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いけばな随想
diary

伝統的な文化 241017

2024/10/19

いけばなの歴史は室町時代に遡る。600年の歴史ともなると押しも押されもせぬ伝統である。ただ、伝統という言葉には固定化された印象が付きまとうので、伝統文化と聞いて形骸化したつまらなさを感じる人もいるだろう。

しかし、1人の人間が生まれ、成長過程で身長も人格も変えていくように、いけばなも室町時代に生まれてから幾多の時代を経るうちに、その実態はどんどん変化してきたはずである。現代のいけばなが600年前とは全く違った見かけと中身を持っていても不思議ではない。

ところで、文化というのは、狭いジャンルのみで独立して成立できるようなものではない。いけばなを取り巻く様々な要素との関係性の中に文化が生まれる。建物、部屋の間取りやしつらい、衣服や花器の種類、入手できる花木の種類や量、気候や夜間の照明……、挙げればきりがない要素と共にいけばながある。

こんなに周辺の要素が変化しておきながら、いけばなだけが伝統的であると言い切るのは不自然だ。伝統的であると言うならば、変わっていないものが何なのか、いま一度問い直してみることも必要である。

成長の源泉 241016

2024/10/19

いけばな展(10月11~13日開催)を振り返って感じるのは、52人の出品者の作品のバリエーションが豊かだったことが大きい。大小もさまざま、キャリアもさまざま、スタイルもさまざまで、会場全体に自由な気分が充満していた。

団体競技でよく言われるのは、選手1人ひとりの個性が際立っていて、かつ組織としてのまとまりがあると強いということ。芝居やドラマも同様で、似たような外見や才能の俳優は2人も要らない。その点で、私たちのいけばな展は、各作品が一見バラバラなのに全体として「意外性に満ち、楽しくて元気がもらえた」という評価が多かったことからも、展覧会としては成功したのではないかと自負している。

独自性というのは他人との比較によって生まれるもので、他人の存在を意識しないところには生じて来ない。他人との比較を通して、もっと自分らしくありたいという気持ちは高まるもので、他人がいてはじめてオリジナリティは獲得される。

いけばなは伝統的文化に位置付けられているが、少なくとも草月には、常に今の自分を超えていこうとする意欲がみなぎっている。

発見と発明 241015

2024/10/19

1990年代、路上観察にハマっていた。大師匠の赤瀬川原平さんの率いる「路上観察学会」の流れを汲む「えひめ路上観察友の会」の流れを汲んで、私は「松山まちかど探検隊」を組織した。

路上観察の妙味は、たとえば、「ゴミ捨てるな!」と書かれた看板が用水路にゴミとなって仰向けに沈んでいる光景を発見し、その絵づらが「もののあわれ」を感じさせるようであれば即座に写真を撮って、「天に唾吐く堕天使」とかいうタイトルを付けて遊ぶという、遊び方の発明でもあるところである。発見と発明の二重の創作活動という、新しい芸術のありようを生み出した赤瀬川原平さんは、やはり天才だったのだ!

私たち凡人は、それを再発見するのが関の山なのだけれど、モノとモノ、モノとコト、モノとヒトなどなどを新しく関連付けしていくことで、いけばなの可能性は大きく広がると思うし、実際に草月の歴代家元も、現本部も、各支部も、そういう多面的な新しい関係性を創造しつついけばなをやっている。

そうして出来上がった作品もさることながら、それを生み出す姿勢と行為こそが草月の魅力だろう。

イメージの羽ばたき 241014

2024/10/18

人はゼロから何かを生み出すことはできない。いけばなを創作するにも、花材のことを何も知らないでそれを使うことはできないし、ネジ釘やワイヤーの存在を知らずに竹を組むこともできない。

また、先人の作品を知っていて、いけばな世界の広がりを地図化することができるから、自分の進路を設定することも可能になる。できれば、これまで誰もつくらなかったもの、さらにできれば、この先も誰もつくらないものを目指したい気持ちがある。目の前で見た他人の作品の発想や形状の一部を取り込みたくなるものだけれど、目に見えていないものをつくりたい欲求が上回る。

しかし、時には人の作品への嫉妬や、世間の目に対する躊躇などによって、自分のイメージが全然羽ばたかないこともある。心が乱れると小さな悪いイメージがたくさん湧いてきて、想像力が閉ざされ、些細な現実的問題に右往左往することになる。

個性的な作品を創作するという場合でも、結局は他人や他の作品の一部または全体的イメージを模倣して組み合わせているに過ぎないが、この諦めを受け入れることで、改めて再出発ができる。

伝えることの難しさ 241013

2024/10/18

今日は「愛媛県支部 草月いけばな展2024」の最終日だった。私の作品は見る人に雄弁に語り得たであろうか。

さて、アナウンサーの喋り方の練習や俳優のセリフの説得力の訓練では、いわゆる棒読みが如何に人に伝わらないかを教わる。

大事なのは「間」の取り方だという教えが初級である。句読点を意識して区切りを明確にすることで、意味のまとまりをつくり出すことができるし、聞き手が内容を咀嚼する時間を与えることもできる。話題転換のきっかけをつくることもできる。中級の教えになると難易度は上がる。たとえば、本当に伝えたいセリフは、大声を張り上げるのではなく逆に囁くように喋れと言われたりする。その方が聴衆は聞き耳を立てて集中できるのであると。

いけばなも同じで、見せどころを盛り過ぎると観客が息継ぎできずに苦しむことになるし、大袈裟に装い過ぎると大声を張り上げる俳優に対するように耳を塞いでしまう。何事も準備の段階では前のめりになって抑制が利かないが、終わってからは冷静に自己評価できたりもする。徹頭徹尾コントロールするというのが、上級の教えだ。

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