劣等感 240711
2024/7/11
勉強や仕事をしていると、他人と比較されたり合否を突きつけられて。自分を情けなく感じることが多い。かつて私が国家公務員上級職試験を受験最中に放棄したのは、敗北という結果を免れるためであった。途中退席したことで、もしかしたら合格していたかもしれない可能性を残す道を選んだのだ。
受験競争が済んでも、退職しても、自分を他人と比較して悲観したり他人が羨ましかったりと、心のありようとしては忙しい。趣味の世界くらいは競争もなく穏やかに暮らせるだろうと思っていたが、そうは問屋が卸さない。テレビ番組の「プレバト」でも、ランク付けされる出演者は大わらわである。
では、いけばなはどうかといえば、こりゃイイぞって感じ。「プレバト」で、華道家の假屋崎省吾氏が出演者の作品を評価していたが、今ひとつ歯切れが悪い。あれは、假屋崎氏のせいではなく、いけばなの本来的性格のせいである。花器は本人以外の作家が作っているし、花材も料理のように煮たり焼いたりはできない。ゼロからつくり上げていく他ジャンルに比べて、いけばなの良否基準はあいまいなので助かる。
自由花 240710
2024/7/11
自由というのは、政治的には、独裁的な絶対王政や様々な統制による圧政などからの解放という場合に使われる。個人的場面では、物理的な拘束や村社会の不文律からの自由、また、道具や技術を使いこなせない不自由からの脱却など、何らかの脱制約状態を自由と称する。
いけばなの流派によって、「自由花」と称するジャンルがある。これは、形式ばった型から解放されたいけばなという意味だ。習い事のはじめは、必ず真似事からのスタートであるから、習い事には全くの自由という前提はない。全くの自由が欲しい人は、他人から習ってはいけない。
草月には、自由花と呼ぶいけ方がない。なぜなら「花はいけたら人になる」というイメージを常に抱いているから、どんな「型」でいけたとしても、最後にはその人らしくなることを許しているのだ。逆にいえば、束縛が好きな人は束縛されたままいけばなをするのもいいし、習い方の選択も自由なのである。
だから、敢えて自由花と呼ぶ必要があるのかと思うが、それは伝統の年月が長い流派においては必要だったのだろうと、同じ日本民族の1人として感じる。
オペレーター 240709
2024/7/9
スマホによって写真家の職業的立場が揺さぶられたと思ったら、今度は生成AIで画家の領域が侵された。私は、スマホ出現を機にデジカメを手放したくちだが、生成AIについては直感的に敵対心を掻き立てられ、絶対世話にはならんぞと思っている。
スマホを使って感じるのは、使う人間の創作力よりも、それを使いこなす操作力によってクリエイティブが支えられているということ。オペレーターとしてどれだけ手際よく操作できるかによって、この端末の創造的(と錯覚する)機能を生かすことができる。
30年前、フイルム式カメラを抱いてニューヨークへ行った。4百数十枚の写真を撮った。気分としては、獲物を狙うハンターだった。フイルム代や現像代がもったいないから、実際にシャッターを切るのは、心の中で切る数の10%にも満たない。撮影時点ではどう撮れたかわからないので、現像されて戻ってきた出来上がりに一喜一憂して楽しむのだった。
いけばなにも技術は要るが、オペレーター的要素は少ない。即席は可能でも量産はできない。そんな面倒な楽しさも、いけばなを好きな理由である。
創作と準創作 240708
2024/7/8
画家の作業は、その作品で“事件”をつくり出していくような、文字通り創作的作業がある。
ところが、写真家の作業は、事件をつくり出すのではなく、事件を見つけ出す作業だ。もちろんスタジオ撮影では、スタイリストの協力を得てまさにつくり出す作業もあるとは思う。しかし、たいていの場合、写真家の存在如何にかかわらず事件はすでにソコで起こってしまっていることが多い。事件そのものをつくり出してそれを撮影するというのは、極端にいえば放火魔的行為だ。
華道家の立ち位置は、画家と写真家の中間だ。花が開いてしぼむという生長過程には積極的に参画できない点で、事件は華道家の営みに関係なく世界中で起こってしまっている。目の前のヒマワリをもっと大きくすることも、バラの茎をもっと細くすることもできないし、ユリのおしべの花粉をパッと消し去ることもできない。事件そのものには関与できない立場でありながら、事件の関係者であろうと無理に立ち入って、事件を複雑なものに仕立て上げているのだ。
いけばなは、事件の捏造と記録の歪曲という、珍妙な準創作活動であろうか?
写真といけばな 240707
2024/7/8
画家が絵を描くとき、構想の過程でいろいろな言葉を思い浮かべながら、自分のつくるイメージをまとめていく(のだと思っている)。
カメラマンも、ライフワークとしての撮影に取り組んでいるときは、絵描きと同じように、自分が撮るべき写真に対して言語化しながら構想を組み立てていると思う。しかし、初めて会ったモデルを撮影するとき、彼の意識の中にどれだけの言葉が浮かんでいるだろう? たぶん言葉にならない印象を感じ取りつつ、「いいねえ、その表情たまらんねー」と呟きながら直観力でシャッターを切っているのではなかろうか。
いけばなも直観力勝負だ。いけばな展に出す作品の構想には相当の言語的作業を伴うが、日常的ないけばなでは、目の前の花材に対して直感的に手に取ることから始まる。
これは、日々の食材の買い出しに似ているともいえる。晩御飯の献立をどうしようかと思いながらスーパーに行き、牛肉とピーマンを炒めようかと思っていたのに、カツオのタタキの美味しそうなのが目に入って急遽そっちに手を出し、すっかり献立全体が変わってしまうようなライブ感が素敵だ。