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いけばな随想
diary

いけばなの空間 231029

2023/10/30

 額縁入りの絵画であれば、カンバスに集中して仕事ができます。その絵がどこに飾られるかは時々の選択が可能だからです。絵と飾られる空間には、絶対的な相関関係はありません。
 しかし、いけばなは、そうはいきません。与えられた空間が先にあって、そこに花をいけるので、空間といけばなには完全なる因果関係があります。したがって、その空間を綺麗にしておくことが、表現の下地づくりとなります。掃除=ハウスキーピングは、いけばなの創作活動の一部であり、スタートとなります。
 ところが、人間がどんどんマニアックになっていくと、一見汚い廃墟に美しさを感じたり、場末の雑然とした溜り場に愛着を覚えたりするので、必ずしも清潔でシンプルな空間だけがいけばなにふさわしいとは限りません。ほんと、マニアは厄介者ですね。
 さて、人間がさらにマニアックになっていくと、空間の性質などお構いなしになります。そのいけばなの圧倒的な存在感に目がくらみ、もう、その作品しか見えなくなることがあります。その時、いけばなはいけばなを超えて、オブジェとして君臨するのでした。

アート思考 231028

2023/10/28

 昨日と違う切り口で見ると、仕事はお客様の課題解決が目的です。だから、企画マンも編集者もコピーライターもデザイナーもカメラマンもイラストレーターも、そして営業マンも、全員それぞれがデザイン思考で仕事をしていました。デザイン思考は、完全に仕事モードです。
 私は今春退職してから、「いけばなが仕事になりました」と相手を見ては言っていましたが、私の思考のベクトルはむしろ逆方向のアート思考です。「お客様のため」意識が希薄で、新たに課題を増やして喜ぶ非仕事モードなのです。
 しかし、気弱な私は、他人様の期待にも応えたいという心が捨てきれないのも事実です。アートは規制や常識から離脱していこうとする行為なのに、どうしても逡巡して圧倒的な表現ができません。
 言葉遊びであることを承知で言うと、前衛作家が世間に認められて前衛作家でなくなったとき、その作家の前衛作品は“名作”として評価されます。伝統を標榜しているいけばなは、同時的に前衛でもありえるというところに面白さを感じています。だから、イメージを現実空間に表現する力が欲しいです。

HOWのいけばな 231027

2023/10/27

 45歳まで、デザイン・編集・広告の会社でマーケティングの職に就いていました。「金額と納期がはっきりしないものは仕事とは呼ばん!」という諸先輩の教えがあって、6W3H(When,Where,Who,What,Why,How,How much,How many)の中で、WhenとHow muchを重視していました。そのうち経営者の方々との交わりが増えるに従って、動機や物事の端緒であるWhyを最重視しなければならないという考えになりました。経営の根幹にWhyのない企業は早晩滅びるだろうと。
 いま、退職していけばなに専心するようになって、何のためにいけばなをするのか(Why)よりも、どのようにいけばなをするのか(How)に関心が移ってきました。仰々しい言い方ですが、何のために生きるかと考えるよりも、どのように生きるかと考えるほうが意味があると思うようにもなったということです。
 いけばなをすることが生きること! みたいな覚悟はないままに、気付いたらいつも傍らにいけばながあったわけですね。今日も縁側で茶を啜りながら将棋を打っているみたいな感じで、なんとなく気付けば今日も……。
 どうやったら、いけばながもっと面白いものになるんだろう? 目下のテーマです。

再会 231026

2023/10/26

 高級ホテルのスタッフは、お客様に「おかえりなさい」とよく声掛けするようです。それは、宿泊客のたった1時間の外出からの戻りでも、3年ぶりの宿泊のチェックインでも……。
 秋祭りも終わり、私は1年ぶりに金木犀の花に「おかえりなさい」を言います。しかし、金色のかわいらしい花は、本当に短時間でハラハラと散りこぼれるし、いけばなで使ったことがありません。その木は父母が他界した後に植えましたが、たぶん私が生きている間はこの花と再会し続けます。互いに何かの約束をしているわけではないけれど、だんだん旧友の関係に近付いているようです。
 過ぎたこの夏、小中学校の旧友と45年振りに東京で会いました。意識的に会ったのは48年振りです。もちろん生きた人間同士なので会話もしたし、一緒に御飯も食べました。しかし、よそよそしいというわけではなく、なんとも人間臭くない肌合いの、植物化しつつある人間同士のような落ち着いた距離感で、居心地のいい懐かしさに心が温もりました。
 高級ホテルのスタッフは、そんな幼馴染のような、庭の木のような心地よさを持っています。

侘び寂び 131025

2023/10/25

 茶道の侘び寂びはしっくりくるけれど、憧れる一方で、華道は侘び寂びだけではないという気持ちがあります。華美に傾き過ぎるのは避けたいと思っていますが、結婚式などの祝いの席にはそれにふさわしい華やかさも必要でしょう。華美であれ、侘び寂びであれ、粋(いき)な空間に仕立てたい欲求があります。
 ところが、達観していない私がいけばなをする時、人に驚いたり見入ったりしてほしい余りに、その場所の趣を変えてしまいたくもなるのです。敢えて調和を乱すような衝動に駆られたりもします。そして、それが行き過ぎた場合、奇をてらったようになって空間を台無しにしてしまいます。
 いつか昔、足摺岬でボーッと2時間、海面を渡る風に見入っていた時、瀬戸内海の無人島の浜で、夜通し星空を仰いでいた時、キャンプ場で夜更けまで焚火をして、火の粉を虚ろに追いかけていた時……。侘び寂びは、人に対する意識が薄らいで(消えて)、心が風景に溶け込んでしまう状態になった時に訪れるのではないかという気がします。人目を意識するうちは色気が勝り過ぎて、心がうまく枯れてくれません。

講師の事