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いけばな随想
diary

出し惜しみ 250826

2025/8/27

 知っていることを全部言うのは、不可能ではないかもしれない。ただ、その状況を想像すると、まず聞いてくれる相手の集中力が続かず、分かりにくい話を延々と聞かされることに対して拒否反応が生じるだろう。100を伝えようとした結果、聞く姿勢を得ることなく1すらも伝えられずに終わってしまう。
 そして冷静に考えると、私が五感を総動員して知り得た情報や体験を喋りだけで展開すると、おそらく実体験の2倍以上の説明時間がかかってしまい、一生を費やしても全てを語り尽くすことが出来ないことに絶望するだろう。
 さて、相手の理解力に応じた説明の重要性である。先日、少年少女向けの文化体験の講習があり、いけばな体験をお手伝いした。最年少は3歳児。何を説明しても始まらないことは自明である。こんなとき、できることは楽しんでもらうことだけだ。これが5歳であっても10歳であっても、50歳であったとしても、初めての人が相手の場合は、説明が過ぎると相手が引いてしまう。
 私はいつも、出し惜しみしているわけではないのである。説明はいつも、足りないくらいが丁度いい。

遊び人になりたい 250825

2025/8/27

 私がいけばなをやっている深い意味は、自分にもよくわからない。「遊びだよ、遊び」と言ってしまうと、一人遊びに逃げているみたいで、いけばなを一緒にやっている人の一部から無責任極まりないとヒンシュクを買ってしまいかねない。
 私自身が楽しんでいることは否定できないし、自分のためでもあるということは間違いない。ただ、はじめは楽しく一人遊びをしていたものが、だんだん一人ではなくなってきて、ついには、花が私に奉仕するのではなく私がいけばなに奉仕しているような感覚になることも出てきた。
 さて、仕事ということになると、必ず責任が問われる。使命感とか、役割とか、目標とか、ワーク・ライフ・バランスとか、コンプライアンスとか、利益とか、チーム力とか、いろいろな角度から見てみなくてはならない。
 だいたい、ホンモノの芸術家は、昔から実生活が苦手だった。日本のムラ社会では、バクチ打ちや遊び人も非適合者でしかなかった。それでも半分隠居の身の私は、「遊びだよ」と言って、実生活適合者をケムに巻いてやりたい気持ちが漏れ出してしまうことがよくあるのだ。

「ない」と「あった」 250824

2025/8/26

 幽霊には足がない。着物の裾に向かって描線が消えていくので、足はあったのかなかったのか想像しにくいが、多分はじめからなかったのではなく、あった足がなくなったのだと思う。
 いけばなで枝ぶりを整えていく作業は、不用な小枝を切り落とすことで、残した枝を強調する目的がある。そして、その切り落とし方で、いけばなの印象が大きく変わるくらいだ。
 ここに1本の桜の枝があるとする。根元に近い方から枝先に向けて、Y字の形だ。Y字の枝分かれ部分で太い方の枝を残し、細い方を切り落とすとする。そのとき、枝の根元からスッパリ切り落とすか、それともY字の残像を残すように根元を3cm切り残すか、それによって印象が大きく異なる。スッパリ切り落とした場合、その箇所に枝があったと想像させる印しが見当たらないから、切った枝は初めからなかったような印象になる。3cm切り残した場合は、切り残した枝の先に伸びた枝があったという気配が残る。
 つまり、「そこに枝はない」という意図で切るか、「そこに枝はあった」と見せるのか、制作者の意識が1点に凝縮される重要部位なのだ。

ほっと、ハッと 250823

2025/8/23

 いけばなだけが人生ではなく、いけばなを通した人生というのもある。いけばなから出発して考える人生と、人生から出発して考えるいけばなもあるように思う。
 100m走をスタートから追いかけて眺めるか、100m走をゴールから巻き戻して見るかと考え、さて走る本人にしてみればスタート地点では思いきりゴールが見えているが、ゴール地点ではスタートのことをほとんど忘れ去っていると想像できる。
 一方、いけばなを始めたときに、いけばなをする自分のゴールは何も見えなかった。いま、いけばなのスタートを振り返ると、その時の光景をはっきり思い出せるが、100m走のケースと全く逆にゴールの景色は霞んでいく一方である。あーらら、この行き当たりばったりの刹那的な生き方よ!
 刹那刹那で考えることは移ろいやすく、この数日のあいだは、「ほっとする」はなをいけたいとも思うし、「ハッとさせる」はなをいけたいとも思っている。基本的には、見た人の心が落ち着き安らげるはなをいけたくて、でも同時に、見たことのないはなの様子にハッとして、改めて見入ってもらいたくもある。

植物と人間 250822

2025/8/22

 植物との対話は、人間である自分のペースで回していける。庭木は、枝が伸び過ぎたり病気にかかったりもするので、放っておけなくて急いで対処しなくてはならないこともありはする。だけど、さあ、すぐに取り掛かりなさい、さあ、明日までに頼みますよ、という慌ただしさはないから助かる。
 切り花の場合は、鮮度の問題があるから急ぎ気味で取り掛かる。とはいえ丸1日は待ってもらえる。水替えや切り戻しを前提にすれば、もうちょっとちょっと待ってもらえる。
 けさ知人からの電話があって、ある人に連絡を入れて欲しいと言う。感覚的に、それは今日中にやった方がいい案件だ。私の苦手とするところは、人の気持ちにも鮮度があるということに付き合わなくてはならないことだ。生身の人間の気持ちの鮮度は、植物のように徐々に枯れたり腐ったりというのではなく、ある臨界点でストンと落ちる。人間の気持ちは、いつも断崖絶壁に直面していて、落ち始めた気持ちはもう助け上げることができない。
 自分の気持ちを切り換えて、何かが終わらないよう5~6時間の内には電話をしなければなるまい。

講師の事