汀州Japanlogo 汀州Japanlogo

いけばな随想
diary

誰かと何かを 250703

2025/7/4

 販売促進(PR)の仕事を請け負う企画コンペでは、競うための人材調達として、デザイナーやコピーライター、カメラマン等のプロフェッショナルの獲り合いに始まり、ライバル社の過去の企画や他社の先進的デザインの研究や模倣など、勝つために何度も徹夜した。ビジネス世界での競争は、楽しかったけれど消耗戦であった。
 人間の経験を集積して賢いAIは、人間特有の感情的な弱味がないから、競争的共創も共創的競争もやってしまえるだろう。だが、私たちは一世代分の経験しかない人間的人間なので、誰かと何かをやると競争か共創のどちらかに傾きがちだ。
 隠居仕事では、誰かと何かを競うことが第一義的ではない。だから共創ができるはずだ。そして、共創には世界観や物語の共有が必要で、その骨格がしっかりしていると、何を何円でやるのかという枝葉の利害関係に左右されない。
 暮らしの中にいけばながある美しい世界観や物語を紡ぎたいと思う。必要ならば「いけばなの効用」などという美しくない武器を準備して、具体的に何に何円で協力していただけるのか、説き伏せることも厭わない。

仕事は楽しい 250702

2025/7/4

 時代劇では、封建制度下の士農工商の身分が明確である。職業的な可能性を拡げる挑戦を、昔の人々が実際に思いつかなかったのか諦めていたのか、自己実現の欲求を持っていたのかどうなのか興味がある。
 現代は、仕事である以上、成果だ評価だというものが付き纏ってくる。そのように宿命づけられた仕事を通した自己実現が、若いうちは人生のテーマだったが、そういう仕事を退職した今は、何となく江戸時代の隠居みたいな自分の立場を感じている。
 社会生活をしている以上、最低限の報連相や時間管理の作業はなくならない。しかし、世俗的な意味での成功目標から解き放たれ、何月何日までに何円の利益を上げなければならないというノルマを捨て去って、それこそ悠々自適な立場になっているのかしらん? と半分夢の中で過ごしているような怠けっぷりだ。
 今日のいけばなの稽古に、1年ぶりに来てくれた人がいる。自分がどうでも良くなってくると、他人に対しても、せっつかなくて済む。会ってみると1ヶ月ぶりくらいの感覚で、特に「何しよったん?」と聞く必要も感じず、いけばなをただ楽しめる。

ビジネスは厳しい 250701

2025/7/1

 辞書的な意味でなく、私の感覚で仕事とビジネスを比較する。背景には、仕事の手は抜きたくないが抜けることがあるという問題意識があった。
 いけばなの仕事を振り返る時、数日後の段階での自己採点は90~110点くらいで、数週間後には70~90点、数か月後には50~70点に下がり、1年後にはもう欠点の気分だ。
 私は3年前までビジネスマンだった。ビジネスの評価は自己採点ではなく、売上や利益の明白な数字がモノを言う。だから数字が上がっていれば仕事内容はあまり問われなかったし、私自身に不満があってもそれは搔き消された。つまり、ビジネス上の成功は、必ずしも自分自身の仕事の満足と相関関係ではない。ビジネスでは、自分も含めた諸条件がうまく組み合わさったら理想的な成果を得られて、それは、ひとり私だけの仕事ではなく、仲間の仕事が積み重なり連携し合って「私たち」の評価になり、その評価は時間を経ても基本的に変わらない。
 ビジネスにおける自身の評価は、物差しの目盛が変わるたびにコロコロ変わる。成長している間、自己評価は下がり続けるのも当然だろう。

アイディアは手から 250630

2025/6/30

 うんうん唸っていても、いけばなのアイディアは生まれてこない。だから、私はたいてい初めにスケッチを描く。それは殴り描きで、紙の上に雑な線や丸があるだけのものだ。そういうのを何枚も描いているうちにインスピレーションがやってきて、少しずつまとまりのある形が現れてくる。
 この段階が数日間から数週間続く。「一旦忘れる」ことを何度か繰り返すと、不意に「いいこと」を思い付いたりしながら、イメージがより明瞭になってくる。それでもまだ決め切ることはできない。所詮、頭で考えただけのものであり、頭の手先として手指が動いたに過ぎない。
 次の段階は花木の実物での手遊びだ。枯れものはいつも手元にあるので、そういう物も引っ張り出してくる。手で硬さや重さを確かめるように手遊びしていると、スケッチの段階ではわからなかったことや、可能なこと不可能なことなども見えてくる。こんな面倒な手間を掛けるのは、いけばな展の時だけだけれど、ふだんのいけばなでも、花材を見ただけで思い浮かぶイメージに比べて、花材を触りながら思い浮かぶイメージには大きな飛躍がある。

1杯の飲み物 250629

2025/6/30

 100円ショップ、ファストフード、缶コーヒー等々、効率よく大量につくることで利益を得る道がある。これはスローフードと逆向きで、心情的には賛同しにくい。しかし、手軽さに惑わされ、それらを受け入れて生活する私なのである。
 心を込め手間をかけたものが良い商品であるとは一概に言えないし、良い仕事振りであるとも言い切れない。それでも人は、マシンメイドにどっぷり浸かって暮らしながら、ハンドメイドを上位に置きたがるのはどういうわけだろう。
 今日、バーテンダー協会のカクテルパーティがあって、会費9千円。愛媛県内のバーテンダーが、腕によりをかけてカクテルをつくってくれる。思い込みかもしれないが、家で飲むより外で(バーで)飲む方が美味しいし、居酒屋で飲むよりバーで飲む方が美味しい。それは、グラス1杯の飲み物に対する手間の掛け方の違いだろう。
 それでも、手間を掛け過ぎると冷たい飲み物が温くなる。その点では、いけばなの1瓶も似ている。違うのは、口に入るカクテルの味は一定であることを目指し、目に入るいけばなの美は常に新しさを目指すことだ。

講師の事