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いけばな随想
diary

自由花 240710

2024/7/11

自由というのは、政治的には、独裁的な絶対王政や様々な統制による圧政などからの解放という場合に使われる。個人的場面では、物理的な拘束や村社会の不文律からの自由、また、道具や技術を使いこなせない不自由からの脱却など、何らかの脱制約状態を自由と称する。

いけばなの流派によって、「自由花」と称するジャンルがある。これは、形式ばった型から解放されたいけばなという意味だ。習い事のはじめは、必ず真似事からのスタートであるから、習い事には全くの自由という前提はない。全くの自由が欲しい人は、他人から習ってはいけない。

草月には、自由花と呼ぶいけ方がない。なぜなら「花はいけたら人になる」というイメージを常に抱いているから、どんな「型」でいけたとしても、最後にはその人らしくなることを許しているのだ。逆にいえば、束縛が好きな人は束縛されたままいけばなをするのもいいし、習い方の選択も自由なのである。

だから、敢えて自由花と呼ぶ必要があるのかと思うが、それは伝統の年月が長い流派においては必要だったのだろうと、同じ日本民族の1人として感じる。

オペレーター 240709

2024/7/9

スマホによって写真家の職業的立場が揺さぶられたと思ったら、今度は生成AIで画家の領域が侵された。私は、スマホ出現を機にデジカメを手放したくちだが、生成AIについては直感的に敵対心を掻き立てられ、絶対世話にはならんぞと思っている。

スマホを使って感じるのは、使う人間の創作力よりも、それを使いこなす操作力によってクリエイティブが支えられているということ。オペレーターとしてどれだけ手際よく操作できるかによって、この端末の創造的(と錯覚する)機能を生かすことができる。

30年前、フイルム式カメラを抱いてニューヨークへ行った。4百数十枚の写真を撮った。気分としては、獲物を狙うハンターだった。フイルム代や現像代がもったいないから、実際にシャッターを切るのは、心の中で切る数の10%にも満たない。撮影時点ではどう撮れたかわからないので、現像されて戻ってきた出来上がりに一喜一憂して楽しむのだった。

いけばなにも技術は要るが、オペレーター的要素は少ない。即席は可能でも量産はできない。そんな面倒な楽しさも、いけばなを好きな理由である。

創作と準創作 240708

2024/7/8

画家の作業は、その作品で“事件”をつくり出していくような、文字通り創作的作業がある。

ところが、写真家の作業は、事件をつくり出すのではなく、事件を見つけ出す作業だ。もちろんスタジオ撮影では、スタイリストの協力を得てまさにつくり出す作業もあるとは思う。しかし、たいていの場合、写真家の存在如何にかかわらず事件はすでにソコで起こってしまっていることが多い。事件そのものをつくり出してそれを撮影するというのは、極端にいえば放火魔的行為だ。

華道家の立ち位置は、画家と写真家の中間だ。花が開いてしぼむという生長過程には積極的に参画できない点で、事件は華道家の営みに関係なく世界中で起こってしまっている。目の前のヒマワリをもっと大きくすることも、バラの茎をもっと細くすることもできないし、ユリのおしべの花粉をパッと消し去ることもできない。事件そのものには関与できない立場でありながら、事件の関係者であろうと無理に立ち入って、事件を複雑なものに仕立て上げているのだ。

いけばなは、事件の捏造と記録の歪曲という、珍妙な準創作活動であろうか?

写真といけばな 240707

2024/7/8

画家が絵を描くとき、構想の過程でいろいろな言葉を思い浮かべながら、自分のつくるイメージをまとめていく(のだと思っている)。

カメラマンも、ライフワークとしての撮影に取り組んでいるときは、絵描きと同じように、自分が撮るべき写真に対して言語化しながら構想を組み立てていると思う。しかし、初めて会ったモデルを撮影するとき、彼の意識の中にどれだけの言葉が浮かんでいるだろう? たぶん言葉にならない印象を感じ取りつつ、「いいねえ、その表情たまらんねー」と呟きながら直観力でシャッターを切っているのではなかろうか。

いけばなも直観力勝負だ。いけばな展に出す作品の構想には相当の言語的作業を伴うが、日常的ないけばなでは、目の前の花材に対して直感的に手に取ることから始まる。

これは、日々の食材の買い出しに似ているともいえる。晩御飯の献立をどうしようかと思いながらスーパーに行き、牛肉とピーマンを炒めようかと思っていたのに、カツオのタタキの美味しそうなのが目に入って急遽そっちに手を出し、すっかり献立全体が変わってしまうようなライブ感が素敵だ。

変人 240706

2024/7/7

私が誰かに対して「変人!」と言う時、それは褒めている。「変態!」と指さす時は、無上に褒めちぎっている。「変な奴」と言うときは微妙で、時に軽蔑したニュアンスを含む。

私には、ささやかな変身願望がある。小学生の頃、自意識が強くなり赤面症が表れた。中学生で少し治まり、高校で克服したかと思ったら、上京した大学生時代に再び自意識が強まった。大勢の人前に出ると顔に大汗をかくのだ。成人しても治らず、長く苦労した。いろいろな意味で枯れてきたから、今は大丈夫だ。自意識過剰を克服したついでに、今度はもう少し過激な人に変身したい!

変身といっても美容整形には興味がなかった。もし、心の整形という医科があったら、行ってみてもいいが。心療内科や精神科は、私自身が不調を訴えているのではないからお呼びでない。

ここ数か月、いけばなのフィルターを通して日々を暮らしてきたので、標準的人間生活から逸脱していると思わぬでもない。しかし、今さら標準などというありもしない物差しには縛られたくないので、もっともっと過激な変人になることを画策しているのである。

講師の事