好みは不安定 241108
2024/11/8
いま、やることが一段落してウィスキーを飲んでいる。今日はいくつかの仕事が順次一段落していったので、昼過ぎからずっと飲んでいる。足掛け10時間、飽きっぽいので、もう4種類目のスコッチだ。ボトルを空けてしまう飲み方ではなく、ブレーキを踏みながらアクセルをチョイとふかす感じ。
目の前にはグレンファークラス10年。12年物に比べるとモッタリしているし、値段も少し安い。ところが、一段落後の憩いのマッタリ気分にはこのモッタリが合う。生きることは飲むことである、という異常な愉しさに満たされる。
しかし、他のウィスキーの方が旨く感じられることが頻繁にある。その酒についての知識や気分や体調や天候などで、好みの順位は毎日入れ替わる。
好みの花もいろいろだ。このところ、枝ものはアセビ、実ものはヤブサンザシ、花ものはデンファレとリンドウに思いを寄せている。昔からコスモスやマーガレットが好きではあるが、いけばなには使うほどの腕がまだ私にない。アネモネやラナンキュラスの寂しげな怪しさもずっと好きだが、これを使うと面妖ないけばなにしたくなる。
花の購入 241107
2024/11/8
花を買うとき、かつては花屋さんに行って物色し、色や形を見極めながら買ったものだ。目の前にあるものから選んで買う。たいていのものは、同じ買い方をしていた。
いまは違う。何はともあれネットで検索し、赤い花だとか小さい花だとか検索条件を変えながら、自分の意図が先行して購入したい商品が決まったりする。そして、それを花屋さんに示すと「そんなもん、今年はまだ咲いてないわい!」今年は異常気象で、まだ流通していないのだとか。
こちらが買いたい希望を示すのとは逆に、花屋さんがこれを買ってくれないかなあという希望をそれとはなく出してくることがある。先日は、コウテングワの立派な漂白仕上げだった。客が1本欲しいと注文すると、花屋さんは6本1箱で仕入れなくてはならない。手元に5本もの在庫を抱えることになる。しかも、そんなに売れる代物ではない。で、花屋さんは黙ったまま、言葉にはしないで私の目を覗き込むのだ。
かつてLPレコードをジャケ買い(ジャケットの好みで視聴もせず買うこと)していた頃のように、いまは花の様子を見て気に入ると買ってしまう。
自然に出来上がる作品 241106
2024/11/8
花で手遊びをしていて、気付けばいけばなが出来上がっていた。こういう無意識につくられた作品は、作為が働いていない点で自然的だと言ってしまいたくなる。昨日は空間的な自然を思い浮かべ、今日は精神的な自然を思い浮かべている。
しかし、私自身が作為的でなかったとしても、私のいけばなの癖は体に沁み込んでいるのではないか。無意識だったかもしれないけれど、体が覚えていた記憶が、いつでも私のパターンを描いてしまうように方向付けされている可能性は大きい。
特段に意識していなくても、人は動作ひとつにしても持っている癖が勝手に振る舞う。むしろ意識していないときほど、癖はことさら確実に立ち現れる。私は自分の癖について、あまりたくさんの知識を持っていない。だから、自然に振る舞っているつもりであっても、深層に隠れた自分が表層の私を易々と操っているのだ。
人は、法律とか慣習などの社会的拘束力に縛られているというよりも、自分の個性により強く縛られていて、「自然に湧いてきたインスピレーションによって作品ができちゃった」などということはないのである。
自然と不自然 241105
2024/11/8
40歳代になって、アレルギーの症状が表れた。子どもの頃から海や川で泳ぎ、山でキャンプをしていた自分だっただけに、自然のフィールドと友達でなくなったような気がしてショックだった。しかも、いけばなを始めた時期と重なっているのが皮肉だ。以降、薬を飲んでいるにも関わらず花粉症の症状がしばしばやってくる。アレルギー検査を2度行ったけれど、原因は分からずじまいだ。
人口減少で都市開発も一段落してきた日本ではあるが、山と町(里)が近付き過ぎて「里山」がなくなってきたと専門家は言う。熊や猿が、人の生活圏に頻繁に出現している。熊や猿に言わせれば、逆に「最近ガンガン来るんよねー、遠慮のない人間が」と言われている(はずだ)。
そもそも自然というのは、人間が暮らす集落も含めて呼ぶのか、人間が立ち入らない聖域を指すのか。人間が働きかけた自然は、もう自然ではなくなるのか。
切り花は、もう不自然になった自然である。だから、いけばなで自然を表現することはできない。人間の作為と無縁なのが自然だとすれば、自然を売り物にした観光も不自然極まりない。
イメージの具体性 241104
2024/11/4
これまで、言葉による表現ははっきりしていて、イメージはぼんやりしているというふうに感じてきた。しかし、改めて逆ではないかという気がする。
言葉は実態を持っていないし、言語化すればするほど対象は抽象的な概念に遠ざかっていくように感じる。たとえば「伝統と現代性を併せ持った草月流」と聞いて、誰が「わかった」と納得するだろう。逆にイメージはといえば、絵に描けるように具体的なのだ。「草月のイメージ」というと、私のアタマにはたとえば勅使河原蒼風から霞、宏、茜という「代々の家元の顔」が浮かんでくる。極めて具象的なのである。
生活スタイルが変わると、その生活を説明していた語句も変わる。昔はいけばなと聞くと、実際にいけている様子が巷に溢れていたから、「お茶と一緒に習っていたアレ」ね、とすぐイメージできたかもしれないが、いまの若者で、いけばなと聞いて「アレ」ね、とすぐイメージできる人がどれだけいるだろうか。
イメージは、生身の体験から生まれるものだ。言葉でわかったフリをしても、何もイメージできないという事象がとても多い現代なのだ。