共振関係 240803
2024/8/4
ひと月前の集まりで50年ぶりに会うまで、私は友人Dの存在を忘れていた。正面に彼女が座ったことで、初めて会話した。私の左には旧知の友人Nがいて、彼と彼女がたまたま友人関係だったことで3人の会話が成立した。NもDも農業生産者だ。
Nは、UFOも見るし、未来も見る。Dは、そんな彼に明らかに共感していた。そして私は、不協和音を出しながらも、2人が醸し出す空気感のハーモニーに加わっていると感じた。私は彼らの世界に片足を突っ込んでいて、無宗教の私としては珍しく、Nを宗教的な感覚で信じている。そして、もう片足は現実的・世俗的といわれる世界に立っている。
さて、集まりの1週間後にNに招かれて、私は彼の所有する山へ行った。そして今度は、4週間後にDに招かれて、彼女の住む町へ行った。2人で会うのは初めてなのに、ほぼ6時間を過ごした。
Dは私に、切り花でいけばなをする意味や気持ちを聞いてきた。私は、小麦粉を焼いてパンを食べる幸せと、小麦の穂を花器にいけて愛でる幸せを並置して答えた。どちらも、麦と人の両者によって生み出される結果である。
光 240802
2024/8/4
花をいけて、写真に撮る。その当たり前の行為に欲が出ると、部屋を片付け、照明を工夫し、背景スクリーンを設置したりして、空間がどんどん撮影スタジオ化していくことになる。
フラワーク(仕事としてのいけばな)作品を記録するとき、考え方は2つある。現場の状況に忠実であるか、作品がよく見えるよう営業カタログ的に撮るかである。
技術的には3つのことを考える。①画角:作品をクローズアップするか、作品の周辺の背景を広く撮るか。②焦点:作品のみにピントを合わせるか、空間全体にピントを合わせるか。③照明:空間の明るさを自然にするか、意図的に照明を調節するか。
中でも照明の問題に注目している。いろいろな人のSNSの投稿を見ると、スタジオ撮影的にコントロールされた写真の方が、いけばな作品が際立っている。しかし、“写真いけばな”として素晴らしくても、「場にいける」という、いけばなが本来期待されている見せ方ではない。特に、暗い空間でのいけばなの撮影は難しい。せめて三脚があればと思ってみるが、そもそも見えにくい作品に光を当てることはどうなのか。
気配を宿す 240801
2024/8/2
具象絵画は、理屈で解読することができるかもしれない。抽象絵画も、意図を推測するくらいはできるかもしれない。アクション・ペインティングのように、論理的に頭で仕込みをしても行為自体は勢いやインスピレーションに任せた描き方もある。
絵を見るとき、まずは目という感覚器官で捉えることから始まる。そして、その情報が脳に伝達され、対理性情報と対感性情報とに仕分けされる。しかし、理屈だけ、感覚だけで絵画作品を見るということはない。仕分けされた情報は、今度はほぼ一瞬にして混ぜ合わされる。
ところが、いけばなは、気配を感じることはできても、理性で解釈するのが難しいことがある。理屈っぽくいけられた作品に対しては、理屈っぽい目と感覚が働くが、理屈っぽくない作品に対しては、見る側も理屈っぽくなくなって、純粋に目の愉しみで見ようとする姿勢が生まれるのだ。
神がかった感性や練られた「気」で出来上がったいけばなは、「いいね」で終わらない、「きれいな花だね」で終わらない、広さや深さのある、「なにかしら見過ごすことのできない気配」が宿っている。
自己の一掃 240731
2024/7/31
彫刻家・河野甲の「大気への托身」という作品を持っている。4枚のトンボの翅が生えた男が、風の吹く宙空に身を投げ出している。その風は地上を吹く風とは違い、広大な上空を流れる偏西風のような強大な流れである。一旦そんな潮流に乗ってしまうと、もう個の意志や力ではどうにもできない。私は海のカヌーで遭難して、それを実体験したことがある。
そうなると「SOS! 私は玉井!」と叫ぶことも虚しく、私を取り巻く空間が一気に地球的な広がりを持ち、その大空間から眺めた自分は、もう玉井であるか流木であるかわからない心持ちで、恐怖も消えて海と自分が一体感の中に溶けていった。
勅使河原蒼風の言葉では「いけたら、花は、人になるのだ」が、逆はどうだろう。「いけたら、人は、花になる」ことは? 何かに身を任す托身のように、何かに心を託す托心は?
「つくり手の心を託されたいけばな」というのはロマンチック過ぎるイメージかもしれないし、もし、自分の狭く浅い思いが作品の足を引っ張っているのならば、思いを花に託した後は自分を消滅させて、花の舞いに任せたいものである。
掘り下げる取組 240730
2024/7/30
いけばなについては、制作速度が問題になる。咲いていた花もしぼんでしまうからだ。生きた素材を扱って、そこに付加価値を付けるとすれば、料理であれば寿司屋を目指すのが適当だろう。
寿司屋が高額料金を頂戴できるのは、板前の冴えた腕前があるからで、その腕を持つに至るまでの相当量の経験が必要であることは間違いない。それも、漫然と作業を繰り返すだけではなく、考えて考え抜いて腕を磨く必要がある。馬鹿にはできない。そして客は、「へい、お待ち!」と、目の前で開帳されるたった数十秒のパフォーマンスに何千円も払うのだ。
結局そういうことである。目の前で繰り広げられるイベントは数分でも、そこに見える商品価値を生み出す数年単位の見えない鍛錬があるのだ。
結論としては、他人には見えない努力や創意工夫、価値観を、それとは感じさせず、そこにどれだけ凝縮して見せられるかという演出が、見せる芸術には必要だということである。いけばなの制作も、生花を用意するまでは何時間でも何週間でも準備できる。生花を用意したら、あとは板前のように鋏を振るうのみなのだ。