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いけばな随想
diary

共通言語 241206

2024/12/6

 人間は、言葉でコミュニケーションできる……はずである。しかし、感覚的に相容れない者同士のとき、人間同士であっても全く言葉が通じない。
 いけばなの世界でも、他のジャンルでも、それに対する思い入れがない人にはいくら語っても通じないものだ。「だから諦めなさい」と言われても、やはり自分が好きなことに関しては、できれば少しでも多くの人に受け入れられたいと思って、言葉で語り続けてしまう。
 昨日「石丸繁子書道展」で、揮毫のパフォーマンスを鑑賞した。お昼の2時スタートで、BGMは『夜のタンゴ』。いろいろ試して、「この曲でしかありえなかった」との本人談。2分半くらいのその曲に合わせて揮毫していく様に見とれていると、とてもそんな短時間だったとは思えない充実度だった。
 今日、テレビで言語学者(?)が語っていたのは、音楽が鳴ると人が踊りたくなるのは、人が言葉をしゃべる生き物であるからだという。赤ちゃんが言葉を覚えるときもリズムを伴って覚えるように、言語は身体感覚を伴うらしい。その逆として、身振り(ダンス)は共通言語になりうるのであった。

ハイブリッド着物 241205

2024/12/6

 先日ラジオに、ハイブリッド着物の製造販売業者が登場した。聞き手のアナウンサーは、着物ならば着物の伝統を引き継いだ何かがあるでしょうという前提で話を始めたが、話し手の業者は、和装と洋装をハイブリッドしたハイブリッド着物は、「もはやハイブリッドの着物ではなく」、伝統的な和装の着物とは全く異なるジャンルなのだと返していた。
 このやりとりを聞いて、私は即座に華道界のことに置き換えてみた。伝統的な華道と「いけばな」と呼ばれるものとは、全く別のジャンルになってしまっているのだろうか? いろいろ調べても、納得のいく答えはない。
 しかし、「場にいける」「いけたら花は人になる」という立場の草月は、華道であるとかいけばなであるとかいう狭い境界を跳び越えて、芸術全般とのハイブリッドが既になされている。草月は、華道と呼ばれてもいけばなと言われても一向に意に介さないのは、どちらでもあって、しかもどちらをも含みこんだハイブリッドだからなのだ。
 ハイブリッド着物は着物を拒否しても、ハイブリッドいけばな=草月は、ハナから何もかもを抱き込んでいる。

気配と気配り 241204

2024/12/4

 気は空気の気、気持ちの気。人はいつも気が沈んだり晴れたり、気が付いたり付かなかったりして過ごしている。
 気配というのは場の空気で、いけばなをいける空間の性質だ。私はそれに気配りして、それを殺さないよう気に掛け、それに寄り添うよう気を付けていけばなをいける。気の利いたものにしようと、ずっと気を使うわけだ。
 時にはいけばなを主役にしたくなって、場の空気を乱すような、変容させるような花を仕立てることもある。気を引くいけばなであり、気を持たせるいけばなであり、気ままないけばなである。やり過ぎたら、元の空間に対して気後れしてしまう。空間を彩るはずだったいけばなが、空間を従えるような振る舞いをすることになり、主客転倒甚だしいと後ろ指をさされる。
 しかし、昔から芸術活動は(既成の価値を転倒させる)気ちがいのなせるわざでもあるので、作家は悠々としていて構わない。ただ、普通の人間は、気配を察して他者への気配りを怠らず楚々といけばなに向かうことが、気が病まない秘訣である。「草月流エロスを求めて」活動するプランを、きょう社中で練った。

通訳の難しさ 241203

2024/12/3

 通訳の仕事は大変だ。外国人同士の会話は、言葉としては成立しても、当人同士にも通訳者にも割り切れない違和感が少し残る。背景となる歴史文化が異なるためだ。子どものとき愛媛県内の南予の祖母に預けられ、方言が違うことでずっと居心地悪く、自分が異邦人であるような感覚だった。
 いけばな用語で、枝を曲げることを「矯(撓)める(ためる)」と言う。矯の字は、曲がったものや悪いものを改めて真っすぐにする意味を持つが、いけばなでは真っすぐな枝をわざわざ曲げることを指す。
 しかも折り矯めと呼ぶ技術は、小枝を両手で持ってミシミシと音が鳴るまで力を加え、枝の半分を無理に折って曲げる強攻策である。プロレスだったら、相手選手は再起不能となるはずの掟破りのスゴ技である。でも、いけばなをしている者にとっては、そんなこと日常茶飯事の「当たり前田のクラッカー」で、技に数えない。
 つまり、人は同じ言葉を使っていても、置かれている環境によって異なる意味でその言葉を使っているから、コミュニケーションを成り立たせるには、十分な説明か通訳者が必要だというわけだ。

ちいさないけばな 241202

2024/12/2

 習い事はお金がかかると人は言う。花が高くなってきたので、いけばなもお金がかかる。衣服代や家具代に比べると、空間をこれだけ飾ってくれる花なんて安いもんだろ? と思うが、「衣服や家具は一度買ったら3年とか10年とか、買い替えんで済む」「いやいや、流行を気にしたら1シーズンしか持たんやろ?」「花なんて、頑張ったところで4~5日じゃんか」
 花なんてと言われて、いけばなの優先順位は下降線をたどり続ける。服を着ないでは過ごせないが、花はなくても過ごせる。家具はないと過ごしにくいが、花はなくても過ごせる。費用対効果が悪いと言われ、不用物扱いだ。
 食事のことを考える。栄養価だけを考えれば、食費はもっと下げられると思うのに、人はなぜより美味しいものに金を出すのか。食べたものは自分1人が独占できるけれど、いけばな空間は自分1人で独占できないから思い入れが低くなるのだろうか。
 ちいさないけばなだったら、1人独占して楽しめる。パソコンの横のちいさないけばな。ベッド脇のちいさないけばな。線路脇や公園の金網の下で花を摘んで帰ればタダにもなる。

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