マナー 240630
2024/7/1
マナーというのは明確なルールではない。また、目の前にいる相手に対するエチケット(気遣い)とも異なる。マナーは礼儀と訳されるが、私は社会規律とか社会常識と訳したい。しかし、そんな日本語訳の方がピンと来ないくらい、マナーという言葉が日本語化しているこんにちである。
私が自分自身に戒めている1つが、悪口や陰口をたたかないこと。だいたいにおいて、世間で禁止されていることを隠れて行う楽しみは蜜の味だし、禁止まで厳しくなくても後ろめたさを伴う行為は甘い味がする。だから私はヘビースモーカーで大酒飲みだった。ほかにも、ささやかな悪さをしたし、悪口や陰口もたたいた。悪口をたたき合えるくらい仲良くしている友人なら、これも甘い味なのだが、そうでない場合はシャレでしたと逃げるわけにもいかず、苦い味になる。
マナー違反かどうかの境界は人によって違う。
仮に故人の美術作品を並べる場合は、学芸員なりディレクターが適正と思う間隔で並べるから全体として美しい。生きた人だけのいけばな展では、隣の作品との相互の影響が云々されるので、油断禁物である。
免状 240629
2024/6/30
免許というと公的機関が認可を下す資格で、免状というと様々な団体が任意に下すお墨付きという感じ。その分類に照らすと、私がこの生涯で手を付けたいろいろな仕事は、全部無免許だった。無免許というと聞こえが悪いので、免許いらずと言い換えて、政治家秘書、画廊・喫茶店従業員、デザインの自由業、広告・出版の会社員、専門学校教員等々。
ひとくくりにすればサービス業だが、私は好き嫌いが激しかったし、人におもねることが嫌いだったし、人を立てることも苦手だったので、結果的にはお客様に上質なサービスを提供できないまま退職してしまった。
若い頃にはドクターの呼称にも憧れ、国家資格の何かを得たいという気持ちになったこともあるが、大学4年で国家公務員上級職試験会場を受験途中で退室してからというもの、試験嫌いが身に付いてしまって、試験とか資格の話からはいつも逃げ腰になるのだった。
いまは、いけばなの師範の免状で人に教えている。趣味かと問われれば趣味かもしれないし、アマチュアリズムの性格が強いプロフェッショナルだという自覚もあるから、仕事でもある。
猿真似 240628
2024/6/29
猿真似は、人間がそれをやっていると否定的に評価される。しかし、実際の猿社会でそれが行われている様子が報告されていて(『想像するちから』松沢哲郎著)、子猿が親猿を模倣して成長していくさまが肯定的に描かれる。子猿は、親や先輩の模倣を繰り返しているうちに、他者の気持ちが理解できるまでになるそうだ。
人間の私は、いけばなの型を文字通り猿真似してきたが、それを通して家元の気持ちまで理解しようとしてきたかと問われると、答えに窮する。猿以下の形骸的な猿真似だったとしか言いようがない。
また、人間の私は(仮に猿だったとしても)、いけばなのやり方についても自分自身が好む行動の癖が邪魔をして、新しい行動様式を広げにくい。だから、もし、テキストに示される「花型」がなかったら、私のいけばなのレパートリーはずいぶん幅が狭く、味気ないものになっていたと思う。
猿真似する見本が幅広く用意されていることは、私が抱えている狭苦しい好みの範疇を押し広げ、自分だけでは試みることのなかった作風を真似してみるという、可能性を広げる機会を用意してくれる。
花粉 240627
2024/6/28
我が家の猫は長毛種で、1本1本の毛が極めて細い。触るとふわっとして心地よいが、そのたびに毛が何本か抜けて空中に舞い、必ず私の口髭や睫毛に絡む。目や口や鼻の粘膜に纏い付かれるので厄介だ。
私は、木肌や葉っぱ、花びらやバラの棘さえも触るのは好きなのに、花粉や木くずが目鼻に入るのは困ったことである。
あるとき綺麗に花を飾ってある飲食店に行って、初めての店だったので会話のきっかけを「感じのいい花ですね」で始めようとしたら、くしゃみが出た。私が花瓶の花を見ていたことを目ざとく見つけていた店のマダムが、「すみません。(花を)どかしましょうか?」と恐縮した感じで言うので、「いえいえ構わないんです。おかしいな? 花粉症でもないのに」と嘘をついた私。なんて不毛で不幸なやり取りだろう!
病院で処方してもらったアレルギー薬を毎晩飲んでいるからか、花粉症が出ないときもある。花も、種類によって、見ているだけならおとなしい時も、見ていただけなのに花粉や胞子を撒き散らして攻撃してくる時もある。目薬を挿し挿し、仲良くしようよと語りかけるのだった。
バイタリティ 240626
2024/6/27
1900年代の華道界を細かい取材に基づいて表した小説(ドキュメンタリー?)『華日記(早坂暁著)』を読んで衝撃を受けた。私は、華道界に対して、ひたすら「済みません。済みません」と声には出さずに謝っていた。
この衝撃の源は、登場人物全てがバイタリティに富んでいたことだ。自己PRへの貪欲さ、競争への勇気と体力、1つに没頭することのできる諦念の激しさ等々、私がかつて持ったことのない覚悟や情熱が描かれていた。
描かれているのが草月の人であるか、池坊の人であるかは、もうどうでもよかった。その時代の日本の「いけばな人」が共通に持っていたであろうバイタリティ、それが「あった」ということがわかっただけで、もうそれ以上の具体的なことはどうでもよかった。あの人たちは、華道のみに生きていたのかもしれない。
私は、心筋梗塞で救急搬送されたとき、担当医に「私はタバコを吸うために生きてきましたから」と憎まれ口を叩いて気を悪くさせた。次の言葉を時々思い返す。「人はうまいものを食うために生きているのか、それともよりよく生きるために食っているのか」