実験的いけばな 241121
2024/11/22
展覧会でいけばなをつくるとき、2つの座標軸を考える。縦軸は他人の評価軸で、下向きは一般客にどれだけ受けるか、上向きは目の肥えた人にどれだけ訴えかけられるかである。横軸は自己評価軸で、左向きは自分らしいパターンを推し進められたか、右向きは自分の殻を破るべくチャレンジできたかである。
まず縦軸。私はどちらかといえば八方美人だから、数の多い一般客に受け入れられたい。もちろんマニアックなコアの客に褒められたい気持ちもあるが、そこまでの才能があるとは思えない。
次に横軸。私はどちらかといえばチャレンジャーだから、過去の作品とは路線を変えたい。ところが、そのための試行錯誤の努力や根気が足りなかった。いま、時間に余裕ができてきたので、気持ちにも少し余裕が出てきた。それで、過去の誰もやっていない手法をやってみたいとも思う。
しかし、やり過ぎると誰もいけばなだと思ってくれないし、どこまでだったら受け取ってもらえるかギリギリ攻めてみたい。でも、実験的な攻め方をし過ぎて、いけばな展ではなく美術展に出す方がよくなるのも考えものである。
受け身の文化 241120
2024/11/21
物事の決定に際して受け身の態度を取るのは、自分の自信のなさというよりも他人に対する甘えである。自分の意見を積極的に述べなくても分かってもらえるだろうという甘えだ。意見が対立するよりもあいまいな方が、流れに乗れて平和的だし正義でもある。農耕民族の血を引いている者としては当たり前の態度かもしれない。
どちらかといえば、私もそっちの人間だった。だから、私のいけばなにもそれは表れた。表れる性格はいけばなに止まらず、着用する衣服にも表れる。文房具などの持ち物にも、乗る車にも、眼鏡にも、外食で注文するメニューにまで表れる。そうしてやはり、購入する物に表れる以上の強烈さで、いけばななど表現する行為にその人間性は表れるのだった。
自らが背負うことなく、他人に委ねる。委ねておきながら文句は言う。建設的な意見であればいいけれど、ただ破壊的に批判する。これは他人事ではない。政治に対する態度など、自分自身の無自覚な日常的な振る舞いがこれにあたる。
だから、せめていけばなにおいては、自発的に事を構えたいと思うし、周りにもそれを期待したい。
ホームレス 241119
2024/11/19
いけばな教室の2階のベランダで、しばしば毛づくろいや昼寝をしている若い黒猫。ホームレスの野良猫で、さしずめ住民票の住所が私の教室のベランダ、本籍はお向かいさんの玄関先だ。
本籍地には、彼のために食事を毎日自転車で持ってきてくれるおばさんもいて、お向かいの奥さんと育ての役割がシェアされている。水色の首輪も付けてもらい、病院にもちゃんと連れて行ってもらっている。一方、住所である私の方には庭木の茂みの自然トイレが完備されているし、近所で市民権を得ているので、別宅や別荘も数知れない。甘え上手なホームレスだ。
さて、朝日新聞の投稿歌壇に現れたホームレスについて、三山喬のノンフィクション『ホームレス歌人のいた冬』がある。また、昭和前期の華道界に分け入った早坂暁の『華日記』もある。表現欲求が優先するあまり暮らしが破綻する人もいるし、暮らしが安定しているからこそ表現行為に邁進できる人もいるということを考えさせられる本だ。
いけばなのためにホームレスになることも厭わない、またはそれに準じるような人々が実在した。今では考えられない。
意見の表明 241118
2024/11/18
先日の衆議院議員選挙での私の投票内容については、誰にも話していない。ところが合衆国の大統領選挙を見ていると、多くのアメリカ国民が熱烈にトランプ支持を大声と大きな身振りで表現していた。
いけばな教室では、生徒さんの顔色によって「何故そのようにいけたの?」と聞く。自分の意図を他人に話し、いけた結果について他人の意見を仰ぐのは勇気がいる。他方、意見をする側の人にも、一定の発言責任を背負わせることになり、他人への意見は勇気と精神力が必要だったりする。奥ゆかしい日本人にとって、「なんとなく」と言っておくことで済んでいた時代は、もう過ぎてしまったのかどうなのか。
いけばなは、私以上に意思表示しない日本人によって育まれてきた。以心伝心で「わかってくれるだろ?」「うん、わかったような気もする」で済んできたところもある。
「SNSの活用」などと特別なことのように言っている私は、もう過ぎた時代の人間で、現代人はそれを話題にすらしない。積極的に表明することも、積極的に隠すことも、当たり前のように使い分けられるのが現代人なのだろうか。
四角い風景 241117
2024/11/17
故赤瀬川原平さんの本に『四角形の歴史』がある。カメラのファインダーが丸くなく四角であることから話は始まり、犬は人間のように“風景”を見るのだろうか? という疑問に話は吹っ飛んでいく。
人間だって、みんながみんな同じ風景を眺めていると思うのは幻想である。知人の店では、いけている花が目に入らなかった客が、枝先に服を引っかけて花瓶ごとひっくり返してしまった。その客の見る風景に、花は意識されていなかったということだ。人が見る風景は、彼や彼女が意識して見たものだけで構成されているということ。
そう考えると、いけばな展に来ているくせに全然花を見ず、花を見ている女ばかりを眺めている男がいるのも頷ける。花を見ず女ばかりを見ている男を見ている私は、その時やはり花を見ていない。
再び戻って四角い話題である。何を意識して見ているかは人それぞれだが、赤瀬川さんが問題にするのは、みんな四角い窓から外を見るように、四角いスマホみたいな視界で風景を見る癖がついているのではないかということ。いけばなを見るにも丸く見ないで、みんなも四角く見ている?