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いけばな随想
diary

空漠とした平原 250112

2025/1/12

 行ったこともないモンゴル平原は、小学生の私の憧れの地だった。知らない土地が憧れとなった理由は、不思議なことに何度も空想のモンゴルを夢で体験していたからだ。草原と風と砂漠しかしかない空想のモンゴルは、後に写真や映像で見ることになる現実のモンゴルそのものだったので、私は密かに自分はモンゴル人の生まれ変わりだと思ったりもした。
 迷宮のような風景に魅力を感じる私は、それとは反対にモンゴルの空漠とした風景も好きだ。迷宮の方は差し招かれるままに行ってみたいのに対して、平原の方は大変そうだし絶対行きたくないのに磁石に後ろ髪を引かれるようで忘れられない。
 もし、迷宮のようないけばなをいけることができたら、次は空漠としたいけばなの出番だと思っている。どちらが先になるかはわからないが。
 迷宮作品は光と影が複雑に入り組んでいて、草原作品は無口でポツンとひとり、影も作らずに佇んでいる、そんな感じになるだろう。これは言葉では言えても、実際には永遠に辿り着けない制作イメージなのかもしれない。いずれにしても、観念的で造形的ないけばなの方法だ。

趣味の迷宮 250111

2025/1/11

 旅行をしても、街の裏へ裏へと足が向くのだった。特に海外の初めて訪れる街では、地図をざっと眺めて入り組んだ路地の奥に行き止まりの小路などがあると、行って見ずにはいられない。
 裏通りの汚い路面やゴミの吹き溜まりは犯罪の匂いがするような怖さがあり、床几を出して碁を打つ老人たちや狭い路地の狭い空になびく洗濯物を見上げると、無遠慮に迷宮に迷い込んだような緊張と期待で背中がぞくぞくするのだった。
 山海の壮大な自然の風景も好きではあるが、そしてまた、香港や大阪難波の雑然と密度の高い都市風景も好きだが、私は都会の背中側の無秩序な(狂騒と静寂が背中合わせになった)感じにいちばん引かれる。屈託のない楽天的な自由を味わいながら、胸の中は孤独感でいっぱいになる。相反する気分で心がざわつく。
 絵を上手に描ければそうしたいところで、しかし、自分にはそれをやる力量がないから、かわりに大きいいけばなをするときは、そんな感じを表現してみたいと思う。まず、奥行きと広がりは必要だろう。それから、不規則な複雑さと、予想外の花材の組合せも欲しいところだ。

演出 250110

2025/1/10

 日本と中国の間には、国境線がある。だから政治的には100%他国同士ということだが、この線は見えない。文化的には相通じる部分が大きいはずなのに、相違点ばかりが喧伝されて、両国民のセンスや考え方は全く違うと感じるよう教育されてきた。
 日本人は、遣隋使の時代から中国に憧れ、また朝鮮半島の国々にも親しみを感じていたはずなのに、いつの間にかそれを忘れた。次いで、欧米に憧れるとともにそれを凌駕したいと思ったが、戦争に敗れてやや卑屈に追随することとなった。その後高度成長を遂げ、改めて「日本の伝統文化」というようなことを言い始めたが、4千年くらいの長さで振り返ると、偉そうに言うほど独自性は高くない。いろいろな文化をミキサーにかけ、新奇性をアピールできるよう演出したにすぎない。
 とすれば、日本文化に独自性があるなら、それは演出力なのかも。伝統的な神楽は、神様と住民に向けた踊りであり、祈りである。しかし、イベントと化した神楽は、お金を払う観客が対象となった。いけばなも、野にある花にどういう付加価値をつけるかという、演出の美なのだ。

はみだしてしまおう 250109

2025/1/9

 建築家の設計は、1軒の住居、1軒の店舗で完結した図面を描くのが普通だ。マンションや学校など規模が大きく公共性が高い設計では、周辺の道路や川など既存の風景の一部くらいは描き込むこともある。設計者の頭には近所の建物や街区の様子もイメージされるが、彼は業務範疇を超えてまで図面を描かない。
 いけばなも「場にいける」もので、いけばなだけで自己完結しない。だけど、いけばなの周辺1メートル四方を意識するか、いけばなのある部屋全体を意識するか、いけばながある家の1軒を意識するのか、その家が建っている敷地全体を意識するのか、いける際の意識の広さで作品は変わる。
 私は、知人のショットバーに花をいけさせてもらうようになって、いける際のイメージが広くなった。……自分が客の立場で店にやってくる。さっきまで騒がしい一次会だった。カラオケの二次会を離脱して1人でカクテルを飲みに来る。店は木の匂いがする。そして、自己主張の強いいけばなが目に入る……。空間の広がりだけではなく、時間経過も意識するようになった。茶で迎える亭主の気分といってもよい。

意味のあるなし 250108

2025/1/8

 昼間に見えない星が夜見えるのはなぜかという疑問に対し、暗ければ暗いほど光の明るさは際立つからだと教えられた。物事は相対的な関係で成り立っていて、それは人の世でも他人との差異が大きいほど目立つのだとも。
 だから、頑張り屋ばかりの仕事場では、少しくらい頑張っても認めてもらえない。1960年生まれの私は高度成長期に働いていたので、何とか目立つように立ち回る意識でアピールしながら働いた。相対的に優位に立とうとすれば、より一層頑張るようになり、当然のこととしてついに仕事中毒になった。でも楽しかった。
 楽しさには、理由はあっても意味はない。ただ楽しんでいて、その楽しさを何かに役立てようとかいう気持ちにはならない。意味がないことにのめり込む楽しさは、子どもだけの特権ではなく、本当はすべての世代の人間が味わう権利を持っているはずだ。
 今の私は、立場上、意味ある建設的な仕事と同じようにいけばなの意味を考えざるをえないけれど、実のところは、意味ある建設的な仕事で苦しむくらいなら、意味なく楽しめる「仕事の余白」みたいに過ごしていたい。

講師の事