小さな変化 250710
2025/7/22
いけた花が、少しずつ咲き開いていく。そして気付かぬうちに、1日、1日と萎れ始める。30分毎に見える花の変化は小さくても、丸1日の変化は目に見えて大きく、3日後の変容ぶりは計り知れない。
4歳のウチの猫は、1歳になるまでの変化は大きかったが、2歳以降の体重はあまり変わっていなかった。ところが、この春から数か月で600グラムも太ってしまった。私の体重が4キロ太った時期と重なるという不思議は放っておくとして、日々全く気付かなかったのに、改めて4ヶ月前の写真と見比べると確かに大きくなっている。
花であっても猫であっても人間であっても、相手をどれくらいの頻度で見つめるかによって、相手の変化に対する感じ方が違ってくる。小さな変化を見落としてばかりいると、気付いた時には取り返しのつかないことになっている(どうでもいい私の腹まわりの話)。
かといって、四六時中、相手のことを見つめ続けるというのは偏執狂の域に達してしまうことにもなりかねないが、通帳残高や株価ばかりを見つめ続けている人に比べると、人生を謳歌していると言えなくもない。
消すということ250709
2025/7/22
野山では無数の草花が風景を成しているので、目を付けた「その花」を撮ろうと思っても、上手に構図を決めなければ「他の花」も一緒に写って、どれを撮ったのかわからない写真になる。
いけばなでは、「そこに」いけると決めるとき、背後にあるポスターがなければもっといいのにとか、横の本棚が邪魔になるとか、気になる物が周辺にいろいろあって困る。いけばなのために設えられた空間というのは、なかなかない。そう考えると、制約は多いとはいえ、床の間というのはありがたい空間だった。
花をいけるとき、野山とは違って、「そこに」いけるならば「そこ以外」からは基本的に花を排除する。へそ曲がりな言い方をすれば、花をいけるということは、周辺空間から意識的に花を排除するということでもある。ショットバーでいけるときも、「そこ」と「あそこ」以外の花は排除する。
ホテルや旅館に行って、ロビーや玄関まわりを見ると、そこの人たちがどれくらい空間に気を配っているかがよくわかる。自分のことは棚に上げて、気配りしている施設に共通するのは空間からの物の排除が綺麗なことだ。
着崩した花 250708
2025/7/22
子どもの頃、私にはハンサムな友人がたくさんいて、彼らが羨ましかった。私は痩せてガリガリで、それも嫌だった。とにかく思春期である。少年にとって容姿は人生最大の問題で、完全無欠な人間に憧れた。
憧れの対象の1人はドイツのサッカー選手で、後にドイツの代表監督も務めたベッケンバウアーだった。日本人の顏は、欧米人の顏には負けてしまうと感じていたし、雑誌のグラビアでもアグネス・ラムなどのエキゾチックな可愛さに目が引かれていた。
海外旅行に行き始めたのが29歳で、その頃からやっと欧米コンプレックスが抜け、美意識や趣味も変化したように思う。きめ細かい完成度よりも、粗削りな素朴さに美しさを感じるようにもなった。偏執狂的な細密画も好きではあるが、これはダークサイドの趣味として秘めておきたい。
草月のいけばなに入門したのは必然で、ほかの流派に感じる緻密さに対して、草月には気取らない雑さみたいなのがあって、その雑さというのは、一張羅の服を敢えて着崩しているようなカッコよさを私は感じたのである。ちなみに今は、ハンサムコンプレックスもない。
枝葉末節 250707
2025/7/12
七夕である。願い事を書いた短冊を吊るすために、竹を使う。笹だろ? という話もあって、厳密には竹と笹は異なる。しかし曖昧なままでいいんじゃないか。笹竹という言葉や竹笹という言葉もあるし、生活上はごちゃ混ぜである。
「吊るす」という表現も、「吊る」のではないかという議論があるかもしれないが、短冊の場合は吊るすのが正しいようだ。また、七夕飾りは一夜飾りとされている。織姫と彦星も、年に1度しか会えないから「願う」ことに繋がる。年に365日会えるとしたら、むしろ会わない日があることを願う。じゃあ2晩しか会えないとするならばどうなんだ? と食い下がるような人は三夜でも十夜でも飾っておけばいい。
すべてにおいて枝葉末節にこだわっていると、神経が衰弱する。とはいえ、いけばなをする時に枝葉末節にこだわらなくてどうする? と確かに私も教えられた。
しかし、いけばなでのこだわり方は多様だ。自分の癖として心身に溜まっている垢を取り除くように枝葉末節をバッサリ切り落とすのも有りだし、逆に枝先の1輪の花を選び取るため、他を全部取り除くのも有りだ。
一貫性 250706
2025/7/6
「一貫性がない」という批評は、たいてい否定的だ。一貫性は、徹底的に極めるための必要条件だと思う人が多いと思う。
私はへそ曲がりだからそんなに厳密には考えない。頭の中に、1本の長い線を引くイメージを思い浮かべるとしよう。幅が1mmの細い線だ。この線の上を足を踏み外さないで歩き続けることが、一貫性のイメージである。では、幅1kmの太い線を引く。ここまで太いと、広い道と呼ぶべきかもしれない。この広い道を歩き続けるとき、右へ行ったり左に来たりしても、それを一貫性がないとは断じられまい。
私のいけばなは、自分が演劇の演出家になったつもりで、花材を書家が引いた墨文字の線に見立てたり、体操選手に見立ててみたりと、花材をいろいろに見立てることが多い。この前など、三段跳びの選手の空中姿勢が目に焼き付いて、そんなイメージのいけばなができたらいいなと思った。
いけばなにはたくさんの流派があり、芸術にはたくさんのジャンルがある。そういうものをちょっぴり舐めたり齧ってみたりしながら、自分の中では草月の広い道を一貫して歩いている自覚がある。