離島の分校 240725
2024/7/26
昨日の愛媛新聞の第一面に、岐阜県から愛媛県の離島の分校に進学した、1人の高校生の記事が載った。この話題が第一面に掲載されたのは、新聞社としても相当に気持ちが入ったのだろうし、分校も島も嬉しかっただろうことが想像できる。
小学6年時からその分校に憧れていたという彼女の情報への接し方、感じ方、行動力、価値観等々、記事を読んだ私も驚きと共に嬉しくなって、妻に読み聞かせたくらいだ。
グローカルという造語は20年も前から使われていたが、「地理的に国境を越えたインターナショナルさを備えた地域的視座」くらいの意味合いだった。彼女の場合は、縦横斜めに複数の次元を一気に突破し、時空も思想・哲学も超えた本物のグローカルさだと感じた。
私は、田舎を賛美する傍らで都会に憧れ続けてきた。田舎には何か不足があり、都会には充足があるように洗脳されていたことを否定できない。いけばなというものが都会的趣味に陥ってはいけないし、田舎だからどうだということではなく、花材も花器も、センスも状況も、ハイブリッドでグローカルな取り組みの土俵にしたいものだ。
アレを超えたい 240724
2024/7/26
24年前の秋の初めだった。落葉を敷き詰めた地面の一部が、ペロリと剝けている。落葉をたっぷり載せた「地面の表皮」が、畳より一回り小さい大きさで長方形にめくれているのだ。巨人がカッターナイフで地面にコの字型に切れ込みを入れ、注意深く端っこをつまみ上げたような光景だった。その作品の花材はというと、上に反らせた鉄板と落葉と地面である。
私を驚かせたいちばんの理由は、地面を作品に取り込むことによって、どこまでが作品でどこからが風景なのか境界がなかったことである。空の上の人工衛星から地面のめくれた部分を眺めると、地球全体が作品だったのか! と判明するだろう。
そのショッキングな“地面ペロリ作品”は、草月いけばな展への賛助出品として、愛媛大学教育学部の美術専攻学生たちが取り組んだものだと聞いた。いけばなではないようにも見えるし、いけばなのようでもあるその作品が、私を刺激して草月の門をくぐらせたのだ。
それ以降、草月代々の家元の作品をはじめ、私を引き付ける作品に何度も出会ってきたが、やはり最初の出会いの強烈な印象は忘れられない。
ためらい 240723
2024/7/24
私は、この人生ずーっと「文系」だ。算数に苦手意識はなかったけれど、科目名が数学に上がってからは、からきしダメだ。私の捉え方として、「理系」の人にはためらいがない。自己正当化のために反発を恐れずに言うと、理系の人には遠慮がないし思いやりが足りない。
ためらいというのは、優柔不断と言い換えてもいい。悪く言えば、シャンとしてなくて意志薄弱である。これは性格というよりも気質なので、変えようがない。鉄の性質、木の性質、水の性質等々のように、それをそれと規定する性質なのだから。
だから私は、いけばなをためらいつつ行う。ああでもない、こうでもないと幾度もためらいが訪れ、その度に足してみたり、かと思うと引いてみる。ためらっている私に、足すなら足し続けろ! 引くなら引き続けろ! と、もう1人の私が発破をかける。しかし、彼の激励は虚しく終わってしまうのが常である。だって、私は文系だから!
文系・理系と区分するのは、現代グローバル社会ではナンセンスという風潮になっているが、私個人としては、文系であることを言い訳として叫んでいたいのである。
1点もの 240722
2024/7/24
いけばなに、猛暑は大敵だ。花は萎れ、水は腐る。だから、いけ始めからいけ終わりまで、手早い作業が求められる。裏腹なことに、手早い作業を行うためには、いける前の下準備に手間をかける必要がある。どの花材にどの花器を合わせるかによって、作品イメージは180度変わってくるし、料理レシピのように参考になる分量比率が花材に対して示されることはないので、どのいけばなもオーダーメイドというか、手間のかかる1点ものの作品となる。
いけばなには型があるから、既製服をつくるように型にはめたら楽に仕上がるだろうと思われるフシもある。実際に、型があるから、最後の手段としてはそこに立ちかえれば何とかサマにはなる。しかし、それはあくまでも妥協点が見つかるという話で、望ましい到達点ではない。
パリオリンピックの開幕が近くなり、高校野球選手権の地方大会もたけなわの今日、彼らアスリートのギリギリまで攻め切る姿に頭が下がる。私もそうありたくても、何かが足りないのだ。または、諦めが悪くて足り過ぎているのだ。
攻め切るゴールを1点に絞るから1点ものである。
聖なるいけばな 240721
2024/7/21
聖なるものを日頃から意識している人には、対極の俗なるものにも敏感だろう。聖なるものを日頃から意識していない私は、俗なるものも意識しようがなかった。
無理にでも聖なるものを意識しようとすると、私の場合は仏壇のビジュアルと線香の匂いが思い浮かぶ。5年ほど前に実家を改修し、床の間を潰して仏壇を入れていたのを神棚の下の押入れを潰してそちらに移し、壁を塗りなおして床の間を復活させた。かぐわしい香気を感じさせるまでには至っていないが、単に抹香臭いだけではない空間になった。
部屋に神棚と仏壇と床の間の3つが綺麗に整うと、床の間の花は、部屋を使う人に対するもてなしだけではなく、「神様仏様」に向けた献花の性質をまとったのである。部屋のしつらいが、聖を醸し出したことによって、その場のいけばなも聖を意識せざるをえなくなった。そうすると、対極に俗が現れるのも必然である。
問題は、私自身の意識とセンスを変化させられるかどうかである。場に合わせていけばなを聖化させたり俗化させられるかどうか。見てくれる相手への理解の度合いが現れるはずである。