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いけばな随想
diary

自然に出来上がる作品 241106

2024/11/8

 花で手遊びをしていて、気付けばいけばなが出来上がっていた。こういう無意識につくられた作品は、作為が働いていない点で自然的だと言ってしまいたくなる。昨日は空間的な自然を思い浮かべ、今日は精神的な自然を思い浮かべている。
 しかし、私自身が作為的でなかったとしても、私のいけばなの癖は体に沁み込んでいるのではないか。無意識だったかもしれないけれど、体が覚えていた記憶が、いつでも私のパターンを描いてしまうように方向付けされている可能性は大きい。
 特段に意識していなくても、人は動作ひとつにしても持っている癖が勝手に振る舞う。むしろ意識していないときほど、癖はことさら確実に立ち現れる。私は自分の癖について、あまりたくさんの知識を持っていない。だから、自然に振る舞っているつもりであっても、深層に隠れた自分が表層の私を易々と操っているのだ。
 人は、法律とか慣習などの社会的拘束力に縛られているというよりも、自分の個性により強く縛られていて、「自然に湧いてきたインスピレーションによって作品ができちゃった」などということはないのである。

自然と不自然 241105

2024/11/8

 40歳代になって、アレルギーの症状が表れた。子どもの頃から海や川で泳ぎ、山でキャンプをしていた自分だっただけに、自然のフィールドと友達でなくなったような気がしてショックだった。しかも、いけばなを始めた時期と重なっているのが皮肉だ。以降、薬を飲んでいるにも関わらず花粉症の症状がしばしばやってくる。アレルギー検査を2度行ったけれど、原因は分からずじまいだ。
 人口減少で都市開発も一段落してきた日本ではあるが、山と町(里)が近付き過ぎて「里山」がなくなってきたと専門家は言う。熊や猿が、人の生活圏に頻繁に出現している。熊や猿に言わせれば、逆に「最近ガンガン来るんよねー、遠慮のない人間が」と言われている(はずだ)。
 そもそも自然というのは、人間が暮らす集落も含めて呼ぶのか、人間が立ち入らない聖域を指すのか。人間が働きかけた自然は、もう自然ではなくなるのか。
 切り花は、もう不自然になった自然である。だから、いけばなで自然を表現することはできない。人間の作為と無縁なのが自然だとすれば、自然を売り物にした観光も不自然極まりない。

イメージの具体性 241104

2024/11/4

 これまで、言葉による表現ははっきりしていて、イメージはぼんやりしているというふうに感じてきた。しかし、改めて逆ではないかという気がする。
 言葉は実態を持っていないし、言語化すればするほど対象は抽象的な概念に遠ざかっていくように感じる。たとえば「伝統と現代性を併せ持った草月流」と聞いて、誰が「わかった」と納得するだろう。逆にイメージはといえば、絵に描けるように具体的なのだ。「草月のイメージ」というと、私のアタマにはたとえば勅使河原蒼風から霞、宏、茜という「代々の家元の顔」が浮かんでくる。極めて具象的なのである。
 生活スタイルが変わると、その生活を説明していた語句も変わる。昔はいけばなと聞くと、実際にいけている様子が巷に溢れていたから、「お茶と一緒に習っていたアレ」ね、とすぐイメージできたかもしれないが、いまの若者で、いけばなと聞いて「アレ」ね、とすぐイメージできる人がどれだけいるだろうか。
 イメージは、生身の体験から生まれるものだ。言葉でわかったフリをしても、何もイメージできないという事象がとても多い現代なのだ。

神秘的 241103

2024/11/4

 華道と花いけバトル。似ていて非だし、同じ土俵だとも言える関係。今日は高校生花いけバトルが松山ロープウェー街で開催され、私も関わる松山商業高校華道部から2人1組の3チームが出場してくれた。
 初代家元は「私は、花である(いけたら花は私である)」と言ったが、これは神秘の領域の話だ。「私は奴隷である」というのは人間界の範疇で不自然はないが、私が花になるのは非科学的だ。しかし、2者の合一は、非論理的で2者の距離が遠ければ遠いほど神秘性を増し、世俗ではなく思念の世界において獲得されるのである。
 こういう説明がつきにくい世界で真面目に遊び続けようとするのが華道であり、5分後の結果発表に一喜一憂するのが花いけバトルの楽しさだ。納期を設定することで趣味がビジネスに変質するように、花いけバトルは時間を制限することで華道を離れて競技になった。
 可視的でわかりやすいパフォーマンス=花いけバトルを入口にして、是非とも高校生たちには華道の世界に入ってきて欲しい。測れないくらいの微量さかもしれないが、華道の深い意味合いを徐々に感得して欲しい。

新しい環境 241102

2024/11/2

知人が企画書を書くのにAIアプリを使い始めた。いっぱしの経営コンサルが書くような叩き台が、あっという間にスマホ画面に表示される。
試しにチャットで入力してもらった。「いけばな教室の生徒を増やす方策は?」数秒後に、つらつらと計画案が示された。さらに条件を追加して「草月のいけばな教室の生徒を増やす方策は?」また数秒後に示された内容は、見事に草月バージョンに書き替えられており、ターゲット層の設定やコラボレーションすべき相手先の属性もちゃんと考慮し直されているではないか! 私は驚くと同時に後ろめたさを感じた。昔、営業先に対して半徹夜を繰り返してプレゼン準備をしていた努力は何だったんだろう?
また、疑問も湧いた。ライバル企業の2社が同じ問いを同時に設定したら、同じ企画案が2社の担当者に示されるのだろうか? プレゼンする企業の個性や特長は、どのくらい反映されるのだろうか? 企業倫理や経営哲学が、AIアプリに付随するオマケのように軽くなってしまわないだろうか?
次のいけばな展に出す作品は、どれだけ強く自分の作品だと主張できるだろう?

講師の事