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いけばな随想
diary

間接化 241111

2024/11/11

 スマホを1日に3時間とか見た日には、とても情けなくなる。27歳のとき出会った三木清さんから、次の言葉をもらった。「(神に近い)コンセプターになりたかったら、新聞もテレビも見るな、直接自分で見に行け」私は即座に実行した。もし彼に再会することがあったら、きっと「スマホも見るな」と言われるだろう。
 24時間しかない1日の時間をどのように使うかで人生は変わる。一昨日たまたま百日紅の剪定をした。「百日紅の剪定」を検索したい欲求を抑え、例年通りに我流で剪定した。もし検索していたら、目の前の木を観察したりしなかっただろう。私は、スマホを見ずに百日紅の観察に時間をかけた。
 観察したから何かを理解できる保証はない。しかも、いつまでも観察し続ける時間もない。どこかで割り切って剪定し始めるしかない。で、「切らせてもらいますよ」と語りかけながら、太い枝を切る。どの箇所を切るかも、危なっかしいが勘である。毎年花を咲かせてくれるから、許してもらっているのだとは思う。
 間接的な情報量を増やすことが人生をどれだけ豊かにするか、考えどころである。

野菜と花 241110

2024/11/10

 野菜の摂取は、私が生きていく上で必須だ。花木の購入は、私が生きていく上で必須とまでは言いにくい。野菜の需要と花木の需要では、ここに差がある。しかし、花を日々の活動にしている私としては、食材の高騰以上に花材価格の高騰は痛い。
 人間の暮らしは必要な物だけでは成り立っていない。必要な物だけで生きるのは、単細胞生物でもできる。私は複雑な生き物なので、「未知」とか「変化」とか「意外」とか「無駄」とか「挑戦」とかいうことを制限されると死んでしまうのである。生に必要なものとともに、生に不必要なものもなくては生きていけないというのが人間だと思っている。
 そんな考え方は贅沢者の考えだと言われると、否定はできない。しかし、人間が生きていく方法は、金を使うか労力を使うか、その両方を使うしかなく、そのどれかを使って生きている者同士で妬んだりしても仕方がない。贅沢というのは金だけのことではなく、時間や体力や他人の力を借りる借用力など、いろいろな贅沢が考えられる。
 生きていくための贅沢として、私は花卉業界とその流通の維持を期待するのである。

花屋の付加価値 241109

2024/11/9

 一昨日の花の購入については、もう1つ重要な側面がある。今春だったか、バラを買いに行くと1本500円だった。「何じゃ、こりゃ!」と私が驚愕していると、花屋は「これは国産じゃけん。ケニアのバラなら400円、インドのバラは300円」
 国際化がそこまで進んでいたのか! とショックだった。飛行機に乗って、バラたちが世界中を旅しているのだ。水飲まなくて大丈夫? いやいや、どうやって飲んでるんだ? ネットでの購入では、こういう話の広がりは期待できない。商品の売買は物と金の交換でしかない。
 合理化されたネット取引市場は便利だが、対人の売買はそれに止まらず人間関係の構築という果実が付いてくる。時にダラダラした愚痴の言い合いで時間を食うけれど、間違いなく花に関する知識や花業界に関する知識が増える。
 AIでまかなえるだろう? という主張もあるだろう。しかし、AIは自ら進んで提案してはくれない。よい質問をすれば、驚くほどよい答えを出してくれるけれど、質問が下手だったら思うような答えを返してはくれない。生身の販売者は、いらんことまで話してくれる。

好みは不安定 241108

2024/11/8

 いま、やることが一段落してウィスキーを飲んでいる。今日はいくつかの仕事が順次一段落していったので、昼過ぎからずっと飲んでいる。足掛け10時間、飽きっぽいので、もう4種類目のスコッチだ。ボトルを空けてしまう飲み方ではなく、ブレーキを踏みながらアクセルをチョイとふかす感じ。
 目の前にはグレンファークラス10年。12年物に比べるとモッタリしているし、値段も少し安い。ところが、一段落後の憩いのマッタリ気分にはこのモッタリが合う。生きることは飲むことである、という異常な愉しさに満たされる。
 しかし、他のウィスキーの方が旨く感じられることが頻繁にある。その酒についての知識や気分や体調や天候などで、好みの順位は毎日入れ替わる。
 好みの花もいろいろだ。このところ、枝ものはアセビ、実ものはヤブサンザシ、花ものはデンファレとリンドウに思いを寄せている。昔からコスモスやマーガレットが好きではあるが、いけばなには使うほどの腕がまだ私にない。アネモネやラナンキュラスの寂しげな怪しさもずっと好きだが、これを使うと面妖ないけばなにしたくなる。

花の購入 241107

2024/11/8

 花を買うとき、かつては花屋さんに行って物色し、色や形を見極めながら買ったものだ。目の前にあるものから選んで買う。たいていのものは、同じ買い方をしていた。
 いまは違う。何はともあれネットで検索し、赤い花だとか小さい花だとか検索条件を変えながら、自分の意図が先行して購入したい商品が決まったりする。そして、それを花屋さんに示すと「そんなもん、今年はまだ咲いてないわい!」今年は異常気象で、まだ流通していないのだとか。
 こちらが買いたい希望を示すのとは逆に、花屋さんがこれを買ってくれないかなあという希望をそれとはなく出してくることがある。先日は、コウテングワの立派な漂白仕上げだった。客が1本欲しいと注文すると、花屋さんは6本1箱で仕入れなくてはならない。手元に5本もの在庫を抱えることになる。しかも、そんなに売れる代物ではない。で、花屋さんは黙ったまま、言葉にはしないで私の目を覗き込むのだ。
 かつてLPレコードをジャケ買い(ジャケットの好みで視聴もせず買うこと)していた頃のように、いまは花の様子を見て気に入ると買ってしまう。

講師の事