惰性と伝統 241113
2024/11/13
世の中には、私を縛るものがたくさんある。法律や社会制度、慣習や伝統、マナーや世間体など、これらは無意識に惰性で過ごしているうちは味方なのに、意識すればするほど自分に敵対してくる。
アメリカ合衆国の次期大統領がドナルド・トランプに決まった。意識的につくられた法律や制度も、無意識的に引き継がれてきた慣習や伝統も、再び大きく変わりそうだ。暗黙の了解という類のものも、ますます排除されていくだろう。言った者勝ち、やった者勝ちの傾向が強くなり、合衆国も相対的に強くなる。
さて、国際化が進むと、物の見方や感じ方も違ってくる。ジャパン・スタンダードがますますグローバル・スタンダードに取って代わられる。華道や弓道のような、目に見えている結果以上に目に見えない精神性を重視する世界は、既にジャパン・スタンダードですらなくなっているから、現代の自由が伝統の作法を凌駕してしまうのは仕方のないことかもしれない。
いけばなに限っても共通の感じ方や共通の美意識は打ち破られており、責任の一端を草月が担ってきた。前衛のいけばなと呼ばれた所以である。
狂気 241112
2024/11/12
映画『テルマ&ルイーズ』のラストシーンは、悲愴だけど至福でもある。
年齢的に人生のほぼ全体を見渡すことができるようになった今、人生を客観的に冷静に分析する虚しさよりも、主観的に感動をもって見直したいと思う。感動は特別なことの日常に対する落差の大きさによって生まれるので、同じ体験をしても日常の基準が違えば感動の大きさも人によって違う。祭りの興奮や高揚感、人の死に面した喪失感や墜落感、卑怯者に対する怒りや蔑みなど、人には喜怒哀楽の感情が備わっている。そのどこまでをAIが勉強していけるかわからないけれど、その感情が臨界点を超えて狂気や開き直りに至る可能性を常に抱えている点については、AIが追い縋れない生身の人間の独壇場ではないだろうか。
その点、植物界にも何かしら不思議な能力を感じることがある。先日、庭の金木犀が咲いたあと一度完全に散って、1週間後に再び満開になった。自然界の法則を無視した狂い咲きだと思った。
常識や規則が有効な世間で普通人として過ごすためにも、時折狂い咲きするような妄想や行動に走ってみることは大事だ。
間接化 241111
2024/11/11
スマホを1日に3時間とか見た日には、とても情けなくなる。27歳のとき出会った三木清さんから、次の言葉をもらった。「(神に近い)コンセプターになりたかったら、新聞もテレビも見るな、直接自分で見に行け」私は即座に実行した。もし彼に再会することがあったら、きっと「スマホも見るな」と言われるだろう。
24時間しかない1日の時間をどのように使うかで人生は変わる。一昨日たまたま百日紅の剪定をした。「百日紅の剪定」を検索したい欲求を抑え、例年通りに我流で剪定した。もし検索していたら、目の前の木を観察したりしなかっただろう。私は、スマホを見ずに百日紅の観察に時間をかけた。
観察したから何かを理解できる保証はない。しかも、いつまでも観察し続ける時間もない。どこかで割り切って剪定し始めるしかない。で、「切らせてもらいますよ」と語りかけながら、太い枝を切る。どの箇所を切るかも、危なっかしいが勘である。毎年花を咲かせてくれるから、許してもらっているのだとは思う。
間接的な情報量を増やすことが人生をどれだけ豊かにするか、考えどころである。
野菜と花 241110
2024/11/10
野菜の摂取は、私が生きていく上で必須だ。花木の購入は、私が生きていく上で必須とまでは言いにくい。野菜の需要と花木の需要では、ここに差がある。しかし、花を日々の活動にしている私としては、食材の高騰以上に花材価格の高騰は痛い。
人間の暮らしは必要な物だけでは成り立っていない。必要な物だけで生きるのは、単細胞生物でもできる。私は複雑な生き物なので、「未知」とか「変化」とか「意外」とか「無駄」とか「挑戦」とかいうことを制限されると死んでしまうのである。生に必要なものとともに、生に不必要なものもなくては生きていけないというのが人間だと思っている。
そんな考え方は贅沢者の考えだと言われると、否定はできない。しかし、人間が生きていく方法は、金を使うか労力を使うか、その両方を使うしかなく、そのどれかを使って生きている者同士で妬んだりしても仕方がない。贅沢というのは金だけのことではなく、時間や体力や他人の力を借りる借用力など、いろいろな贅沢が考えられる。
生きていくための贅沢として、私は花卉業界とその流通の維持を期待するのである。
花屋の付加価値 241109
2024/11/9
一昨日の花の購入については、もう1つ重要な側面がある。今春だったか、バラを買いに行くと1本500円だった。「何じゃ、こりゃ!」と私が驚愕していると、花屋は「これは国産じゃけん。ケニアのバラなら400円、インドのバラは300円」
国際化がそこまで進んでいたのか! とショックだった。飛行機に乗って、バラたちが世界中を旅しているのだ。水飲まなくて大丈夫? いやいや、どうやって飲んでるんだ? ネットでの購入では、こういう話の広がりは期待できない。商品の売買は物と金の交換でしかない。
合理化されたネット取引市場は便利だが、対人の売買はそれに止まらず人間関係の構築という果実が付いてくる。時にダラダラした愚痴の言い合いで時間を食うけれど、間違いなく花に関する知識や花業界に関する知識が増える。
AIでまかなえるだろう? という主張もあるだろう。しかし、AIは自ら進んで提案してはくれない。よい質問をすれば、驚くほどよい答えを出してくれるけれど、質問が下手だったら思うような答えを返してはくれない。生身の販売者は、いらんことまで話してくれる。