悪人は誰だ 240716
2024/7/16
昨日の愛媛新聞に、特定外来生物「オオキンケイギク」が、伊予市の海岸でお花畑になっているという記事があった。いわば悪人扱いだ。
カヌーがきっかけで川に関心を持っていた1990年代、私は重信川中流の河原にオオキンケイギクが点在している風景をたくさん写真に収めていた。流れる水が少なく、ゴロ石だらけの荒涼とした景色に、背の高い黄色のオオキンケイギクが風に揺られる物悲しい様子は、私が大好きな原風景の1つだ。
当時はそんな外来種と知らず、ぼんやりと「キク」の名が付いているから在来種だろうと思うくらいで、風景としての魅力はあっても、植物そのものに対する興味はあまりなかった。
いま、いけばなをする身としては微妙な気分である。在来種を駆逐しかねない生命力を持っているならば、確かに駆除したい。一方で、これだけ人間社会の国際化が進んでいるのに、他の動植物の住処は制限しなくてはならないのだろうか。人間が気候変動を促進させたり、森林破壊や海洋汚染を広げておきながら、「君たちは、そこにじっとしていなさい」と動植物に言う資格がないように思う。
上流と下流 240715
2024/7/15
私は30歳頃に、川カヌーを始めた。肱川での水遊びの時期を経て、アスリート系の先輩方に混じり、四万十川中流の十和村を拠点に川を下ることが多くなった。体力の落ちた30代中盤からは、川の中流から下流へフィールドを移し、河口からついに海のカヌーに乗り換えた。
さて、一昨日「森の幼稚園」へ行った続きの話だ。友人Nは、ついに自分の山を手に入れたと、車で小一時間の隣町の山奥へ私を連れて行った。私が川の中流を海へと下って行った行程とは逆に、彼は農地が広がる扇状地から里山へ、そしてついに山奥へと至ったのだった。
大雨の影響で谷川はどうどうと流れ、草ぼうぼうのガタガタ道の轍も小川となり、耕作をやめて月日が経った狭い段畑跡は湿地になっていた。彼はこれから10年以上かけて、周辺の針葉樹林も開墾していくというのだ。
流通でいえば、友人Nは樹木や野菜の生産者で川上の人間、私は市場に出され卸売・小売を経て花木を買う川下の人間である。また別の見方をすれば、私は昔開墾されて賑わった「いけばな」という土地で、耕作放棄地を掘り起こしている1人である。
UFOとナメクジ 240714
2024/7/14
旧友Nと会った。彼は昔、時々UFOを目撃していた。「今も見るのか?」と、私からは聞かなかった。
小雨交じりの昨日の朝待ち合わせて、Nが借地の山で手掛ける「森の幼稚園」へ案内された。林道の舗装も途切れた所で私の車は乗り捨て、年季の入った彼の四駆に同乗した。現場は文字通り森の中にあった。車を停めて彼は水色のバケツからビニール袋を取り出した。大ナメクジが1匹入っていた。「臭いんよ、こいつ」と言いながら、昨夜の大雨に流れ積もった落葉の上に捨てた。それは、すぐに2本の触覚のような目を伸ばして、ゆっくりと這い始めた。彼が1年がかりで間伐したり整地して建設中の小屋を感心して眺めているうちに、雨が激しくなったので山を降りる時、大ナメクジの姿はもうなかった。
彼に見えた円盤を、私は見たことがない。彼と私が出会った大ナメクジの個体も、多分世界中の誰も見ないだろう。
私は、自分がいけばなをするようになるまで、いけばなが目に入ることはあまりなかった。人は興味がある対象しか見ない。そのうえ、運が良くなければ、希少なものはますます見えない。
庭木と切り花 240713
2024/7/14
たとえば菜の花は、切り花になっても花瓶の中でぐいぐい伸びて大きくなる。しかし、大半の花はそんなに目立って背が伸びることが多くはない。土の力というか、根の力には敵わないということか。
しかし、俺は負けんと言わんばかり強いのは柳である。花瓶に挿しておくと、小枝も葉も1枚もない棒っ切れの姿から水の中で白い根を出し始め、次第に根の本数と長さを増してくる。そんなになった“棒”を10年ちょっと前に庭に挿し木してみたところすぐに根付いて、3年もしたら大木になり、枝垂れた枝先を地面に擦りながら夜風に揺れるようになった。4~5年目にはお隣さんから「夜のザワザワした音と幽霊みたいな揺れ方が気持ち悪いから切ってもらえまいか」とお願いされ、虫も付いていたので切った。切り株の直径は、15cmにもなっていた。
いま困ってきたのがアメリカハゼで、庭じゅうに根を張って、その根の至る所から新芽を伸ばしてくる。
うちの庭木はみんな成長速度が早くて、枝がビンビン真っすぐ伸びるため、風情がない。いけばな向きなのは、木蓮、椿、千両とアジサイくらいである。
いけばなの片付け 240712
2024/7/14
悲しいことに、夏季には切り花が傷みやすい。朝起きてちらっと見ると、マーガレットの茎がうつむいている。外出から帰宅してふと見ると、アルストロメリアの花びらやおしべの2~3本が床に散り落ちている。
私が片付けようと思うタイミングよりも、妻が片付けてほしいと願うタイミングの方が早いので、妻はいつもそれが不満である。私の方は、花を楽しむ時間が4日も5日あるから、1日くらい少し冴えなくてもいいではないかという気持ちだし、ちょっと元気がないものを2~3本抜いて水を替えたらまだあと1日は持つだろうと思うのに、妻の心の中はきっと、弱った花を半日でも部屋に置いておく私の感覚が我慢できないのだ。
私はベターな花があればいいというのに対して、妻はベストな状態の花は欲しいけれど中途半端な花ならない方がいいということだろう。
つまり、いけばなにおいて気を付けるべきは、いついけるかでも、どこにいけるかでも、誰がいけるかでも、何をいけるかでも、どういけるかでもなく、いつ片付けるかというタイミングが最も重要であると理解することなのである。