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いけばな随想
diary

過剰な花 250726

2025/7/31

「過剰」というのは、説明できないくらいやっちまってるという感嘆の言葉だ。
 今度いけばな体験の方が来るので、準備を怠りなくやろうとしている。教室に使う部屋の掃除と片付け、使う道具の手入れと準備、使う花材のリストアップ、教える型とデモのシミュレーション。一段落したので、初代家元から四代目家元までの作品を写真で見てもらおうと思い、イメージが広がるようなラインナップで選び始めた。
 ところが、幅広く見せたいと思えば思うほど、常識的な範囲をいい意味で逸脱している作例が多く、それを見せてしまったらテキストの第1項に頭を切り換えることができるかどうか、不安が大きくなってきたのだった。テキストの第1項あたりは「型」が設計図のように示されているので、見よう見まねで自動的にいい作品ができあがる。
 さて、型の名残があるという点で、型破りというのはまだおとなしい。しかし、歴代家元の作品群には、とんでもなく過剰ないけばながゴロゴロしている。全く隙間がない、植物が見当たらない、老眼でははっきり見えないくらい小さい等々。見せない方がいいかな。

暗いいけばな 250725

2025/7/28

 芸術の世界では、おどろおどろしい絵や抑鬱されたような重く暗い絵も、それが狂気的な絵でも、傑作は傑作として歴史的に長くそして世界的に広く支持されてきた。名画のテーマは、「喜」「楽」「快」「生」だけでなく、「怒」「哀」「悲」「死」なども同じくらいの割合で存在する。
 絵として描かれた人間らしさは、見かけの美醜に惑わされることなく評価され受け入れられるにも関わらず、なぜか人間そのものに対する評価は偏ってくる。見かけの第一印象で人間性まで決め付けられることも多いから、油断ならない。可愛いヒロインは受け入れられやすく、コワモテの悪役は子どもは大泣きするし、大人まで一緒になって嫌うのである。
 いけばなは芸術に近いと私は思っていたが、世間はそうでもないようで、カワイイいけばなの好感度がどうしても高い。いけばなは芸術よりも人間に近いのか、暗い表情をしていては振り向いてもらえないようなのだ。
 それでなおさら、私は怖いようないけばなをしてみたい。オーブリー・ビアズレーのモノクロのペン画のような、宵闇を連れてきそうな耽美的ないけばなだ。

好き嫌い 250724

2025/7/28

 真偽や善悪ではなく、美醜でもなく、好き嫌い。
 せちがらい現代社会に暮らしながら、正面切って「真善美を追求しています」と公言するのは、あまりにも現実離れしていてキョトンとされるに違いない。そういう漠然とした予感があるから、選挙においても差し障りのない議論レベルに落として立候補するし、投票する。政治とはそういうものだと、ぼんやり諦めている(悲観しているのではない)。
 人が表現するという点で、芸術においても、漫画の世界においても同様である。ピカソの『ゲルニカ』や中沢啓治の『はだしのゲン』のように、社会に対する真摯な思いを真っすぐに表現すると、賛同もあれば嫌悪や無視も起こる。しかし、それこそが一流の表現者の表現だ。
 二流の表現者である私は、衝突を招きかねない表現をするだけの気概も勇気も足りていないから、問題意識を薄めて、好き嫌いの範疇でやんわりと表現してしまう。作品に対する最初の観客でもある自分が、自身の不甲斐なさに少し腹を立て、少し反省してお茶を濁す。
 まずは好き嫌いを越えたいと思う自分に正直に、はみだしてみたいものだ。

見事な完璧さの孤独 250723

2025/7/28

 またしても料理の話。ある一皿が見事に完璧な美味しさだとする。すると、他の料理と合わせると、その完璧な味が乱されることになる。完璧な“それ”は他の何者をも拒否してしまう孤高の身であり、他者との協同や共存は必要ないよと高飛車だ。強いけれど残念ですね。
 コース料理や懐石料理は、味が濃いもの薄いもの、味が尖ったもの丸いもの、一皿ずつにいろいろな個性があってこそ全体の陣形が整う。漫才でも、ボケとツッコミの役割がうまく機能してこそウケる。だから、いけばなにおいても、尖っていたり凹んでいたりすることで、その部屋のインテリアの別の要素と補い合って完成度を高める。ボケてもいいし、ツッコンでもいい。
 これはあくまでも私の場合であるが、人間に対しても、見事に完璧な美人は記憶に残らない。面白味がなくて、要はつまらない。
 いけばなの面白さは、自然に生えていた姿とは似ても似つかない枝葉の様子に凝縮される。もちろんTPOはわきまえた方がよく、一般家庭で一般的なお客様を迎えるならば、爆笑問題のような存在感の強いいけばなは避けるべきかもしれない。

こなれた花 250722

2025/7/27

 先般わたしは、「着崩した花」という表現で完璧ではないいけばなの魅力、一定の粗さがある魅力について書いた。今日たまたま、ビル・エヴァンスのアルバム『Sunday at the Village Vanguard』を聴いていて、「着崩す」よりも「こなれた」の言葉が、私が言いたかったニュアンスにもっとぴったりだと思った。
 このジャズのアルバムは、私が生まれた翌年1961年に録音されたもので、ピアノトリオの演奏だ。このトリオは1959年に結成された顔ぶれで、互いのセンスとスキルが調和して、ちょうど聴き頃に熟していたのではないかと感じられる。
 彼らの演奏は、粒立ちが良く硬めに炊き上がった白ご飯のようである。つまり、間違いなく美味しい。けれども、毎日食べる白ご飯だから、ことさらの主張は意識されないまま、気付いたら2杯3杯とお代わりしているような、そんな音楽だ。
 着崩すのは、まだまだ意識的であり過ぎる。気持ち左右どちらかに傾いた眼鏡で、煙草を短くなるまで咥えたまま、かなり猫背で鍵盤に向かうビル・エヴァンスこそは、自己顕示欲も観客も無関係に、こなれた演奏に没頭しているのだった。

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