鋏の価値 240615
2024/6/17
昨日、貴重品は花鋏というところに落ち着いた。しかし、花鋏を自分で鍛造できない以上、お金を出して買うしかない。ということは、大事にしたい花鋏を手元に置くためには、それに先立つお金が必要なのだ。お金は何にでも交換できる。しかも、お金は目減りしない(為替等の影響は度外視する)。
一方、花鋏は同程度の価値のものとも交換しにくい。わらしべ長者のように、価値の高い物と交換するのは困難だ。そんな鋏に貨幣価値はない。貨幣価値のない鋏が、売り払う際に安く値切られるのは仕方ない。でも、カネがすべてというのは悔しい。
千利休や勅使河原蒼風が使った鋏だったら、その価値はどんどん上がり続けるだろうが、私の使い古しの元値6,000円足らずの鋏は、錆が浮けば浮くほど価値が下がっていく。そんな鋏が貴重であるためには、せめて何か世間を唸らせるような物語が必要だ。室町時代の骨董であるとか、火星人にもらったとか。その鋏が純金製だったりしたら、物ではなく貨幣に近い。
そんな訳で、別に取り柄のない花鋏は、使って使って使うことで、使用価値を高めるしかない。
貴重品は鋏? 240614
2024/6/16
ウイスキーが売り物だから、知人のショットバーは、地震に備えてボトルが落ちない工夫を凝らしている。私の貴重品は? お金は大事だけれどまあ品物ではないから除外すると、品物としては花器なのかもしれないと思い至った。しかし、その貴重なはずの花器は、いけばな教室の至る所に散らかっているし、強度が不安な棚に無造作に並んでいる。
さっそく明日ホームセンターに行って、滑り落ち防止のストッパーとして細い角材でも購入し、取り付け作業をしなくてはいけないと思った。
ところが、貴重品が時計だとか指輪だったら身に着けられるし、財布やスマホでも身近に置いておけるが、花器となると肌身離さずというわけにはいかない。と考えたとき、花鋏は非常に身近な道具だし、私の立場を考慮すれば花鋏こそが私の貴重品ですと言うべきかもしれない、そう思った。日本人気質というものがあるならば、その1つは昔から「道具」に対する愛情の抱き方が半端ではないことだ。
そんなことに薄々気付いていた今日この頃、私はやっと、鋏をちゃんと磨き始めた。いけばなを始めて24年目のことである。
陶酔 240613
2024/6/16
自分のいけばな作品に対して、誰がいちばん関心を持っているか? まぎれもなく自分である。他人の作品を見てあれこれ言うのは、当人を前にしたときの社交辞令であって、当人がいなくなると交わした言葉の半分も覚えていない。
同じように他人のほうも、私のいけばなに対して、私以上に興味があったりはしない。彼らも彼らで、やはり私がそこにいるから、義務として社会性のある人間としてコメントをひねり出しているに過ぎない。
いけばな展で、求めていないのに他人の作品を批評する人がいる。それは、自分の作品に自信がないことの裏返しである。私は自分の作品に陶酔しているから、他人の作品があまり気にならない。陶酔していることは自信があることとは異なるけれど、陶酔は相対評価に無縁であるところが面白い。自信のあるなしは、すでにその時点で自己評価を伴っている。私に言わせれば大損である。
会期中は自己評価しない、反省は全てが終わってからでいい。会期中は自分の作品に自己陶酔して、誰彼構わず笑顔を振り撒くこと、それが見に来て下さったお客様への礼儀ではないだろうか。
作品の大きさ 240612
2024/6/14
床の間がない住宅が増えている一方で、造り付けのクローゼットが増えて各部屋がすっきりしたため、昔に比べて花を飾る場所には事欠かない。
おしゃれを感じさせてくれる家は、花やオブジェ、絵画などの装飾が小さくて、壁面や窓の広さを一段と引き立てて贅沢さを演出している。もちろん大きな絵を掛けている家があるが、その壁面はことさらに大きい。物が全くない空間は寒々しいが、控えめな装飾があると贅沢さを感じる。装飾を多くしたいなら、逆に徹底して過剰にすべきだ。
大きな皿の中央に手の込んだ料理が小さくちょこっと盛り付けられた料理が、単品3千円。これは高級ホテルなどで供される。一方、皿に盛り上がった米の山から飯粒がこぼれ落ちている大盛りチャーハンが、スープ付きで680円。町の中華食堂だ。
いけばな展に出す作品を構想し始めているが、なかなか考えがまとまらない。その理由は、誰に対してどうウケを狙うかという不純な動機が抜けないからだ。「いいね」をたくさんもらいたいという本心と、孤高であってもひねくれていたいというインテリ気質のせめぎあいである。
質感の好き嫌い 240611
2024/6/12
ヤン・ガルバレクという演奏者がいる。香り高くコクのある蜂蜜のように伸びるソプラノ・サックスの音を出す。ガトー・バルビエリという演奏者がいる。鍋底の割れた隙間から砂漠の風と一緒に吹き出すようなテナー・サックスの音だ。彼らが演奏する曲はもちろん好きだが、その前に音そのものの好みがある。
絵に関しても似ていて、写真でしか見たことがなかった絵をあるとき実物で見る。小さな写真では筆使いの微妙さを捉え切れなかったが、実物には好きな筆使いのタッチが表れていて、一段と好きになったりする。画面の質感が好みでない場合、その作品をなかなか好きになれない。
食べ物も似ていて、寄せ鍋ひとつ取り上げても各家庭の味がある。出汁の味もさることながら、白ネギや人参の切り方や大きさ、鶏肉の大きさや硬さ、出汁と具材の割合だったりの違いで、大いに口当たりが異なるわけだ。
いけばなの場合は、花木自身がその質感をまとっているから、いける人が花材個々の質感に手を下すわけにはいかないが、やはり組み合わせの分量や空間の取り方などで、作品の肌合いは大いに変わる。