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いけばな随想
diary

しつこさ 240302

2024/3/5

東京から草月流本部講師をお迎えして、懇親会を開いた。会場は、ANAクラウンプラザホテル松山のガーネットルーム。

個人的なことでは、当ホテルとは相次いで特別な関係にあった。去る11月、ある大きな催しで、私の不注意から会場のパーテーションを倒して穴を開けてしまった。もちろん快く弁償した。明けて1月には、ある新年会で、私が用意した竹が余興の最中に折れて、竹の黄色い粉が舞い散った。出席者は、それを演出だと思って拍手を送ってくれたが、ホテルのスタッフは、カーペットに絡んだ粉を吸い取るのにとても苦労されたと思う。

で、今日の懇親会だ。私が三たび粗相を仕出かしたら困ると思ったのか、新年会の担当者が満を持しての担当だ。申込時にホテル内の和食店が満席で、用意していただいた宴会場は、7人の会食に対して30人は収められる部屋だった。

料理が美味しいのは折り紙付きとして、貸切の贅沢な部屋で、専属スタッフが2名付いて、慣れない我々にとっては貴族の晩餐会のようだった。

「禍を転じて福と成す」ためには、失敗しても、しつこく食い下がることだ。

献花祭 240301

2024/3/5

毎月、月始めに、愛媛縣護國神社で献花祭が執り行われる。靖国神社と同様の性格上、第二次世界大戦の英霊も祀るという部分が取り沙汰され、「英霊」の表現が軍国主義を彷彿とさせることに向き合うことを避けたい人も多い。

そんな背景が影響したのかどうか、献花祭の役割も担う「愛媛県華道会」の会員団体は少しずつ減ってきて、草月流愛媛県支部も十数年前に脱会している。

私はしかし、2つの点で、献花祭に反対の立場ではない。

まず、私の母方の祖父は、戦時中に「アカ」の汚名を着せられ、収監後東京で国粋主義者たるべく洗脳教育を無理強いされた。戦場で肉体的に散ったのではなく、国内で同朋から追い詰められて、精神的に殺された。英霊という言葉は嫌いだが、余儀なく戦争に巻き込まれた人々の鎮魂を誰がするのかと思うと、私は自然に手を合わせたくなる。

もう1つは、フランスとかに旅行して、信仰もないのに教会を見学して「素晴らしいわねえ」と言ってしまえる人が、なぜ日本の神社に目くじらを立てるのか。キリスト教会を見学する感じで、淡々と花を供えてもいいのではないか。

おいしさの指標? 240229

2024/3/5

テレビで、産学連携で「おいしさの指標」を設定する取り組みが紹介された。かねてより、おいしさは人によって感じ方が異なるとされてきたし、ミシュランの評価に対して疑問を呈する人もいらっしゃる。そこで、おいしいという証拠固めをしてギャフンと言わせたいらしい。

私が小学生か中学生のとき、写生大会があって三津の内港へ行った。私の隣で描いていたY・S君は、快晴の真昼なのに空を赤く塗っていた。通りがかった教師がそれを見て色がおかしいと指摘すると、Y・S君は、「もう少ししたら夕焼けになるけん」と答えた。教師は「写生会やから、ちゃんと写生せい」みたいな残念な捨て台詞を残して行った。私は、Y・S君をヒーローだと感じた。その後、彼は画家として人生を歩んでいる。

美しさの指標、賢さの指標、おいしさの指標等々……、ナンセンスだ。いけばなにおいても、自分の指標を自信満々で主張するのはよい。それでこそ作家だ。しかし、他人の指標を全否定することだけはやめた方がいい。昔の画家同士のように、決闘したり拳銃をぶっ放したりしなければならない羽目になる。

花と名前 240228

2024/3/5

松山市三番町の通りには、桜の街路樹が植わっている。少なくとも八坂通りから勝山通りに至る区間の桜は、その名を「一葉(いちよう)」という。花は大輪の八重咲で、もうすぐ訪れる満開の豪勢さは見ものである。

さて、当局が名札を付けてくれていたので、その名を知ることになったが、「一葉」だと知るまでは存在を無視していた。

人間も同じで、大街道商店街を歩いていても、名も知らないほとんどの人に対して私は興味がない。何十人、何百人とすれ違う人波に見知った人の顔を見つけると、声を掛けるかどうかは別として、当然のことながら私の感覚は反応する。「あれっ? 顔は知っているけれど、誰だっけ……。確か、20年以上前になるけれど、一緒に仕事をしたことがあるぞ……」。

いけばなをする時、いけている花の名前は知っていたい。ところが、買って帰ったあとですっかり忘れてしまうこともある。それは自分自身の責任なので、なんとか花材辞典やアプリで調べて思い出す。

困るのが、産直市場などで、名前を付けずに金額表示だけで売られている花や木だ。どうしても買う気にならない。

職人と記名 240227

2024/3/3

私は、地方の中小企業にいて、役所や企業から印刷物の編集やデザインを受注していた。しかし、私の名前も、会社名も記すことはなかなか叶わなかった。「電通」とか「凸版印刷」などの大企業は、同様の仕事を受けると、巻末に企業名を記すことが許されたし、編集者等の個人名も記された。

製作物に製作者の名を記すことについて、私は基準を見出していない。たとえば、絵画や書にサインや落款があるのは当然だと思える。花器や食器の裏に銘があるのも構わない。ボールペンにメーカー表示があるのも、自動車にメーカーのエンブレムがあるのも容認する。

しかし、庭師がすばらしい庭園を設計・造園しても、その庭に目立つような形で庭師の名前が目立っていたら幻滅するだろう。また、玄関ドアや食器棚の扉に目立つような社名やなんかが入ることは許せない。ネクタイやバッグにブランド・ロゴがでっかくデザインされていると気恥ずかしい。

いけばなを飾るとき、いわゆる名札を出すべきかどうなのか、時と場合によるだろうが、どういう線引きをして出す・出さないを決めたらいいのだろうか。

講師の事