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いけばな随想
diary

鑑賞と制作 240520

2024/5/21

展覧会に行くと、会場を出た後に時々図録を買う。会場内に見所等のパネル展示があって、それを読んでから作品を見るという順路になっていても、私はあまりそれを読まない。家に帰ってから図録をめくって確かめることがたまにあるくらいだ。

私のいけばなのファイルの表紙には「解釈してはいけない」と、自省を込めて書いてある。自分の直感や印象を大事にしたいと思っていても、ついつい他人の解釈に引きずられてしまうタイプだから。学芸員の解説は、とても分かりやすいし的を射ている。しかし、絵を見てそれを追認して答え合わせをして終わるよりも、絵を見て新しい感覚にとらわれて問いを立てることから始めたいではないか!

旅行でも、ガイドブックを読み込み過ぎると、「おいしいです!」と書かれた店に行って、「不味いじゃん!」とは言いにくい。

自分の感覚を大事にして、自分らしいいけばなをいけよう! 他人の判断を気にして鑑賞する人は、たいてい人目を気にした制作をする。クライアントがいても、自分に発注されたのなら自分流で行く気概が欲しい(と自分を鼓舞する私であった)。

異質素材 240519

2024/5/19

今日は草月流の講習会で、本部とzoomで結んで、本部講師の中村草山先生によるデモンストレーションが6作品もあった! 90分で6作ということは、15分で1作だ。これをライブで行うために、相当緻密な準備が行われたことは疑いない。しかも、すべてが新しい1点モノである。

その1作品を生み出すために、構想を練り、花器と花材を選び、段取りをシミュレーションし、トークのネタを仕込まなければならず、部分的には他のスタッフに協力を要請し、前もって“下いけ(リハーサル)”をチームで行う。

どれだけ時間かけるの? とは聞かず、私は、6作のうち「生の植物と異質素材」作品について先生に質問した。そして、「異質素材を生の植物に馴染ませるためには、その素材に変形・加工を施すべし」ということと、「日頃からいろいろな物に目を光らせて、ダイソーに入り浸るくらいにならないといけない」という2つの回答を得られた。

いけばなをやるのに、事前のムダは一切ない。その日その時の瞬発力と共に、時間をかけて花材レパートリーを広げておくことは、どうしても必要だと思った。

枯物をいける 240518

2024/5/18

いけばな展でも、私は枯物花材を多用してきた。消極的な気持ちと、積極的な気持ちの両方があった。消極的な方は、いけばな展の会期中にあまり手入れをしなくて済むこと。積極的な方は、大きい作品をつくるとき、構造を支えるために一定の強さや硬さが必要なことである。

しかし、過去の自分の作品を思い出して、反省することしきりである。枯物は当然のことながら色の彩度が低い。派手やかでなく、静かにくすんだ色味である。絵画でいうモノトーンの画面に近い印象になる。絵画を思い起こせば分かりやすいのは、モノトーンで描くときは、陰影のコントラストを強くせざるを得ない。ところが、いけばなで陰影を出そうと思ってもうまくいかない。枯物花材は明度差も小さいのである。くっきり見せるためには、ボリュームで圧倒するか、着色花材を有効に使わなくてはならない。また、ハイライトもブラックポイントも、スマホの画像処理のようにはつくり出せない。理屈はわかってきた。

そんなわけで、枯物花材を積極的に使うのであれば、色彩以上に光と影(明暗)を意識して操らなければならない。

量が質になる 240517

2024/5/18

私は、いけばなを始めてこのかた、飽き性なので徹底して「型」をマスターしてこなかった。他人に対する興味が薄いから、他人の作品をあまり見なかった。おこがましいことである。だから、私は大したいけばな作品を残せていない。

いろいろ仕事もしてきて、もう退職してしまい、今に至って「量をこなす」大切さがわかるようになった。量をこなすことは情熱にも関係することだと思うので、これまでの私には情熱の量も足りなかったとしか思えない。情熱の量が足りないと、取り組む仕事の量も趣味の量も、人と付き合う友情や愛情の量も足りなくなる。

一握りの天才は、量を問題とせず一気に質の高い成果を出す。とはいえ、天才も凡人も同じだけの人生の時間を持っているのだから、天才は天才的な時間の使い方をしているのかもしれない。凡人はきっと無駄な時間が多いのだ。下手な考え休むに似たりだ。

しかし、いけばなの生徒さんや他の先生を眺めて、ほんとうに他人の作品をよく見ていると舌を巻く。それで、めきめき上手になっていく。やはり、質を上げるためには量が必要なのだとつくづく思う。

技術と情熱 240516

2024/5/18

いけばなの技術が少しは上達してきたと思っている。技術は、学ぶことができるし、積み重ねていくことができる。一度身に付いた技術は、そう簡単に擦り減ることもないはずだ。華道の道は果てしないから、果てしなく技術力は上がっていくだろう。

ところが、何としたことだ! 情熱というやつが、なかなか厄介な代物なのだ。体温が上がったり下がったりするように、自分が自分でコントロールできないところがある。何かのショックですぐに萎えてしまったり、何かの弾みでたちまち燃え盛ったりする。

情熱が乗りに乗っているときは、制作の途中で気付いた失敗に対して、その事実を正面から受け止めて始めからせっせとやり直すことができる。ところが、情熱の火が消えかけていると、だいたいにおいて「ま、いいか」と、良かろうが悪かろうが立ち止まらず振り返らず、いい加減すぐに「できた」と言ってしまう。

技術があると、一定のレベルの物はつくれるだろう。しかし、情熱がないと、それ以上の物はつくれない。情熱があると、時にとんでもない物をつくることができる。仮に技術がないとしても。

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