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いけばな随想
diary

〇〇馬鹿 231227

2023/12/30

「正直者は馬鹿を見る」というのは間違っている。
 馬鹿といえば、「〇〇馬鹿」と言われるような人が散見される。半分尊敬の念を抱かれながら、半分は呆れてしまってもう手が付けられないというような、肯定と否定が半ばするような相手に使われる。
 私は、自分が馬鹿になりかけているからわかるけれど、ビジョンのない馬鹿と、ある馬鹿がいる。この1年、私は前者だった! と先日反省したばかりで、来年は何としてもビジョンを持った馬鹿になりたいと思っている。
 確かに結果は大事ですよ! しかし、ビジョンに基づいた行動を取って良い結果が得られたら万歳でしょうけれど、考えもなく起こした行動で偶然に良い結果が得られても、驚きはしても喜べないではないですか? そこに再現性が期待できないという点で。
 いけばな普及のビジョンと仮説とに基づいて、具体的な計画と数値に落とし込んでいくという、どちらかといえば営業的な感覚で取り組む来年にしたいものだと、そんなことを考えている年の瀬です。
 馬鹿にも正直者にも、営業力がないのであるが、「馬鹿は自分に正直な者である」。

じっくり観るということ 231226

2023/12/26

 仕事に明け暮れている時期、いけばなの優先順位は低かった。習慣化が大事だと自分に言い聞かせながら、何とか23年が過ぎた。
 取材を受ける若い人が今日のテレビで語っていたのは、映画を見る時、15分くらい見たら一区切りして、続きはまた後で見るということ。私は、呆れた。全編を一気に見てこそ「観た」と言いたい。
 習い事は、その1回が双六の1マスに相当するような連続した連なりの先に、あがり(ゴール)がある。そして、稽古の空白が長くなると、ともすれば「ふりだしに戻る」ようなことになりかねない。
 じゃあ、あなたは四国八十八か所を一気に巡礼したことある? と聞かれたら困る。分けて回り切ったこともない。また、いけばなの継続にはどんな効用がある? と問われると、そんな即効性を求めるような考えはお捨てなさいと開き直るしかない。最近は、じっくり辞書を引くことが激減して、ネット検索ばかりになったが、まだまだYouTubeやTikTokを見ることに馴染んでいないのは、私がスマホに馴染んでいない証拠で、時代から取り残されてしまうのではないかという不安も、あるにはある。

象徴 231225

2023/12/25

 いけばなと呼ぶとき、それはいける行為と不可分だ。華道と呼ぶとき、それは人間を探究する哲学で、必ずしも目に見える行為と表現された姿かたちのみを指さない。華道によって哲学・美学を追究した成果を、いけばなというかたちで象徴させるという関係だ。いけばなは、華道という見えない住人(密儀)の住みかだ。
 私の宗教的信仰心は薄い。しかし、「1粒の米にも神様が宿る」というような表現を、人間と宇宙を結び付ける何らかの力が働いているという私の感覚は受け入れる。
 仏教におけるお経や、キリスト教における聖書は、その真実を伝え広めようとするテキストだと思うが、お経や聖書には隠喩や寓話など沢山の象徴的表現が含まれているため、論理的に理解できるものではない。
 いけばなのテキストも、華道の密儀をとりあえずわかりやすく示したもので、その深奥に行き着くためには、文言の向こう側に跳躍する能力が必要だと理解している。枝の角度や長さを示していても、それが植物の持つ「気」を捉えたものではない。かといって、テキストを無視すると、深奥世界への入口が見つからない。

弘法筆を選ばず 231224

2023/12/24

 これは、「優れた技量の持ち主は道具に左右されない」という意だ。
 逆に、道具のせいにして、実力の半分も出せなかったと不貞腐れる人もいる。最も自分に近くて、自分のせいじゃないと言い訳しやすいのが道具だ。「筆の穂先が揃ってさえいれば」……。
 道具だけでなく、仲間がいたり、取引先があったり、客の事情があったり、家族の病気があったり、台風が来たりする中で仕事をするので、なおさら優れた技量を持っていないと、いつも思い通りにならないことになる。環境を言い訳にするとキリがない。
 達人は違う。穂先が割れた筆を使うとき、それを従わせて上手に扱うというのではなく、その割れた筆に自分を従わせて、またそれ以上に、割れたその筆でしか表現しえない文字を書くのではないか。
「この花材は投入(なげいれ)には向かない」と切り捨てるのではなく、その違和感を創意工夫に転じ、特長として生かせるようになりたい。そして、水のようにはなれないまでも、諸条件や相手の型に合わせて、自分の型を棄てていけるようになることが、「華道」の道(みち)の半ばかもしれない。

空即是色 231223

2023/12/23

 歳を取ると人間が丸くなるというのは、私には当てはまらなかった。むしろ、怒りっぽくなったくらいだ。
 色めき立つという言葉がある。何かに対して、過度に緊張を感じたり興奮したりするもので、怒りに震える局面などでは顔色が赤く(または青く)変わる。
 私は、子供の時に心底怒った記憶がない。物忘れが酷いのではなく、感覚アンテナの感度が低くて、何を見ても聞いても受け取り方が虚ろだったのではないかと訝しい。感覚が動かなければ、心は空のままである。心が空っぽだったから、本来であれば賛否が分かれる物事も、一旦受容できていたのかもしれない。今やっと、歳を重ねて五感が鍛えられ、人の話を聞いて賛同したり反発したりできるくらいに成長したのだろう。
 もし、私の心がいっぱいだったら、仮に他人の言動に反応しても、その気持ちを収める隙間がなかっただろう。満たされた甕に、それ以上水を足すことはできない。満即是無であり、満即是空でもある。
 まあ、空っぽだった私という甕に、喜怒哀楽の水が半分くらい満たされて、とりわけ怒の割合が大きいという状態であろうか。

講師の事