木を見て森を見ず 250515
2025/5/15
花が「いけばな」になるというのは、花という植物存在から、作品という意思のかたまりになるということ。初めに花としてただそこにいて、人の気持ちなど何も込められていない状態から、いけばなになった途端に花そのものの存在が消えて、「私」の意思で形づくられた「私」の分身がそこに出現するのだ。
いけばなを見る側の人に強く求めることはしないとしても、いけばなは花を1本、2本、3本……と足し算したものではなくて、掛け算によって花ではない新しい何かが表されていると知っていただけると幸いだ。花を足し算で見る見方は「木を見て森を見ず」という見方で、木を何十本も足したところで森の全貌は見えてこない。
ただ、いけばなの場合は引き算をしていることもあるから、裏事情は単純ではない。
制作過程で一旦は森をつくっておきながら、どんどん伐採していって開墾された大地に一本松が残った、みたいないけばなもある。初めから立っていた松と同じ松に見えたとしても、周りの松が消失することによって、それは例えば祈念の対象の松として新しく意味づけされて変身しているのだ。
裏切者の花 250514
2025/5/14
私は裏切者である。いけばなの師匠をしていながら、いっぱしの花鋏を使っていないし、あまり研がない。いけばな教室で用意する花材は、できるだけ安く買い求める。
自慢できるのは、教室で時々提供するのは最高級の金平糖だったり、しれっと置いているアート作品は作家から直接買ったもので、かなりのお金を使っている。BGMもサブスク配信ではなく、全曲が購入したCDかレコード盤から厳選してダビングした曲をかけている。18歳頃から売買を繰り返してきたコレクションなので、かなりの手間暇をかけている。
以前、好きな花はヒナゲシだと書いたが、本当は特別に好きな花はない。いけばな展の時ですら、あらかじめ使いたい花があったりはしない。とにかく花への思い入れがあまりないのだ。だから私のいけばなは裏切者の花なのである。
小松要というフレンチのシェフはいつも、野菜や魚を地元の生産者1人1人に「なんかいいのがあったら持って来て」と発注した。で、やってきた食材たちを眺めながら、その日お客さんに振る舞うディナーの献立をつくった。そんな彼に私は惚れて毒された。
理由 250513
2025/5/13
久しぶりに観た映画『リンダ リンダ リンダ』に、「きみに会いたいから、ぼくは学校に来ている」というクサい台詞を一生懸命相手に発しているシーンがあって、思わず胸が踊った。私はあの頃、何か理由を持って学校に通っていただろうか。思い当たる節はたくさんある。恋愛がらみの恥ずかしい理由と、行き当たりばったりに出現する楽しいことに出会えそうな予感とである。
いけばなを続けていられる理由も、どうやらこの「予感」にある気がする。この感覚はジャズを聴くときにも味わうもので、知っている曲なのに意外性が出現する愉しさだ。高校生活はまさに、毎日が同じような繰り返しみたいに思えても必ず新しい明日がやって来た。
いけばなは同じ花材を何時間もこねくり回すことができないから、次々に新しい顔を持って来なくてはならない。同じ台本でも、いつも俳優陣が異なっているというわけだ。
何かをやるとき、必ずしも理由があるとは限らない。いけばなをする前に理由がなくても、いけばなをやった後に理由が見つかれば儲けものだ。予感が当たって何かに出会えると、もうやめられない。
発表会 250512
2025/5/12
幼稚園では、イエス様生誕の芝居をやった(という記憶はなく、親から聞いて刷り込まれた)。私の役はヨセフで、マンドリン部に所属していた同居の叔母が私に応答のリズム感がないのを心配してオルガン教室に通うよう父を説得したのか、1年だけ通った。しかしホントに周りとリズムが合わず、私はオルガン教室の発表会で木琴を4小節だけ叩いた。
小中学校ではサッカーをやって、試合ばかりで発表会はなかった。高校では美術部だったから文化祭や他の美術展に出品し、大学では演劇サークルで舞台を踏んだり、バンドでステージらしきものを経験した。集大成として25歳のとき、小さな貸しスペースで無茶なワンマン・コンサートをやってヒンシュクも買った。
以来いけばなを始めるまで、発表会を開く機会はなかった。いけばなにしろ何にしろ、展覧会はチト怖い。基準がお客様の側にあるからだ。
その点、発表会は底抜けに楽しい。他人はもうどうでもよくて、ありのままの自分を発表する場だから。映画『リンダ リンダ リンダ』に勇気をもらって、もう一度底力を出し切る発表会をしたいものである。
仕事量 250511
2025/5/12
あー疲れた疲れたと一息ついて、今日も仕事頑張ったなーと自分をねぎらう。仕事の頑張りは色々な方法で測ることができる。肉体や頭の疲労度がいちばん直接的で主観的、かけた時間がいちばん客観的なような気がする。もっと本気で考えると、消費カロリーや販売数や売上額も関わりそうだし、かけた時間の長さよりは集中度の高さの方が説得力があるかもしれないと思ったりキリがない。
ほかに原材料の数量でも測れそうだ。いけばなは、出来上がりの花材の量からその仕事量を推測できると思われるかもしれないが、例外も多い。大きな枝を切って切って切りまくり、結果小さい作品になるというケースは多々ある。だから、仕入れ花材の量から測る方が、格闘の過程を含めて推量しやすいのではないだろうか。
まだ若い中年だった頃のいけばな展では、制作は2~3日間半徹夜の短期決戦が多く、本業の仕事に支障もきたしていた。今は制作に余裕で1ヶ月くらいかけられるものの、時間があるから出来がよいとは限らず、集中度の高さも必要だし、何なら仕入れ材料の金額も仕事量に換算したいところである。