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いけばな随想
diary

花の盛り 241123

2024/11/24

 花が咲いたと人が言う。つぼみの段階では、咲いたとは言わない。よく考える必要はないけれど、気になり始めると少し考えてしまう。どの段階で咲いたと言うのか。私は満開になるより前、つぼみがはじけて花びらの1枚1枚が見え始めた時が好きだ。
 人生に花を咲かせると人が言う。これはストレートに成功を意味している言葉なので、おこがましくて人前では使いにくい。目標を抱いて掲げることはいいことなので、それは大いにやってもらいたい。そして、大輪の花を咲かせたい場合は、より控えめな態度で品性を保ちたい。
 ただ、咲いてしまった花はいずれしぼむ。早い段階で花の盛りを迎えてしまった人生は、枯れるばかりで面白くない。だから、いけばなでは、面白いのは花ばかりではないよと諭してくれる。枯れた枝や虫食いの葉にも趣があると言う。言うだけでなく、大いに使う。何でもないような枯枝を「枯れもの」と呼んで大事に取って置き、ここぞという時に引っ張り出していける。
 枯枝や流木などは、力強さも寂びた感じも表現できる。老練な俳優にも似て、作品に深みや輝きを与えてくれる。

内と外 241122

2024/11/22

 家庭の内と外、業界の内と外など、内と外の境界には明確なものも不明確なものもある。花の世界も複雑で、生産者と消費者の単純な関係で割り切れない。また、華道といけばなとの関係は内なる関係だと思うが、いけばなとフラワーデザインの関係は内と外のような気がする。
 外面がいいとか内弁慶だという表現は、この内と外に即して態度を変える人に対して批判的に言われるのだが、いけばなのつくり方においては、それとは異なる意味合いで内と外とが意識される。
 つまり、いけばなを知らないとか、いけばなにあまり興味がないという人を含む外の人たち(生活者)を想定するか、審査会などに向かうような専門家に挑戦する気持ちで制作するか、その動機によって作品の傾向にある程度影響が及ぼされると思うのだ。
 もてなしのツールとして外向きに位置付けたとき、いけばなにはエンターテインメント性が求められる。究極は、紅白歌合戦のような百花繚乱のアミューズメントを展開することになる。「クラシック音楽の夕べ」という雰囲気ではなく、「テーマパークでの歌謡ショー」に近付くことになる。

実験的いけばな 241121

2024/11/22

 展覧会でいけばなをつくるとき、2つの座標軸を考える。縦軸は他人の評価軸で、下向きは一般客にどれだけ受けるか、上向きは目の肥えた人にどれだけ訴えかけられるかである。横軸は自己評価軸で、左向きは自分らしいパターンを推し進められたか、右向きは自分の殻を破るべくチャレンジできたかである。
 まず縦軸。私はどちらかといえば八方美人だから、数の多い一般客に受け入れられたい。もちろんマニアックなコアの客に褒められたい気持ちもあるが、そこまでの才能があるとは思えない。
 次に横軸。私はどちらかといえばチャレンジャーだから、過去の作品とは路線を変えたい。ところが、そのための試行錯誤の努力や根気が足りなかった。いま、時間に余裕ができてきたので、気持ちにも少し余裕が出てきた。それで、過去の誰もやっていない手法をやってみたいとも思う。
 しかし、やり過ぎると誰もいけばなだと思ってくれないし、どこまでだったら受け取ってもらえるかギリギリ攻めてみたい。でも、実験的な攻め方をし過ぎて、いけばな展ではなく美術展に出す方がよくなるのも考えものである。

受け身の文化 241120

2024/11/21

 物事の決定に際して受け身の態度を取るのは、自分の自信のなさというよりも他人に対する甘えである。自分の意見を積極的に述べなくても分かってもらえるだろうという甘えだ。意見が対立するよりもあいまいな方が、流れに乗れて平和的だし正義でもある。農耕民族の血を引いている者としては当たり前の態度かもしれない。
 どちらかといえば、私もそっちの人間だった。だから、私のいけばなにもそれは表れた。表れる性格はいけばなに止まらず、着用する衣服にも表れる。文房具などの持ち物にも、乗る車にも、眼鏡にも、外食で注文するメニューにまで表れる。そうしてやはり、購入する物に表れる以上の強烈さで、いけばななど表現する行為にその人間性は表れるのだった。
 自らが背負うことなく、他人に委ねる。委ねておきながら文句は言う。建設的な意見であればいいけれど、ただ破壊的に批判する。これは他人事ではない。政治に対する態度など、自分自身の無自覚な日常的な振る舞いがこれにあたる。
 だから、せめていけばなにおいては、自発的に事を構えたいと思うし、周りにもそれを期待したい。

ホームレス 241119

2024/11/19

 いけばな教室の2階のベランダで、しばしば毛づくろいや昼寝をしている若い黒猫。ホームレスの野良猫で、さしずめ住民票の住所が私の教室のベランダ、本籍はお向かいさんの玄関先だ。
 本籍地には、彼のために食事を毎日自転車で持ってきてくれるおばさんもいて、お向かいの奥さんと育ての役割がシェアされている。水色の首輪も付けてもらい、病院にもちゃんと連れて行ってもらっている。一方、住所である私の方には庭木の茂みの自然トイレが完備されているし、近所で市民権を得ているので、別宅や別荘も数知れない。甘え上手なホームレスだ。
 さて、朝日新聞の投稿歌壇に現れたホームレスについて、三山喬のノンフィクション『ホームレス歌人のいた冬』がある。また、昭和前期の華道界に分け入った早坂暁の『華日記』もある。表現欲求が優先するあまり暮らしが破綻する人もいるし、暮らしが安定しているからこそ表現行為に邁進できる人もいるということを考えさせられる本だ。
 いけばなのためにホームレスになることも厭わない、またはそれに準じるような人々が実在した。今では考えられない。

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