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いけばな随想
diary

距離感 241207

2024/12/7

 人間関係の距離は、ときに近しい人と遠くなったり、遠い人と急速に近くなったりする。趣味が同じ人同士の場合は、特にその現象が起こりやすい。
 趣味が同じということで、その技術や知識が狭い範囲で重なっているため、ちょっとしたことに差異を見出してしまうから、普段は仲良くしていても、ひょんなことで対立したり対決したりすることもなくはない。また、異なる芸術分野で活動していたらいたで、いけばなをする人が書に手を出すと嫌悪感を示したりプレッシャーをかけたりするような書家もいる。
 しかし、私は向う見ずに何にでも手を出すタイプで自信家でもあるから「まあ、何とかうまくいくんじゃね?」という姿勢だ。意見が食い違う華道家よりも、意見に重なりがありそうな音楽家の方が、自分との近さを感じる。門外漢だとしても、感覚(センス)が近い人にはとても親近感を覚える。
 音楽に限らず、書道や絵画や、または医学や宗教やお笑いでも、表現するときに拠り所にしているもの(それは制作以前の思いや姿勢)を理解し合えると感じるとき、その人との距離感が限りなくゼロに近付く。

共通言語 241206

2024/12/6

 人間は、言葉でコミュニケーションできる……はずである。しかし、感覚的に相容れない者同士のとき、人間同士であっても全く言葉が通じない。
 いけばなの世界でも、他のジャンルでも、それに対する思い入れがない人にはいくら語っても通じないものだ。「だから諦めなさい」と言われても、やはり自分が好きなことに関しては、できれば少しでも多くの人に受け入れられたいと思って、言葉で語り続けてしまう。
 昨日「石丸繁子書道展」で、揮毫のパフォーマンスを鑑賞した。お昼の2時スタートで、BGMは『夜のタンゴ』。いろいろ試して、「この曲でしかありえなかった」との本人談。2分半くらいのその曲に合わせて揮毫していく様に見とれていると、とてもそんな短時間だったとは思えない充実度だった。
 今日、テレビで言語学者(?)が語っていたのは、音楽が鳴ると人が踊りたくなるのは、人が言葉をしゃべる生き物であるからだという。赤ちゃんが言葉を覚えるときもリズムを伴って覚えるように、言語は身体感覚を伴うらしい。その逆として、身振り(ダンス)は共通言語になりうるのであった。

ハイブリッド着物 241205

2024/12/6

 先日ラジオに、ハイブリッド着物の製造販売業者が登場した。聞き手のアナウンサーは、着物ならば着物の伝統を引き継いだ何かがあるでしょうという前提で話を始めたが、話し手の業者は、和装と洋装をハイブリッドしたハイブリッド着物は、「もはやハイブリッドの着物ではなく」、伝統的な和装の着物とは全く異なるジャンルなのだと返していた。
 このやりとりを聞いて、私は即座に華道界のことに置き換えてみた。伝統的な華道と「いけばな」と呼ばれるものとは、全く別のジャンルになってしまっているのだろうか? いろいろ調べても、納得のいく答えはない。
 しかし、「場にいける」「いけたら花は人になる」という立場の草月は、華道であるとかいけばなであるとかいう狭い境界を跳び越えて、芸術全般とのハイブリッドが既になされている。草月は、華道と呼ばれてもいけばなと言われても一向に意に介さないのは、どちらでもあって、しかもどちらをも含みこんだハイブリッドだからなのだ。
 ハイブリッド着物は着物を拒否しても、ハイブリッドいけばな=草月は、ハナから何もかもを抱き込んでいる。

気配と気配り 241204

2024/12/4

 気は空気の気、気持ちの気。人はいつも気が沈んだり晴れたり、気が付いたり付かなかったりして過ごしている。
 気配というのは場の空気で、いけばなをいける空間の性質だ。私はそれに気配りして、それを殺さないよう気に掛け、それに寄り添うよう気を付けていけばなをいける。気の利いたものにしようと、ずっと気を使うわけだ。
 時にはいけばなを主役にしたくなって、場の空気を乱すような、変容させるような花を仕立てることもある。気を引くいけばなであり、気を持たせるいけばなであり、気ままないけばなである。やり過ぎたら、元の空間に対して気後れしてしまう。空間を彩るはずだったいけばなが、空間を従えるような振る舞いをすることになり、主客転倒甚だしいと後ろ指をさされる。
 しかし、昔から芸術活動は(既成の価値を転倒させる)気ちがいのなせるわざでもあるので、作家は悠々としていて構わない。ただ、普通の人間は、気配を察して他者への気配りを怠らず楚々といけばなに向かうことが、気が病まない秘訣である。「草月流エロスを求めて」活動するプランを、きょう社中で練った。

通訳の難しさ 241203

2024/12/3

 通訳の仕事は大変だ。外国人同士の会話は、言葉としては成立しても、当人同士にも通訳者にも割り切れない違和感が少し残る。背景となる歴史文化が異なるためだ。子どものとき愛媛県内の南予の祖母に預けられ、方言が違うことでずっと居心地悪く、自分が異邦人であるような感覚だった。
 いけばな用語で、枝を曲げることを「矯(撓)める(ためる)」と言う。矯の字は、曲がったものや悪いものを改めて真っすぐにする意味を持つが、いけばなでは真っすぐな枝をわざわざ曲げることを指す。
 しかも折り矯めと呼ぶ技術は、小枝を両手で持ってミシミシと音が鳴るまで力を加え、枝の半分を無理に折って曲げる強攻策である。プロレスだったら、相手選手は再起不能となるはずの掟破りのスゴ技である。でも、いけばなをしている者にとっては、そんなこと日常茶飯事の「当たり前田のクラッカー」で、技に数えない。
 つまり、人は同じ言葉を使っていても、置かれている環境によって異なる意味でその言葉を使っているから、コミュニケーションを成り立たせるには、十分な説明か通訳者が必要だというわけだ。

講師の事