弘法筆を選ばず 231224
2023/12/24
これは、「優れた技量の持ち主は道具に左右されない」という意だ。
逆に、道具のせいにして、実力の半分も出せなかったと不貞腐れる人もいる。最も自分に近くて、自分のせいじゃないと言い訳しやすいのが道具だ。「筆の穂先が揃ってさえいれば」……。
道具だけでなく、仲間がいたり、取引先があったり、客の事情があったり、家族の病気があったり、台風が来たりする中で仕事をするので、なおさら優れた技量を持っていないと、いつも思い通りにならないことになる。環境を言い訳にするとキリがない。
達人は違う。穂先が割れた筆を使うとき、それを従わせて上手に扱うというのではなく、その割れた筆に自分を従わせて、またそれ以上に、割れたその筆でしか表現しえない文字を書くのではないか。
「この花材は投入(なげいれ)には向かない」と切り捨てるのではなく、その違和感を創意工夫に転じ、特長として生かせるようになりたい。そして、水のようにはなれないまでも、諸条件や相手の型に合わせて、自分の型を棄てていけるようになることが、「華道」の道(みち)の半ばかもしれない。
空即是色 231223
2023/12/23
歳を取ると人間が丸くなるというのは、私には当てはまらなかった。むしろ、怒りっぽくなったくらいだ。
色めき立つという言葉がある。何かに対して、過度に緊張を感じたり興奮したりするもので、怒りに震える局面などでは顔色が赤く(または青く)変わる。
私は、子供の時に心底怒った記憶がない。物忘れが酷いのではなく、感覚アンテナの感度が低くて、何を見ても聞いても受け取り方が虚ろだったのではないかと訝しい。感覚が動かなければ、心は空のままである。心が空っぽだったから、本来であれば賛否が分かれる物事も、一旦受容できていたのかもしれない。今やっと、歳を重ねて五感が鍛えられ、人の話を聞いて賛同したり反発したりできるくらいに成長したのだろう。
もし、私の心がいっぱいだったら、仮に他人の言動に反応しても、その気持ちを収める隙間がなかっただろう。満たされた甕に、それ以上水を足すことはできない。満即是無であり、満即是空でもある。
まあ、空っぽだった私という甕に、喜怒哀楽の水が半分くらい満たされて、とりわけ怒の割合が大きいという状態であろうか。
ギャップは大きいほどいい 231222
2023/12/22
私は、旅行の際に事前調査をあまり行わない。交通・宿泊だけは確保して出発するが、現地でどこへ行き何をするかは、行き当たりばったりだ。
完璧な行程表を作らなくては気が収まらない人も、有名観光地を1つでも多く網羅したい人もいらっしゃる。それは理解できなくもない。しかし、私は旅行に対して、安心よりも驚きを求めるタイプなのだ。
たまたま得た情報で、美味しいとされている店に行ったとする。しかし、凡そ期待の2倍も満足したことはないし、期待通りだとしてもそれでは減点0でしかなく、期待以下だったら目も当てられない。一方、不味いという評判の店に、それはそれで無理をしてまで行くことはしない。
最もスリリングなのは、情報のない店だ。自分の直感に賭けて、薄汚れた店のドアを恐る恐る開ける。客も少なく、身の置き所に困るような雰囲気。店の人も他の客も、「あんた、何で来たん?」みたいな顔。それで滅茶苦茶おいしく、居心地も良かったりすると、期待の10倍も得した感じを得られる。
いけばな制作も、下準備を完璧にしないことで、いつも危ない橋を渡っている。
お金と時間 231221
2023/12/21
私の人生のほとんどは、企業と学校で働く時間に充ててきた。そこには既成の働き方や既成の仕事があって、私はそれを少し自分流にアレンジして働くことで給料に換えていた。時間の自由は少なかったが、お金の自由は増えていった。
いま、いけばなを仕事にして、既成の働き方でも既成の仕事でもないので、手探りでお金に換える方法を模索している。20歳代前半も、自由業と呼ばれる範疇で働いていて、日々お金に困りながらも最高に楽しい気分を満喫していた。お金には不自由していたが、時間の自由は十分にあった。
お金に不自由すると心がすさむことがある。心がすさむと、お客様のためにならないことをしたり、仲間や取引先を搾取したりして、お金が増える。お金が増えると心に余裕ができて、お客様のための仕事ができるようになり、仲間や取引先との関係も良くなる。すると、そのお客様にもっと尽くしたい、仲間にも苦労をかけたくないと思い、自分が無理をし始める。無理をするから、時間を失い健康を害する。
働き始めて丸40年。時間とお金のバランスは今でも不安定で、困ったものだ。
意味と意欲 231220
2023/12/20
庭木の剪定をすると、切り落とした多くの枝が山になる。放置しておくと、枯葉が風に吹かれて散乱する。近所迷惑を防ぐ必要もあり、何年かの月日をかけて、片付け方を少しずつ工夫してきた。
現在のところは、まず、1回に1本しか剪定しない。片付けながら観察すると、枝ぶりや成長度合いなど、その木の特徴がよくわかる。そして、切り落として2週間くらい地面に放置し、生乾きにする。すると、葉が乾いて離れやすくなるので、それを落として捨てる。次に、枝だけになったものを見て、形の良さそうな部分を切り残し、あとは短く刻んでゴミ袋に入れる。仕上げは、切り残した枝を自然乾燥させて「枯物」花材として使う。彼らは、結構いい仕事をしてくれる。
このように再利用を前提に剪定すると、ノコギリやハサミを入れる回数が減った。木々の表層を外側からジョキジョキ切り進んでいたのが、いまは、木の中に潜り込み、太い枝にここぞと目星を付けてバサリと切り落とす。
庭木本体のみならず、切って落とす側にも同等に関心を寄せることで、剪定作業の意味が変わって、意欲も高まるのだ。