手際 240112
2024/1/15
いけばなを始めてから、理屈っぽい私の性向が変わり、手探りとか手習いという身体的な学びの大切さに目覚めてきた。
身体的な五官でいうと、年齢的に目や耳は確実に悪くなってきている。鼻詰まりもよくあるし、歯や舌の状態も相当悪い。ところが、手は荒れるしいつも肩が凝っているような状態だから触覚も減退していると思いきや、五感の働きの中で、触覚だけは弱くなったからこそより敏感になった感じがする。
そんなことで、いけばなに求められる「切る・曲げる・留める」手の技術を、観念的ではなく身体的に理解できるようになって思うのは、言葉で手際良く説明したとしても、その手際の良さが必ずしも生徒さんの理解にとって十分ではないということ。手際というのは、文字通り「手の際」の問題で、そもそも「手際よく説明」することなど、できない話だったのである。
残念なことに、私には生徒さんの手の感覚はわからない。見た様子から推測して、言葉でこうした方がいいよと言っても、それが生徒さんの頭に伝わり、頭からの指令が手に伝わるかは相手次第だ。手際のいい手習いは難しい。
続けること 240111
2024/1/14
私は、勢いでいけばなを始めた。勢いがあったので、はじめ何の迷いもなかった。
それから、数年後、病気を患った頃に止めたい気分になった。いけばなをして気分がリフレッシュされるのではなく、仕事も大変な時にプレッシャーとなって覆いかぶさってきた時だ。心がぎゅうっと押し潰されるような気分になると、お金も時間も削り取られるような、目先の損得勘定まで生じた。元々、私は飽きやすくて、突き詰めることが苦手な器用貧乏だったので、いけばなも止めてしまいかねなかった。
それを続けられたのは、半ば強引な先生の引き戻しがあったからだと、あの頃のことを感謝している。
先生の差配で何とか踏み止まれた時、少し心に余裕が戻った。そして、シーカヤックの経験を思い出したものだ。シーカヤックは、1回のツーリングで数時間は漕ぐ。すると、潮の流れも風向きも180度変わる。環境変化の方が自分の漕ぐ速度よりも早いので、できるだけ遠い目標を定めて漕がないと、あたふたしてしまうことになる。
いけばなでも何でも、遠い目標設定ができた時、それを続けることが可能になる。
有難味 240110
2024/1/14
世の中が物々交換で成り立っていた時代には、儲けるためには「わらしべ長者」作戦が必要だった。その「わらしべ長者」の偉さは、相手も儲けた気にさせるところにある。こっちもあっちも「ありがとう」を言い合う、お互い様の取引だ。
いま、私がお金を払いながら「ありがとう」と言う相手は、医者ぐらいだ。もちろん、飲食店や服屋へ行っても、接客の良い相手には「ありがとう」を連発する。
しかし、DXが進んでくると、物やサービスを買って「ありがとう」を言う動機も機会も減るように思う。売る側がコストパフォーマンスを良くしようとすればするほど、買う側の私としては有難味が減りそうだ。
私の習い事経験は、24歳までに、ヤマハオルガン教室2年、習字8年、英会話1年、茶道1年で、先生方はみなさんとても低いコスパで教えてくださっていた。40歳で始めたいけばなも、習う側が早く帰りたくなるくらい先生のタイムパフォーマンスは悪かった。
いま教える立場になった我が身を振り返ろう。受講者が「ありがとう」と言いながら、受講料を払ってくれているだろうか? 心許ない。
ようこそ門外漢 240109
2024/1/9
いろいろな集まりで、「あなたは部外者だから、口を出さないで!」とたしなめられる。仲間が寄り集まった会などでも、「まだ若いくせに余計ななこと言うな」と、古株が大きい顔をする。また、大企業の経営者が、中小企業の社長を見下すような態度を取る。キャリアの長さや、バックボーンの大きさで、「正しさ」が担保されるような風潮が日本的社会にはある。
医師免許や弁護士免許を持つ人の意見や見立ては尊重したいが、様々な分野でアマチュアがプロフェッショナルにへつらうのも日本的ではないだろうか。ゴルフやいけばなにおいて、すべてのプロがすべてのアマより上手かどうかはわからない。花いけバトルに出場していた高校生たちは、私の何倍も面白い花をいけていたし。
このところ、「シロウトが政治に口出すな」という鉄壁の防衛線が崩れ始めた。幸せに生きることについては、プロもアマもない。幸せに生きる目的のためには、自分が関係するあらゆる相手に対して思うことを言わないと、都合よく黙殺される。
逆に自分は、門外漢のまっとうな意見を、栄養として取り込みたいものだ。
矛盾の中で 240108
2024/1/8
私は、23歳で政治家の秘書になった。世間知らずの私には“想定外”が多過ぎて、心身を削り1年で辞した。以来、政治が嫌いで、しかし気になって仕方がないという矛盾を抱えている。
25歳のとき、広告満載のタウン誌に反発して、広告のない雑誌を仲間と創刊した。第2号出版直前のタイミングで、協力してくれた印刷会社が倒産し、雑誌も廃刊した。仲間にはしょげかえった顔を見せたが、「助かったぁ」と心の中で思った。もし第2号が出ていたら、私の借金は倍増していただろう。広告料でしか出版費用が賄えない現実を学んだ挙句、否定していたはずのタウン誌の出版会社に入社したのだった。“踏み絵”を思い切り踏んだ瞬間だ。
現在は、いけばなをしながら、花木の生産現場の状況については聞こえないふりや気付かないふりをしつつ、片目だけ開けて花木の流通に疑問や危惧を感じている。ポーズとして華道に没頭してはいても、面倒臭いと思うことも時にはある。
SNSしかりである。日々のジョギング気分で自分のために始めたものの、気付けば他人を意識して、それに縛られた奴隷の気分なのだ。