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いけばな随想
diary

花材の優劣 250324

2025/3/27

 絵描きが使う絵具の色は多い。さらに絵具と絵具を混ぜて無限の色を紡ぎ出す。赤の方が青よりも好きだという好みが彼にあったとしても、赤は7点で青は4点という価値の優劣はつけない。黄も紫も白も、彼にはあらゆる色が必要だからである。
 私も花の好みはある。好き嫌いを言うならば、寂しげに揺れるポピーや夏の終わりを感じさせる曇天の河原のコスモスなどはとても心惹かれる。しかし、いけばな花材としてはアセビやナツハゼなどの枝ものが好きだ。
 いけばなでは目の前の「この花」を使うことができても、「この花」と「その花」とを混ぜ合わせて新しい「あんな花」はつくり出せない。入手した花材たちの色を点描のように置くことしかできない(ガラス容器に花びらだけを何千枚も入れて押し潰した、前衛的な作品をつくる人もいるにはいるが)。
 そのように絵具に比べて制約はあるにしても、いけばなの花材も使い方次第で無限のバリエーションをつくれる。そのとき、たとえばタンポポは難易度の高い花材だが、だからダメだということはないし、ネジバナのようなのは貧相だということもない。

道楽 250323

2025/3/26

 好きな道を大いに楽しんで歩く状態を道楽と言い、何かを犠牲にしながら自分の楽しみに没頭できる人を道楽者と呼ぶ。趣味は他人や家族が認めてあげられる範疇にあっても、道楽は周囲の人々を悩ませたり自身の生活が破綻したりするくらい、のめり込みが激しい。
 食道楽は美食の食べ歩きによって身体を壊す。着道楽は一生かかっても履き切れない数のパンツや靴を持っている。そうして、茶道楽や映画道楽、ピアノ道楽などがあって、ついには花道楽へと向かうのであった。
 花道楽は花三昧という贅沢病に陥りやすい。美味い食べ物を体験してしまうと口が驕り、もう元の口には戻れないというのと同じで、値段の高い花はそれなりに綺麗なので安い花ではもう満足できなくなるという病気である。こうなると、いつも高価な服を着ていないと恥ずかしくて人前に出られないという病状に近く、いけばな展においても立派な花を使うことで作品の価値をアピールすることになる。
 しかしそれでは、高額な花を仕入れられる立場にあるという自慢でしかない。いけばな作家としての腕前を披露したことにはならない。

断捨離 250322

2025/3/25

 日本人の「もったいない」感覚は、賛否はあるにしても広く共有されてきた。しかし、その癖と感覚は、近年では「断捨離」にその座を追い落とされた感がある。
 今日は華展のいけこみだった。デルフィニウムの青い花をぎゅっとボリュームを出して使いたかったので、1本の長い茎の枝分かれ部分を一旦切り離してから長さを揃えて束ね直す。切り離した茎の部分によっては、白っぽいままのつぼみばかりで青い花が付いていない。その部分は作品に使わないので捨てる。言い訳すると、それらの茎はまだ十分に生長していないから、短過ぎて使えない。家だったなら小さな1本も大事にするんだけどなあと気持ちを慰めて、古新聞にくるんで捨てる。
 さて、料理が上手な人は食材を余すところなく使う。しかも、全部おいしく仕上げてしまう。何も捨てずに価値あるものにしてしまうのが面目躍如たるプロの技だ。
 押入れ一杯に溜め込んだ新聞折り込みチラシというのは昔よく見た風景で、それを折って屑入れを作り、こたつの上に置いて蜜柑の皮入れに使ったりしていた。風景としては微笑ましいが、ダサかった。

入口はカンタン 250321

2025/3/21

 やり始めは何でも簡単だ。周りの人の協力や的確なアドバイスをいただいて、思ったよりもうまくできる。しばらくやっているうちは、ひょっとして自分には適性があるんじゃないかと自惚れたりもする。自惚れることは結構大事で、それによって継続する意欲が湧く。周りのおだてもあって、ますます入り込むという流れができる。
 そうやって私はいけばなを続けた。まともな人は3ヶ月もすれば少し躓くことも出てきたり上手くいかない苛立ちを覚えるものだが、私は2年以上スランプがなかったように思う。反省しない猫のようだ。
 それでも3年くらい経つと、他人の作品の意図が見えるようになり、自分の作品が単に手遊びに過ぎないと感じられるまでに成長した。どのように花をいけても下作に見えてしまった。それで、いけばなというよりオブジェと呼んだ方がいい作品に逃げたりもした。手を抜く気持ちは全くなかったのに、私が手を抜いたかのような批評を聞くこともあった。
 こうして修行を重ねるうちにまた新しいステージの修行道場が現れ、紆余曲折しながらその人生ゲームのコマを1つ進めるのだ。

体で覚える 250320

2025/3/20

 人は過去に学んだり体験したことの積み重ねによって物事を素早く判断する力を身に着けるが、その素早さでもってしても間に合わない事態があるから、「頭で覚えるな、体で覚えろ」とよく言われてきた。
 世の中には素早さの何倍も素早く、反射的な対応が求められることがある。少年時にやっていたサッカーの試合でも、常に局面がコロコロ変わるし、チームメイトとの意思疎通も時に俊敏な敵の対応によって崩された。大人になって車を運転しているときなどもそうだ。高速で走っているとき障害物を避けようとする動作は、勘といってもいいくらい直感的な筋肉の動きで行われる。
 このように命に係わる判断力は、やはり頭から出てくるというよりは体から出てくる。頭でデータや経験則を検索する余裕はない。
 そういうことは、瞬発力が要求される場面だけでなく、いけばなでは花材との関係において重要だ。個々に違いはあっても、梅の枝は一般的に曲げやすい。しかし、曲げ方を失敗すると折れる。折れかけていても折れてしまわないというギリギリを攻められるのは、やはり体験の量で体が覚えたからだ。

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