美味しいもの・美しいもの 250530
2025/6/1
草月流の会議で久しぶりの草月会館である。会議が夕方まで続くから、泊まるホテルも近郊だ。そこで、飲む店も赤坂見附界隈が多い。
3年前に、開高健さんが常連だったバー「Kokage」に出会ってから、毎年1晩だけお邪魔する。今年は混んでいたのがウマいタイミングで席が空き、開高健さんがいつも座った場所が初めて私に巡ってきた。お隣の人が葉巻を嗜んでおられたので、私も何年振りかで小さな葉巻のシガリロを注文。ぐはぁ、美味かった!
美味いかどうかは、個人的な感覚として必ず評価を下せる。不思議なことに、食べて10分も経ってから「ああ、美味かった」ということはないし、逆に、テレビ番組の試食レポートのように、味わい尽くす前に0秒で「美味い」と言わなければならないレポーターなどは、これもまたやり過ぎである。
草月会館の和室には、いけばなが飾られていた。美しいという感覚を目で消化するのに2秒、頭で消化するのに10秒くらい、「うん、うん、うん。」と改めて腹で消化するのに3分くらいかかっただろうか。芸術は食べ物より繊維質なのか、消化には若干時間がかかる。
教育者より育成者 250529
2025/5/29
親が子に教えることに、私は疑問を挟まない。しかし授業料をいただいて職業的に教えることには、神経質になってしまう。もちろん割り切ったこともある。教員が教えないで何するのだと、専門学校で18年教員をしながら自分自身を納得させていた。
私はフラワーデザインも少し齧ったし、いけばなも多少齧った。問題は今も齧り続けている途上だから、齧り方の早い生徒さんには追い越されてしまうという、当然の事態をどう受け止めるかということである。いけばなも習い事である以上、教える側と習う側に立場が分かれるけれど、教える量は日々減っていくのだろうと弱気になる。
オリンピックやワールドカップで、さまざまな競技の選手たちが、コーチや監督の記録を次々と塗り替えていく。教えるというのは習う人の上に立つことではないとわかっていても、彼らも先人としての義理だけではない技能を磨く必要はあるだろう。
昨日の稽古でありがたいことがあった。1人の生徒さんを教えている際に、別の生徒さんが私も気付かないことを指摘してくれた。教育は育成だという意義を、そこに発見できた。
感動を忘れたかも 250528
2025/5/28
不幸せが続いたあとの幸せは、心が風船のように膨らんでどこまでも風に乗っていくようだ。あまり高く上がり過ぎると破裂してしまうことがある。バンジー・ジャンプは高低差が大きいから正気を失うほどだし、落ちる滝は落差が大きく水量が多いほど衝撃も大きい。
子どもの頃、見るもの聞くものすべてが初めて尽くしで、何でも夢中になれた。ドン・コサック合唱団の踊りをみんなで真似したり、アントニオ猪木のコブラ・ツイストを兄弟で掛け合ったりもした。
青年になり初めて上京してからのハイテンションは、数年間続いた。初めて海外旅行に行ったときも、興奮冷めやらぬまま数週間は感動が続いた。その感動の持続時間が、年齢と共に短くなってきたように思えるのだ。逆に、やるせなさや怒りが長く続いて困る。そしてついに、最近は感動が、ない。
その理由は2つ考えられる。1つは、世の中がつまらなくなったこと。もう1つは、私の五感全部が“耳が遠い”という状態になったこと。または、その両方かもしれない。いけばなも、出会った頃がいちばん可愛かった。今では愛のない家族みたいだ?
初心者の恐さ 250527
2025/5/27
1960年生まれの私の青少年期に、コンビニエンス・ストアが登場したとされている。だから私の人生はその発達史とともにある。
東京で大学生をしていた私は、随分とセブン・イレブンにお世話になった。20代中盤から松山で暮らし始めて、ナイトショップ「さくら」とか「いしづち」にお世話になり、そのお陰をもって夜型人間になってしまった。コンビニエンスな環境は人間をダメにすると当時から薄々感じていて、現在は全くその通りだと力説したい。
つまり、便利が大きくなると、努力や工夫が小さくなる。努力や工夫が小さくなると、大技が出せない体質になる。「欽ちゃんの仮装大賞」が面白いのは、専門家でも芸人でもない普通の人が、その人の全知全能と全体力を賭けて圧倒的な非効率さでプレゼンテーションするところにある。業界人であればもっと効率的で効果的な演出が可能かもしれないけれど、それを知らない人間が前時代的とも取れるくらい無理をして工夫を凝らす姿には、誰もが感動する。
いけばなも、手慣れた人の作品は想定内に収まるので、初心者の頑張りに勝てないことは多い。
つくりものの花 250526
2025/5/26
つくりものには、いいものと良くないものとがある。同じ“つくりもの”でも、絵画の原画は本物と呼ばれて肯定されるが、大塚国際美術館の陶板による複製名画は偽物と否定されもする。生花でつくり上げたいけばなはいいが、工業製品の造花を使ういけばなはよくない。それでは、プリザーブドフラワーという“加工生花”、これは偽物なのだろうか?
いけばなでは、もともと「枯れもの」や「晒しもの(漂白花材)」、「着色花材」なども使われてきた。これらも、昔の華道家にとっては偽物だったかもしれない。私の思うところでは、本物と偽物の境界は高尚さで線引きされた。
ところがアートの世界では、アンディ・ウォーホールの作品(マリリン・モンローやキャンベル・トマトスープのプリントなど)には、高尚さは感じられない。むしろ威張り腐った高尚さを否定している。ずっと前から、キッチュさも芸術の価値の一端を担ってきたのだ。
さて、視野を空間に拡げてみる。部屋から建物へ。建物から都市へ。そこは既に高尚さとは無縁の、ビジョンも計画もない、造花が似合う俗生活のハリボテ空間だ。