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いけばな随想
diary

競争 240610

2024/6/11

私は競争が苦手である。いけばな展は決して競争ではないが、自分で勝手に競争しているような気分になる。自分を押し出していけばいいのだろうが、他人を差し置いて俺が!俺が!と図々しく出ていくというのが苦手で、だからいけばな展も苦手である。

出ていくことを恐れるがために、自覚なく引いてしまう。だから、私の作品は、引き算に引き算を重ねてどんどん貧相になる。そう分かっていても止められない止まらない中途半端な引き算なのだ。そのことに後で気付くのだが、いけ終わるまで無自覚なのだった。

さて、方向性として侘び寂びに徹しようとも、攻める気持ちで充実した作品をつくれば、そこにはある種の引力が働いて見る人の心を掴むことができるのだろう。多分、そこまで徹底したつくり込みができていないから、それを胡麻化すために競争を引き合いに出して言い訳しているのである。能天気だった自分はどこへ行ってしまったのだろう? この歳をしていまさら恥も外聞もないだろう?

「いけたら花は人になる」のだから、逆にいけた花が強ければ、いけばなによって人も強くなれるだろうか?

前向きな感じ 240609

2024/6/10

一昨晩、バレーボール・ネーションズリーグ・男子のポーランド戦をTVで観た。それに続く番組で、日本バレーボール協会会長の河合俊一氏が大いに語っていて、彼の鷹揚とした明るいキャラクターは徹底していた。昨晩はスロベニア戦で、西田選手がテンション絶頂のまま闘志を出し切っていた。

この世代の異なる2人の共通点は、「臆面もなく前向き」なところだ。アスリートとしてのストレスに晒されているはずなのに、それが言動に出ない。この2人が能天気でないとすると、自己肯定感が強いからだろうか? セルフコントロールが上手だからなのだろうか?

少年時代、私は完全に能天気で陰がなく、常に明るく前向きだった。18歳を境に、陽キャラから次第に陰キャラへの道を歩み始めた。そして今は、多少は人生経験を積んだため程々に陽の素振りを見せられるとはいえ、油断をすると弱気や深刻さがにじみ出る陰キャラを自覚していた。また私は、「臆面もない前向き」が嫌いなはずだった。

それなのに、いけばなの人になってから、「気ままで楽しそうだね」「前向きな感じ」と人から言われる感じ。

ダンディーの振り 240608

2024/6/8

小説家・評論家の故埴谷雄高氏(1907年生まれ)は、かつて次のように質問に答えたそうだ。あなたがほしいもの「暗黒星雲」。あなたの性格の主な特徴「暗さへの偏奇」。座右の銘「そんなものは持たない」。好きな花「ルドンふうの幻の花」。

昔はこんな人がたくさんいて、私が20代でお世話になりながらその元をトンズラした坂本忠士氏(1918年生まれ)も、質問したら似たような答えをくれただろう。世間はこういう人たちに憧れながら、一方では食えない文化人として嫌悪する風潮もあった。

私は政治経済的な社会での成功にこだわりを捨てきれず、文化人的世界から遠のいていった。しかし、一度その退廃的で哀感に満ちて魔法の夜が好きで夢見心地の世界に棲んだ者は、少なからず成功からの逆行傾向を身中に飼っている。

この「成功への諦め」がダンディー最大の要素なのではないかというのが、ここ数日の考えの帰着点だ。私はいけばなそのものが好きだったのか、いけばなを道具として「ルドンふうの幻の花」の宇宙の底で瞬く絢爛の世界を描きたかったのか、或いは何かを諦めたいのか。

フリや素振り 240607

2024/6/7

他人の批判を意に介さない人がいる。無神経なわけではなく、気にしていても気にならないフリを装うのだ。政治家に多い。

逆に、他人の噂話を神経質に思い悩む人がいる。悩んでもいない癖に、小心な素振りを顔に表しているのである。芸術家に多い。

どちらも、相手からさんざん「役者やのー!」と言われる。前者は強がるフリをする役者で、後者は弱い素振りをする役者である。前者は弱い者いじめが好きで、後者は強い者に楯突くのが好きだったり、「どうせ俺は……」を口癖にして文句ばかり言っていたりする。華道家は後者に属する。

いけばなは、絵画や音楽のように多くを語れないし、詩や俳句のように言語表現できないので、表現したい内容を見る人に伝えにくい。せいぜい「綺麗だわね」とか「萎れているじゃない」くらいの感想しかいただけない。だから、もう少し気持ちを汲んでもらったり、あわよくば分かってもらったりしたいのだ。

そこで、枝をブチッと「折り矯め」して屈曲した文人面を見せてみるのだ。敢えて枯葉をいけて無常を表してみるのだ。綺麗なだけじゃない素振りを見せるのだ。

追いつ追われつ 240606

2024/6/6

あるオリンピアンが、14年計画でトレーニングを積んでいるという記事が目に入った。ものすごく遠く、そしてものすごく具体的な未来像を描いていることに溜め息が出る。私だって、自分の理想とする姿をいつも追ってきたが、思い返すと10年以上のヴィジョンを描いたことはなかったし、事によれば5年先すらイメージできていなかったような気がする。

さて、象のように大きく寿命の長い生き物と、鼠のように小さく寿命の短い生き物の鼓動の数を比べると、一生の間の心臓の鼓動数は同じくらいなのだという。小さく短いスパンで暮らしていると、鼠のようにちょこまかと生きることになるのだ。

だから、近視眼的な計画しか立てられない私は、目標達成率の不足に対して頻繁に細かい焦りが生じることになる。自分が描いた自分の目先の理想像に追いまくられることになる。理想像を追っていたはずなのに、いつのまにか自身の理想像に追われる逆転現象が起こる。

いけばなについて、自分のいけたい具体的な作品像はない。それよりも花材との一期一会で、どんな戦いや協調が始まるか、それが楽しみだ。

講師の事