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いけばな随想
diary

出来事 241116

2024/11/16

 人と交わらず1人で暮らすとすれば、出来事(ドラマ)があまり起こらないのではないかという気がする。出来事は、文字通り何かが出来上がる事だが、たとえば、私が1人でいけばなを制作して出来上がったとしても、それを出来事とは呼ばない。それはせいぜい、出来上がった物で“出来物”でしかない。
 ということは、私の行動が出来事になるためには、私がやっていることに対して、私以外の力が1つ以上加わって、偶発的要素を伴って出来上がる事が必要なのである。何者かを加えた共同作業を行うことで、出来事は起こるべくして起こるのだ。
 ということは、人生をドラマチックなものにしたければ、誰彼構わずたくさんの人と交わることだ。そのドラマが、悲劇になるか喜劇になるか、あるいは静かな安らぎの物語になるか、当たるも八卦である。しかし、花のちからを借りた出来事は、たいてい前向きになれる明るい生命力を宿している。
 いけばなは、偶発性が高いのが魅力である。師弟間の仕掛け合いの妙と、花材の偶然的な性質による挑戦的な態度によって、いけばなはドラマチックな出来事になる。

社中とは 241115

2024/11/15

 ソサエティである。結社とか仲間というくらいのもので、社会というほどの大きさを持っていない。また、会社とか町内会のように、定款や規約というような制度化したものでもない。あるとすれば、一般常識の範囲でのタブーくらいか。
 草月流でいうと、1人の共通の先生のもとに集まった人のグループを社中と呼んでいる。そして、私がそこに求めようとしているのは、よそよそしい規律社会ではなく、緩く解放された小さな田舎の駅の待合室みたいな場所だ。人々は、その駅から電車に乗って先の駅へ向かう。終着駅を目指す人もいれば2つ先の駅で降りる人もいる。乗換駅で都会への路線に向かう人もいるし、山へのバスに乗り換える人もいる。
 雪の日は、その待合室の土間にはストーブが焚かれる。顔見知り同士が、長椅子に腰かけて水筒の冷めかけたぬるい茶を分け合ったりする。私はさしずめ駅長であるが、運転士と入れ替わることもある。安全運行を心掛けながら、乗客がうとうと居眠りしている隙に、銀河鉄道のように空を走らせることもある。
 乗客は、それが夢だったのか現実だったのかわからない。

心得 241114

2024/11/14

 業務上であれば他社を訪問する際の心得とか、お茶席では菓子のいただき方の心得などが求められる。いけばな展に出品する際の心得もあり、そのすべてが一般常識に適っているかというとそうでもない。すべてが一般常識と異なっていると大変なことだし、すべてが同じだったらつまらない。また、教える人によって若干の違いもあるから、習うほうはいずれにしても大変である。
 私は生意気だったので、先生の言われることの半分は聞き流していた。轍を踏み外さずできるだけ自己流で許される道筋をつけたかったし、押えるべきことは何かということを常に考えていた。
 さて、いけばな展である。展覧会に出す作品は趣向を凝らすよう心得るべし、というところへ行き着いた。自分の作品がシリーズとして継続されるものだとしても、毎度面白くなければ始まらない。自分自身も面白がっているかどうかが、作品に大きく影響する。
 丹念に準備すること。これが心得の2つ目だ。細部に油断がなければ、見る人を心配させないで済む。いらないことに気を揉ませず、安心して見ることができたら、面白さは倍加する。

惰性と伝統 241113

2024/11/13

 世の中には、私を縛るものがたくさんある。法律や社会制度、慣習や伝統、マナーや世間体など、これらは無意識に惰性で過ごしているうちは味方なのに、意識すればするほど自分に敵対してくる。
 アメリカ合衆国の次期大統領がドナルド・トランプに決まった。意識的につくられた法律や制度も、無意識的に引き継がれてきた慣習や伝統も、再び大きく変わりそうだ。暗黙の了解という類のものも、ますます排除されていくだろう。言った者勝ち、やった者勝ちの傾向が強くなり、合衆国も相対的に強くなる。
 さて、国際化が進むと、物の見方や感じ方も違ってくる。ジャパン・スタンダードがますますグローバル・スタンダードに取って代わられる。華道や弓道のような、目に見えている結果以上に目に見えない精神性を重視する世界は、既にジャパン・スタンダードですらなくなっているから、現代の自由が伝統の作法を凌駕してしまうのは仕方のないことかもしれない。
 いけばなに限っても共通の感じ方や共通の美意識は打ち破られており、責任の一端を草月が担ってきた。前衛のいけばなと呼ばれた所以である。

狂気 241112

2024/11/12

 映画『テルマ&ルイーズ』のラストシーンは、悲愴だけど至福でもある。
 年齢的に人生のほぼ全体を見渡すことができるようになった今、人生を客観的に冷静に分析する虚しさよりも、主観的に感動をもって見直したいと思う。感動は特別なことの日常に対する落差の大きさによって生まれるので、同じ体験をしても日常の基準が違えば感動の大きさも人によって違う。祭りの興奮や高揚感、人の死に面した喪失感や墜落感、卑怯者に対する怒りや蔑みなど、人には喜怒哀楽の感情が備わっている。そのどこまでをAIが勉強していけるかわからないけれど、その感情が臨界点を超えて狂気や開き直りに至る可能性を常に抱えている点については、AIが追い縋れない生身の人間の独壇場ではないだろうか。
 その点、植物界にも何かしら不思議な能力を感じることがある。先日、庭の金木犀が咲いたあと一度完全に散って、1週間後に再び満開になった。自然界の法則を無視した狂い咲きだと思った。
 常識や規則が有効な世間で普通人として過ごすためにも、時折狂い咲きするような妄想や行動に走ってみることは大事だ。

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