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いけばな随想
diary

木を見て森も見る 250729

2025/7/31

 いけばなを見る際、木を見て森を見ないような見方や、逆に森を見て木は見ないような見方をすることがある。
 気持ちが乗っていない人は、オペラグラスを持ち出さないと見えないくらい遠くから眺めて、早々に立ち去るということもあるだろう。また、いけばなには興味はないが植物には興味があるという人は、顕微鏡を貸し出したいくらいの至近距離で、目を見開いたり薄目にしたりして花の様子を観察していることもありそうだ。
 望むべくは、遠くからも近くからも見てもらいたい。人付き合いも同じ、と思わない? それが夫婦でも親子でも、時々肩を組んで時々は距離を置いてみる。業務上の大きい課題を背負ったときも、24時間イライラ考え続けるよりも、半日だけでも忘れて息抜きしてみると天啓を得たりする。
 いま、カメラの焦点距離について、ふと思い出した。①草に取りついたテントウムシを撮るときの短くて幅の狭い焦点距離、②野球の試合で友人だけを撮るときの長くて幅の狭い焦点距離、③旅先の町の風景を撮るとときの短長に広く対応した焦点距離。そんな感じで、木を見て森も見てほしい。

換骨奪胎 250728

2025/7/31

 先日は、枝葉末節にこだわる日本人気質に言及した。そういう日本人が突き詰めてきたものだから、華道も茶道も相当に細やかである。ところが、自分自身を振り返りお弟子さんたちの経緯を振り返ると、確かに枝先の重要性は高いものの、作風の幅を広げるためには十分でない。
 どんなに時間を使い労力を注ぎ込んでも、細部のマイナーチェンジではその努力が報われないのだ。最少の努力で最大の効果を上げるためには、換骨奪胎の意思が必要だ。新しい表現ができるようになるためには、新しい人間にならなくてはならないのだ。
 言うは易く行うは難し。しかし、そこを切り開いていくのが草月の本懐である。他人の作品を真似るのは、稽古としては正しい道だと思うけれど、それを展覧会でやるのは避けたい。また、自分の過去の作品を踏襲するのも手の技を究めるには適切かもしれないが、同じ表現をすることは自ら成長を止めることになる。
 人はラクな方へ引っ張られる生き物だから、無理をして新しい自分に入れ替えていかないと、新しい表現はできない。新しい表現をしないと、新しい人間にもなれない。

外国語いけばな 250727

2025/7/31

 外国人へのいけばなの体験機会を、何度か提供してきた。語学力のなさを痛感しながらも身に付けようとまでは思わないのは、年齢ゆえのことである。そんな言い訳をすると、みんなから言い訳自体をばかにされる。
 それはともかく外国人は、私の発する単語と身振りからあれこれ連想を広げてくれるから、実はやりやすいとも感じている。
 日本人に対しては、どうしてもそこに油断が生じ、説明が大雑把になりがちだ。相手は私の言葉を全部わかってくれるだろうという甘えた前提でいるから、つい観念的な言葉も使ってしまう。聞く方も、日本人同士だから体裁を気にして、わかっていなくてもわかった顏をして、掘り下げた意味を質問せずに流してしまう。こちらは、専門用語も噛みくだかないまま喋ってしまうし、相手も、賢そうな表情でフンフンと理解したふりをする。
 このように比べてみると、語彙力や語学力の問題ではなく、想像力や互いに理解し合おうとする熱意の方が、いけばなに対する理解も断然早くなるという気がする。みんな互いに外国人だと思う方が、コミュニケーションが進展しそうだ。

過剰な花 250726

2025/7/31

「過剰」というのは、説明できないくらいやっちまってるという感嘆の言葉だ。
 今度いけばな体験の方が来るので、準備を怠りなくやろうとしている。教室に使う部屋の掃除と片付け、使う道具の手入れと準備、使う花材のリストアップ、教える型とデモのシミュレーション。一段落したので、初代家元から四代目家元までの作品を写真で見てもらおうと思い、イメージが広がるようなラインナップで選び始めた。
 ところが、幅広く見せたいと思えば思うほど、常識的な範囲をいい意味で逸脱している作例が多く、それを見せてしまったらテキストの第1項に頭を切り換えることができるかどうか、不安が大きくなってきたのだった。テキストの第1項あたりは「型」が設計図のように示されているので、見よう見まねで自動的にいい作品ができあがる。
 さて、型の名残があるという点で、型破りというのはまだおとなしい。しかし、歴代家元の作品群には、とんでもなく過剰ないけばながゴロゴロしている。全く隙間がない、植物が見当たらない、老眼でははっきり見えないくらい小さい等々。見せない方がいいかな。

暗いいけばな 250725

2025/7/28

 芸術の世界では、おどろおどろしい絵や抑鬱されたような重く暗い絵も、それが狂気的な絵でも、傑作は傑作として歴史的に長くそして世界的に広く支持されてきた。名画のテーマは、「喜」「楽」「快」「生」だけでなく、「怒」「哀」「悲」「死」なども同じくらいの割合で存在する。
 絵として描かれた人間らしさは、見かけの美醜に惑わされることなく評価され受け入れられるにも関わらず、なぜか人間そのものに対する評価は偏ってくる。見かけの第一印象で人間性まで決め付けられることも多いから、油断ならない。可愛いヒロインは受け入れられやすく、コワモテの悪役は子どもは大泣きするし、大人まで一緒になって嫌うのである。
 いけばなは芸術に近いと私は思っていたが、世間はそうでもないようで、カワイイいけばなの好感度がどうしても高い。いけばなは芸術よりも人間に近いのか、暗い表情をしていては振り向いてもらえないようなのだ。
 それでなおさら、私は怖いようないけばなをしてみたい。オーブリー・ビアズレーのモノクロのペン画のような、宵闇を連れてきそうな耽美的ないけばなだ。

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