換骨奪胎 250728
2025/7/31
先日は、枝葉末節にこだわる日本人気質に言及した。そういう日本人が突き詰めてきたものだから、華道も茶道も相当に細やかである。ところが、自分自身を振り返りお弟子さんたちの経緯を振り返ると、確かに枝先の重要性は高いものの、作風の幅を広げるためには十分でない。
どんなに時間を使い労力を注ぎ込んでも、細部のマイナーチェンジではその努力が報われないのだ。最少の努力で最大の効果を上げるためには、換骨奪胎の意思が必要だ。新しい表現ができるようになるためには、新しい人間にならなくてはならないのだ。
言うは易く行うは難し。しかし、そこを切り開いていくのが草月の本懐である。他人の作品を真似るのは、稽古としては正しい道だと思うけれど、それを展覧会でやるのは避けたい。また、自分の過去の作品を踏襲するのも手の技を究めるには適切かもしれないが、同じ表現をすることは自ら成長を止めることになる。
人はラクな方へ引っ張られる生き物だから、無理をして新しい自分に入れ替えていかないと、新しい表現はできない。新しい表現をしないと、新しい人間にもなれない。
外国語いけばな 250727
2025/7/31
外国人へのいけばなの体験機会を、何度か提供してきた。語学力のなさを痛感しながらも身に付けようとまでは思わないのは、年齢ゆえのことである。そんな言い訳をすると、みんなから言い訳自体をばかにされる。
それはともかく外国人は、私の発する単語と身振りからあれこれ連想を広げてくれるから、実はやりやすいとも感じている。
日本人に対しては、どうしてもそこに油断が生じ、説明が大雑把になりがちだ。相手は私の言葉を全部わかってくれるだろうという甘えた前提でいるから、つい観念的な言葉も使ってしまう。聞く方も、日本人同士だから体裁を気にして、わかっていなくてもわかった顏をして、掘り下げた意味を質問せずに流してしまう。こちらは、専門用語も噛みくだかないまま喋ってしまうし、相手も、賢そうな表情でフンフンと理解したふりをする。
このように比べてみると、語彙力や語学力の問題ではなく、想像力や互いに理解し合おうとする熱意の方が、いけばなに対する理解も断然早くなるという気がする。みんな互いに外国人だと思う方が、コミュニケーションが進展しそうだ。
過剰な花 250726
2025/7/31
「過剰」というのは、説明できないくらいやっちまってるという感嘆の言葉だ。
今度いけばな体験の方が来るので、準備を怠りなくやろうとしている。教室に使う部屋の掃除と片付け、使う道具の手入れと準備、使う花材のリストアップ、教える型とデモのシミュレーション。一段落したので、初代家元から四代目家元までの作品を写真で見てもらおうと思い、イメージが広がるようなラインナップで選び始めた。
ところが、幅広く見せたいと思えば思うほど、常識的な範囲をいい意味で逸脱している作例が多く、それを見せてしまったらテキストの第1項に頭を切り換えることができるかどうか、不安が大きくなってきたのだった。テキストの第1項あたりは「型」が設計図のように示されているので、見よう見まねで自動的にいい作品ができあがる。
さて、型の名残があるという点で、型破りというのはまだおとなしい。しかし、歴代家元の作品群には、とんでもなく過剰ないけばながゴロゴロしている。全く隙間がない、植物が見当たらない、老眼でははっきり見えないくらい小さい等々。見せない方がいいかな。
暗いいけばな 250725
2025/7/28
芸術の世界では、おどろおどろしい絵や抑鬱されたような重く暗い絵も、それが狂気的な絵でも、傑作は傑作として歴史的に長くそして世界的に広く支持されてきた。名画のテーマは、「喜」「楽」「快」「生」だけでなく、「怒」「哀」「悲」「死」なども同じくらいの割合で存在する。
絵として描かれた人間らしさは、見かけの美醜に惑わされることなく評価され受け入れられるにも関わらず、なぜか人間そのものに対する評価は偏ってくる。見かけの第一印象で人間性まで決め付けられることも多いから、油断ならない。可愛いヒロインは受け入れられやすく、コワモテの悪役は子どもは大泣きするし、大人まで一緒になって嫌うのである。
いけばなは芸術に近いと私は思っていたが、世間はそうでもないようで、カワイイいけばなの好感度がどうしても高い。いけばなは芸術よりも人間に近いのか、暗い表情をしていては振り向いてもらえないようなのだ。
それでなおさら、私は怖いようないけばなをしてみたい。オーブリー・ビアズレーのモノクロのペン画のような、宵闇を連れてきそうな耽美的ないけばなだ。
好き嫌い 250724
2025/7/28
真偽や善悪ではなく、美醜でもなく、好き嫌い。
せちがらい現代社会に暮らしながら、正面切って「真善美を追求しています」と公言するのは、あまりにも現実離れしていてキョトンとされるに違いない。そういう漠然とした予感があるから、選挙においても差し障りのない議論レベルに落として立候補するし、投票する。政治とはそういうものだと、ぼんやり諦めている(悲観しているのではない)。
人が表現するという点で、芸術においても、漫画の世界においても同様である。ピカソの『ゲルニカ』や中沢啓治の『はだしのゲン』のように、社会に対する真摯な思いを真っすぐに表現すると、賛同もあれば嫌悪や無視も起こる。しかし、それこそが一流の表現者の表現だ。
二流の表現者である私は、衝突を招きかねない表現をするだけの気概も勇気も足りていないから、問題意識を薄めて、好き嫌いの範疇でやんわりと表現してしまう。作品に対する最初の観客でもある自分が、自身の不甲斐なさに少し腹を立て、少し反省してお茶を濁す。
まずは好き嫌いを越えたいと思う自分に正直に、はみだしてみたいものだ。