掘り下げる取組 240730
2024/7/30
いけばなについては、制作速度が問題になる。咲いていた花もしぼんでしまうからだ。生きた素材を扱って、そこに付加価値を付けるとすれば、料理であれば寿司屋を目指すのが適当だろう。
寿司屋が高額料金を頂戴できるのは、板前の冴えた腕前があるからで、その腕を持つに至るまでの相当量の経験が必要であることは間違いない。それも、漫然と作業を繰り返すだけではなく、考えて考え抜いて腕を磨く必要がある。馬鹿にはできない。そして客は、「へい、お待ち!」と、目の前で開帳されるたった数十秒のパフォーマンスに何千円も払うのだ。
結局そういうことである。目の前で繰り広げられるイベントは数分でも、そこに見える商品価値を生み出す数年単位の見えない鍛錬があるのだ。
結論としては、他人には見えない努力や創意工夫、価値観を、それとは感じさせず、そこにどれだけ凝縮して見せられるかという演出が、見せる芸術には必要だということである。いけばなの制作も、生花を用意するまでは何時間でも何週間でも準備できる。生花を用意したら、あとは板前のように鋏を振るうのみなのだ。
パリ五輪 240729
2024/7/29
パリ五輪開会式の評価の中には、「演出が華やかでなかった」という否定的なものも多かった。「雨の中で選手がかわいそう」というのもあった。賛否両論、たくさんの意見が噴出するのは良いことだ。ただ、何に対しても、直情的で安直な否定的意見が増え続けているのは気になるところだ。
また、ある競技のTV中継の解説者が、「チョーかっけー」とか「ムチャすげー」と思わず口走っていた。そして、それに続く言葉といえば技の名称だけだったので、それこそAIにやらせろよって話である。
単語2つ3つの組合せで短文コミュニケーションを行うモバイル・コミュニケーションの普及は、YES OR NOで一刀両断、素早く事を済ませる風潮に拍車をかけている。長文思考しかできない私の立場はヤバイのだ。
いけばなも、ともすれば「きれいな花ね」で終わる。長文的評価を煽るようないけばなができないものか。数億円で取引されるような巨匠の彫刻は、確かにあれこれ考えさせる。それは、制作時間が長く、消費した労力が大きいからだろうか。5分でいけた花は10秒で評価されて終わるのだろうか。
機械仕掛け 240728
2024/7/29
スタンリー・キューブリックの映画『機械仕掛けのオレンジ(英語のスラングで“超ヘンな奴”)』の、「機械」「仕掛け」という2つの魅惑的な言葉に誘惑され、中身はともかく、青年の私は映画館に入った。その後は、『天空の城ラピュタ』『ハウルの動く城』など宮崎駿の一連の作品で、めくるめく機械仕掛けの描き込みにむせび泣いたものだ。
さて、AIとかデジタルというと、よそよそしくドライな距離感がある。機械というと、鉄の冷たく重いクールな実体感や、肌で直接触れられる安心感もあるし、仕掛けという言葉には、人間の行為を伴う味わいが溢れていて、私が「機械仕掛け」を好きなのは、その両者を合体させたところの人間味溢れるアナログ感覚が凝縮しているからだ。
いけばなは、ナチュラルな花材を思い浮かべた印象としては柔らかい。しかし、ワイヤーや接着テープ、電動工具など、思いのほかハードな工作ツールも多用する。
私自身はいけばなに機械仕掛けを仕込んだことがないが、草月の初代家元・勅使河原蒼風には鉄の廃材を使った機械仕掛け的傑作があって、とても素敵なのだ。
人工的なモノ 240727
2024/7/27
私の子ども時代は、メンコやビー玉、銀玉鉄砲やブリキの玩具などが全盛で、学年が進むとプラモデルやリモコンカー、ミニチュアカメラや安物の天体望遠鏡などが宝物となった。夏休みには、昆虫標本をつくることと、天井からテグスで吊られグルグル回って飛ぶウロペラ飛行機に熱中したりした。水面や水中で動く潜水艦模型も楽しかった。
少年の私にとって、昆虫の世界も天体も、空や海なども、広い自然界は未知のアドベンチャー・ワールドで、それと同様に人工的な機械仕掛けの世界も謎に満ち満ちたワンダー・ワールドだった。
草月カリキュラムには、異質素材の扱いを学ぶ課程がある。いけばなを始めた頃、異質素材を使うのは邪道ではないかと感じ、そういう作品を見ると嫌な気分になった。自然に枯れたり風化したりする材料を使うことが良しであり、なかなか腐らない人工物を使うことは悪手だと思っていた。
しかし、花器も人工物ではないか! 自然由来の花材と人工的な材料を融和させることこそいけばなの醍醐味なのかもしれない。今はそう考えて、その両方を同格に扱うよう心掛けている。
抽象化 240726
2024/7/26
花にはそれぞれ名前があって、同じヒマワリでも一重咲きから八重咲のもの、小さな一輪から大輪まで同じ個体が1つもない。しかし、その一輪一輪にこだわり過ぎると、いけばながいけばなでなくなり、花屋さんの花の陳列になってしまう。
絵具のように売買される工業製品ではないとはいえ、花はいけばなにとっての材料である。しかし、日本人は米一粒もおろそかにしない民族だから、単に材料だった花一輪にこだわって、擬人化したり神格化したりするし、そうでなくとも大事に扱う。花一輪を切り難いし、捨て難い。
昨晩、バー・コンアルマにいけた花は、リンドウ(濃青)、デルフィニウム(水色)、アジサイ(白)で、花器は土台部分が白、筒部分が水色だった。青と白のツートーンで抽象的に仕上げることを初めから意識して取り組んだ。意図はまずまず達成したと思うが、リンドウのリンドウであることを無化し、花器の花器であることを無化することは、相当意識的でなければならない。
花一輪に思い入れが生まれると、抽象化は迷走する。そうすると、なくした方がいい花を残して台無しになる。