう店が日本全国にあった。
 ところが、道が拡幅され長距離路線バスが運行するようになり、トンネルが掘られて大きい街に行きやすくなってマイカーを持つ家も増えると、その店で買物するのは腰の曲がったおばあちゃんばかりになってしまった。店は昭和時代の遺物となって、平成の頃にはほとんどなくなってしまった。
 日本全国にまんべんなく分布していた小さな町や村は、令和の時代を迎えてますます小さくしぼみ、店ばかりではなく集落から人が消えてしまった。いまの日本は、大都市と、周辺の比較的大きい町と、あとは荒れた山や海辺の風景から成っている。
 あの1軒の小間物屋は、いけばなという習い事の盛衰を象徴しているように思える。いけばなは、それ自体がひとり独立して生きられるものではない。その周辺環境によって生かされるものだ。

花の時間 241228

2024/12/28

 ある流派のある方が、「いけばなの一瓶に、過去・現在・未来をあしらうのです」と教えてくれた。そういう構想での取組を意識したことがなかったので、とても新鮮な気分がして面白いと思った。
 具体的には、1枚の虫食いの枯れかけた葉を挿したり実ものをあしらって過去を表現し、まだ堅く締まった蕾をいけて未来を感じさせたりする。
 私が草月の諸先輩から習ったのは「枯れても花は美しい」ことで、人間が綺麗な歳の取り方をするのと同様に、花の一生にも各段階の美しさが宿っているというものである。だから、私がいける一瓶の花は、切り取った一定の時間の範囲で異なる花材が過去・現在・未来を表しているのとは違って、花器の中の花たちが時間をかけてそれぞれの一生を過ごしているというイメージだ。言い換えれば、そのいけばなはには「完成の瞬間」はなく、絶え間なく変化し続けて過去・現在・未来を過ごしていく。それが生長であろうと老化であろうと。
 変化することが生きている証であり、いけばなは絵画や彫刻のように時間を凝固させて完成させる表現よりも、音楽や舞台の表現に近い。

詩的な花 241227

2024/12/28

 同じ言葉を使っても、使う意図や使い方が異なると全く違う表現形式となる。例として、電気製品の説明書の表現は、一義的でなければ役に立たない。使用する人が使い方を間違えると、事故につながるからである。説明書に「最初に電源ボタンを押す」と書いてあったら、それ以外の行為を想像してはいけない。しかし、ある詩に「扉を押す」と書いてあったら、それは家の玄関かもしれないし、結婚式場の入場口かもしれないし、実体の見えない“人生の扉”かもしれない。
 つまり、説明書の用語は、いつ誰が読んでも正確に1つの意味を示すが、詩で使われる言葉は多面的にいくつもの意味が考えられるし、同時的・重層的にたくさんの意味を併せ持っているかもしれない。
 そういう見方をすれば、説明的ないけばなは誰が見ても同じように“わかりやすいいけばな”で、詩的ないけばなは人によって捉え方が違えども、それぞれが“感じやすいいけばな”である。
 ジャズシンガーのサラ・ヴォーンは、歌(歌詞)で聴かせるというよりも、声で感じさせる歌い方をするから、英語がわからない誰が聞いても素敵だ。

ネットワーク 241226

2024/12/27

 高度成長期には、ネットワークという言葉を便利に使っていた。人口が増え、仕事の専門分化が進み、会社の業務内容も広がって、営業活動においてネットワークの拡大こそが売上増大の鍵だった。だから、異業種交流会も全盛だった。
 ところが、日本の人口が減少するいま、物流・人流や情報の往来がますます広がり高速化すると、対面の「近い人間関係」は薄まる。全体的には、アルコール度数の高いウイスキーを水で割ってマドラーでグルグル掻き混ぜる状態に似ていて、人間関係社会も掻き混ぜられつつ薄まっていく。
 実際、産直市で買う花は地元産がほぼ全部だが、花屋で買う花の多くは他県産や外国産になってしまいつつある。私がバラを直接買わせていただいていた生産農家さんは、数年前に廃業してサラリーマンになったし、木酢液や竹酢液をくださっていた方も、山に入ることをやめてしまった。
 こうして、私が手に入れたいものは、だんだん遠くのものに頼るしかなくなってきている。さらに地域経済が疲弊していくと、私の購買ネットワークは、目の粗い細い糸で編まれた脆いものになるしかない。

無口ないけばな 241225

2024/12/25

 家の花は、いけばなと呼ぶ必要もないくらい手を抜いたいけ方ができる。構想もなければ評価される心配もない、そこに黙って佇む花たちだ。これを仮に無口ないけばなと呼ぶことにしよう。
 一方、展覧会でいける時は、良く見せたい一心でついつい饒舌ないけばなになってしまう。引き算のいけばなをしたつもりでも、花の数や作品の大きさに関わらず多弁ないけばなになってしまう。「なんぼでも、盛るでー!」「アッピールするでーっ!」と力が入る。
 良く見せたいその心理には、2つの中身がある。1つはお客様から好印象を得たいというもの、もう1つは仲間や生徒さんなど同門の士から認められたいというものである。特に同門の目が鬼門だ。ええカッコしぃをしてしまうのだ。……しかし、SNSも厄介だ。やはり素人の目のほうが恐いのである。同門は作品制作のバックグラウンドまで想像してくれるが、素人は何のしがらみもなく情け容赦なく反応するからだ。
 本気の本音で迫ると素人からは疎まれる(と思い込んでいる私)。だから、ポーカーフェイスで嘘のつけるいけばなができるようになりたい。

講師の事