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いけばな随想
diary

ウェルネス 241126

2024/11/26

 三井住友信託銀行が、花の世界で有名なニコライバーグマンスクールでのフラワーデザインイベントに、参加者を募集していた。朝の部、昼の部それぞれ20人限定で無料である。「豊かな人生にお花のある暮らしを」と標榜していて、「お花のある暮らしで豊かな人生を」ではないところがミソだ。対象は当該銀行のトラストプレミアムサービスの「プラチナ」か「ゴールド」のステージにある顧客だ。
 セゾンカードの会員誌の特集は、「ウェルネスツーリズムのすすめ」だ。スパやヨガを主体としたリゾート地での過ごし方だったり、伝統文化やアート、教育にまで範疇を広げたウェルネスアクションを伴う旅だという説明である。日本の湯治や禅、世界的に分布する巡礼の旅も含まれる。しかし、その誌面で紹介される施設の大半は大人のリゾートと呼ばれるような高額な施設である。
 どちらも預金や投資やカード決済などの利用促進を目的とする広報活動なので、扱う素材や扱い方はどうしても贅沢な非日常的なものになる。しかし、ウェルネスには、もっと身近な旅や体験があると思う。いけばな習慣もそうだ。

侘び寂びから遠く離れて 241125

2024/11/25

 どうも自信がない。これはSNSの影響が大きい。侘びとか寂びというのは喧噪より閑寂を求めるものなのに、強さや派手さや明快さをアピールしなければ認知されにくい。深淵または至高を目指す者が、白昼に衆目のもと短時間で何を伝えられるというのか。
 明るさがあって暗さが際立つことは分かっている。だから、侘び寂びも対照的に絢爛豪華な環境があってこそ成立する感覚であることも理解できる。しかし、暗さを明るさで表現することが難しいように、侘び寂びを派手さや豪華さで説明することも難しい。
 いけばなは究極のところ引き算であると思っている。渋谷のスクランブル交差点のような、人を足し算して群衆が慌ただしく行き交う密度を嫌う。仮に、群衆の引き算ができない場合は、人間をもっと身動きできないほどに詰め込んで、隙間や空気を引き算する。つまり、人間を足し算しているときでも、空気の引き算の方に着目するのがいけばなの流儀である。
 人生においても、幼少期は0歳からの足し算で、高齢になると、80歳引く64歳は、あと16年の命だ、というふうに引き算で数え始める。

お花 241124

2024/11/24

 お気持ちをお察しします。言葉に接頭語「お(御)」を付けると敬語になる。お花畑と言うのは、花畑を尊敬しているわけではなく、話をしている相手を敬っているからお花畑と言うのだ。しかし、からかう調子で「お利口さんね」と言うと、これはおべんちゃらだ。
 いけばな教室のことをお花の教室ということも少なくないし、たいていはお花を習うと言っている。これも、相手への敬意が表れたとみるべきだろう。しかし、お着物を着てお座敷でお師匠さんからお花を習うとまで言ってしまうと、むしろ相手を小馬鹿にしていることになる。
 現代社会では、大した敬意もなく慣例的に、お寺とかお札(おさつ)という表現を自然に発している。お寺さんというふうに、「さん」まで付けると、これは敬意というより親しみがこもっていると見るべきだ。
 さて、お花と言うのは、華道という伝統的な文化に対して何となく遠慮があったというか、一歩引いて奉っていたような気持ちがあったのではないだろうか。しかし、私はお花という言い方を好きではない。花を自分より下に見ているような気がしてならないからだ。

花の盛り 241123

2024/11/24

 花が咲いたと人が言う。つぼみの段階では、咲いたとは言わない。よく考える必要はないけれど、気になり始めると少し考えてしまう。どの段階で咲いたと言うのか。私は満開になるより前、つぼみがはじけて花びらの1枚1枚が見え始めた時が好きだ。
 人生に花を咲かせると人が言う。これはストレートに成功を意味している言葉なので、おこがましくて人前では使いにくい。目標を抱いて掲げることはいいことなので、それは大いにやってもらいたい。そして、大輪の花を咲かせたい場合は、より控えめな態度で品性を保ちたい。
 ただ、咲いてしまった花はいずれしぼむ。早い段階で花の盛りを迎えてしまった人生は、枯れるばかりで面白くない。だから、いけばなでは、面白いのは花ばかりではないよと諭してくれる。枯れた枝や虫食いの葉にも趣があると言う。言うだけでなく、大いに使う。何でもないような枯枝を「枯れもの」と呼んで大事に取って置き、ここぞという時に引っ張り出していける。
 枯枝や流木などは、力強さも寂びた感じも表現できる。老練な俳優にも似て、作品に深みや輝きを与えてくれる。

内と外 241122

2024/11/22

 家庭の内と外、業界の内と外など、内と外の境界には明確なものも不明確なものもある。花の世界も複雑で、生産者と消費者の単純な関係で割り切れない。また、華道といけばなとの関係は内なる関係だと思うが、いけばなとフラワーデザインの関係は内と外のような気がする。
 外面がいいとか内弁慶だという表現は、この内と外に即して態度を変える人に対して批判的に言われるのだが、いけばなのつくり方においては、それとは異なる意味合いで内と外とが意識される。
 つまり、いけばなを知らないとか、いけばなにあまり興味がないという人を含む外の人たち(生活者)を想定するか、審査会などに向かうような専門家に挑戦する気持ちで制作するか、その動機によって作品の傾向にある程度影響が及ぼされると思うのだ。
 もてなしのツールとして外向きに位置付けたとき、いけばなにはエンターテインメント性が求められる。究極は、紅白歌合戦のような百花繚乱のアミューズメントを展開することになる。「クラシック音楽の夕べ」という雰囲気ではなく、「テーマパークでの歌謡ショー」に近付くことになる。

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