人生の趣味 240720
2024/7/20
小学生か中学生の時、ある姉妹の家に遊びに行った。姉の方は小学校から高校まで同級生だ。姉に促されて妹の勉強机を見せてもらったら、右サイドの引き出し3段の全部が岩石でいっぱいだった。その時の衝撃はずっと忘れない。妹はその後、高校のとき偶然にも美術部の後輩になった。そして、彼女は「地球科学」「地質学」等を教える大学教授になり、今に至る。
宝石が好きな人はゴロゴロいても、宝石ではない石を集める人は少ない。動物か食べ物を扱っておけばテレビ番組は成り立つと言われてきて、それに歌とお笑いを加えれば四天王だ。いけばなは『プレバト』で取り上げられたが、岩石をテーマにした番組は記憶にない。岩石はそれくらいマイナーなのだ。素晴らしい!
メジャーだマイナーだということを吹聴することがナンセンスだと分かってはいるけれど、どっちかって言うと、マイナーの肩を持つ。「少女が小汚い石を集めている」それだけで、ドラマが何篇も書けそうだ。「石の上にも3年」どころの話ではない。少なく見積もっても、あれから50年だ。
私のいけばな歴24年。道半ばである。
生き残る 240719
2024/7/19
私という1人の人間の生死については、あまり考えが深まらない。玉井家の存続に対する心配は、少なからずある。前に飼っていた猫が16歳と9ヶ月で逝って、もう飼うことはないだろうと思っていたのに、2年後に迎えた猫が3歳になった。
生き物の種の寿命は平均の数値としてだいたい定まっているけれど、個々の命は様々な要因でみんな違っている。すべての生き物にとって生活環境はとても複雑で、しかも変化しているから、どんなに長生きのための策を練ったとしても正解はないだろう。
私の場合、厄落としをせず心筋梗塞になったが、仕事のストレスが主因だったかもしれないし、タバコと酒が主因かもしれない。原因は特定できない。勉強したから寿命が延びたという話も聞かないし、食生活や運動に気を配っていても早死にする人は死ぬ。生き残るために何が有利かについて、古来、野生動物と比べて人間の優位性が数え上げられてきたが、いまの人類は危うい。
いけばなを始めてから、よく山を見る。庭木や山を見て思うのは、個が単体で威張っているヒーローの姿はどこにも見えないということだ。
清濁併せ呑む 240718
2024/7/18
善悪と同様、清濁の良否も判定が難しい。本来は対立軸の両端にありながら、「清濁併せ呑む度量」の大きさが経営者や政治家に求められもするからだ。
ファインアートは、大まかにいえば、美しい(芸術的にインパクトがある)こと以外の実用面で役に立たないことを表す。いけばなは実用性のないファインアートだろうかと考えたとき、少なくとも花嫁修行の1つとされた時代においては、いけばなは大いに実用性があったと言わねばなるまい。
しかし、レストランの大壁に絵画が掛けられているとき、その意図は集客装置であるのか、純粋に店主の美への思い入れであるのかは他人にはわからない。いけばなも、玄関にしつらえられた来客へのおもてなし装置かもしれないし、いけばな展に出す作品はファインアートだといえようし、いけ手の意図や見る人の意識によっても違ってくる。
展覧会のいけばなも、単に人気投票の対象になってしまったら、それはエンターテインメントの材料として用いられた(用に立った)として、少なからず濁った性質を帯びることになるのだろう。いけばなも、清濁まぜこぜだ。
人口減少 40717
2024/7/17
周辺部からの流入で、松山市の人口はまだしばらく増加すると思っていた。既に日本の人口は減り始めているから予想していたことではあるが、ついに松山市も人口の減少曲線を描き始めたというので驚いた。
人間を含む哺乳類は子どもの数が少ないが、魚や昆虫はたくさんの卵を生むし、植物は数えきれないたくさんの種子や胞子を飛ばす。
マクロに眺めると、地球上の生物はある場所で増えたり減ったりと陣取り合戦を繰り返して、滅ぶ種があれば出現する種もある。いけばな的に眺めると、使う花材のうえで、日本固有とか日本原産という種に比べて、海外産の花材の使用がどんどん広がっている。物流の国際化はその要因の1つに数えられるだろうが、それは後付けの理由で、根本的にはニーズの問題として、使いたい花材の流行の変化だと思う。
衣食住の全てにおいて、日本的なものはすべて伝統の枠に押し込まれ、現代生活の一部であることから遠ざけられてしまった。「いけばなは現代日本の文化だ」と言ってもあまり取り合ってくれないけれど、「いけばなは日本の伝統文化だ」と言えば助成金が出る。
悪人は誰だ 240716
2024/7/16
昨日の愛媛新聞に、特定外来生物「オオキンケイギク」が、伊予市の海岸でお花畑になっているという記事があった。いわば悪人扱いだ。
カヌーがきっかけで川に関心を持っていた1990年代、私は重信川中流の河原にオオキンケイギクが点在している風景をたくさん写真に収めていた。流れる水が少なく、ゴロ石だらけの荒涼とした景色に、背の高い黄色のオオキンケイギクが風に揺られる物悲しい様子は、私が大好きな原風景の1つだ。
当時はそんな外来種と知らず、ぼんやりと「キク」の名が付いているから在来種だろうと思うくらいで、風景としての魅力はあっても、植物そのものに対する興味はあまりなかった。
いま、いけばなをする身としては微妙な気分である。在来種を駆逐しかねない生命力を持っているならば、確かに駆除したい。一方で、これだけ人間社会の国際化が進んでいるのに、他の動植物の住処は制限しなくてはならないのだろうか。人間が気候変動を促進させたり、森林破壊や海洋汚染を広げておきながら、「君たちは、そこにじっとしていなさい」と動植物に言う資格がないように思う。