脱線 241221
2024/12/22
ガマの油売りという大道芸が近頃ほとんど見られなくて残念だが、「さあさあ、お立ち合い!」から始まって、刀で紙を切り刻みながら「1枚が2枚、2枚が4枚……」と群衆の目を引き、紙吹雪を舞わせて喝采を浴びつつ腕に刀傷を負ったフリをして、ガマ油の軟膏でその傷を治す見世物である。薬を直接アピールするのではなく、薬を売る目的に対して考え得る限り遠回りしているとしか思えない脱線ぶりで、結局売ってしまうスゴ技だ。
高額な保険の営業や車の営業などでも、さりげない会話から客の顔色を見ながら販売行為につなげていくが、ガマの油売りの場合は、しょうもない商品の付加価値としていたものが逆転して本来的な価値となり、芸が商品で薬はオマケという具合である。最近人気の観光列車というのも、乗車券の値段よりも車中での飲食代の方が高かったりして、商品価値を付加価値が追い越してしまうような例は枚挙にいとまがない。
中学校や高校の授業で記憶に残っているのは、たいてい先生の話が脱線していたものだし、いけばな教室も脱線すればいいのかどうか、生徒さんには聞けない。
〇〇好み 241220
2024/12/21
草月の花器の裏側に、「蒼風好み」とか「宏」と記されたシリーズがある。初代家元と三代目家元が好んだものであるというしるしだ。
私には自分がつくって他人に使ってもらえるような花器はないので、今後自分が制作して人前に出せるような自分の花器を手にしたいと思っている。これまでも、何度か地元の砥部焼の施設で創作体験をしたことがあって、頭の中には素晴らしい花器の構想があるのだが、成形してみるとイメージとは程遠いものになる。
衣料や小物でも、オリジナルブランドを取り扱う店と、様々な商品を仕入れたセレクトショップとがあることを参考にすれば、花器についても自分で頑張るのもいいが、好きな花器を1つひとつ丁寧に買い集める方が、より質の高いものに囲まれて確いられる率は高いようにも思える。
しかし、花器も花材の一部だという考え、つまり、花を花器にいけるのではなく、花器もいけばなの一部としていけるという考えに基けば、花器も自作である方がより好ましいということである。いずれ「汀州好み」の花器が世に出るかもしれないことを、自分で楽しみにしている。
酒とバラの日々 241219
2024/12/20
年末ジャンボ宝くじを買った。7億円当たったら何する? と昔は具体的にあれこれ考えたものだが、このところ、それも面倒臭くてぼーっと買うだけである。小さい子どもの頃は、何する? ではなく、何買う? しかなかった。で、お年玉をもらったら「科学教材」という店へ行って、星座盤とかミニカメラとか恐竜模型とかを買っていた。
近頃は、買い飽きたというよりも、買った物の方が私の残りの人生よりも長かったら悔しいという思いがして、あまり欲しいものがなくなってきた。
では、何をしようかということになるが、これも体力気力が衰えて、海外へ旅行したいという気分もなくなってきた。美味しいものを食べるにも、丈夫な歯をかなり失ったので昔ほど気が乗らない。じゃあ、何がしたいの? と突き詰めていくと、美味しいウイスキーを飲むことが残った。そして、飲んでいる自分を思い浮かべた時、天の声が聞こえた。
どうせなくなるものであるならば、酒ではなく花を買ったら? 花を買って、花をいけたら? その時、私はひらめいた。そうか、酒とバラを買えばいい! BGMは『酒とバラの日々』。
論文のような花 241218
2024/12/20
共通の文化的伝統を持つ相手には、作品自体が語るものであって、作者が多くを語るべきではないとされる。だから、俳句もいけばなも、作者が多くを語り過ぎると解剖学的に作品を分析して解説するようなものとなって、面白味がなくなる。
絵画は世界的に昔からコミュニケーションツールだったから、その意味で世界共通語を作品自体が話しながら一人歩きできる。ハーバード大学には剣道部はあるが華道部はないようなので、いけばなの魅力や見方を伝えるためには、専門用語の通訳と文化的理解を促進させる通訳の2人が必要だろう。
私の教室にも、愛媛大学留学生の中国人やルーマニア人が来たことがあるが、言語的に理解してもらいたいことと、文化的に(感覚的に)伝えたいことがあった。だから、多くの言葉で語り合うことが必要だった。
そして結果的に、いけばなに設計図を求められたり、論理的な説明(まるで論文)を求められたりした。こちらの文化と相手の文化が違うとき、互いの理解のためには想像力だけでは埋まらないギャップがある。自明のことが自明でないときは、相当やっかいである。
俳句のような花 241217
2024/12/20
日本には俳句がある。短詩型文学は語句が少なく説明的ではないから、分かるものは分かっても、分からないものはてんで分からない。だからといって「それは、どういうことを言ってるんですか?」とは、国民的地位の俳句に対して今さら聞けない。こんにちでは国際俳句も盛んだ。
国際化が進み、日本で暮らすにもグローバルスタンダードに寄り添うか、ダブルスタンダードで乗り切るか覚悟しなければならなくなった。料理のレシピも、「塩少々」とか「しょうゆ適量」では通じない場面がある。
日本人は島国で肌を寄せ合って生きてきて、「多くを言わんでも分かり合う」ことが当然の美徳である。分かり合っている部分がどれくらいあって、分かり合えてない部分がどれくらいあるのか、それを問題にすることも控えてきた。ところが、いけばな展の会場では、感じようとせず、ただ理解しようするものだから、不思議な物でも見るように首をかしげる人が少なくない。
いけばなも、短詩型文学のように引き算を徹底すると、1本の線で広い空間を表現しようとする世界に至る。そこには、もう何も説明はない。