ヴィジョンとプラン 241005
2024/10/6
ヴィジョンは描き、プランは立てる。ヴィジョンは言葉で詳細に述べられなくて、プランは言葉で説明できる。
いけばなには「描きいけ」があり、目の前に花材がなくても、まずは自分のインスピレーションや心にずっと温めていたイメージを紙に描いてみる。そして、そのヴィジョンに合わせて花材を選び、実際に制作するという取組だ。
いけばなのキャリアが積み重なってくると、いろいろな花材が頭にインプットされているため、イメージしようとした途端にどうしても花材を先に思い出してしまい、純粋なインスピレーションが立ち上って来なくなる。つまり、ヴィジョンというのは、現実の具体的な物事に囚われると描きにくいもので、ヴィジョンを描こうとしているのに現実的で具体的なプランを立ててしまうことになりやすい。
料理も同じだろうか。宇和海の鯛や松山のアボカドというように、地域特産を前提条件にしてしまうと、食材に囚われて新しい料理イメージが出てきにくいとか……。料理を例に挙げるのは違うか。料理はあくまで口に入り、健康を害さないという具体的な材料把握が必要だから。
孤島の世界? 241004
2024/10/4
哲学は、人間や社会の全てに関わるものだから、昔から欧米の大学では基礎的な学部や学科としての地位を得ていた。その影響を受けて日本の大学にも設けられたが、私の知る限りでは、文学部哲学科という括りがほとんどだったと思う。そして、文学部は実学の反対側に位置付けられ、哲学科は最果ての地にあるようにも感じられた。
私は政治学科に在籍して、ズブズブに世間ズレしていた。本来は政治にこそ哲学が必要なのだが、有権者である国民が経済を優先するものだから、政治家も近視眼的にそれに応えて哲学を無視する。
こうして、哲学は、他のジャンルから切り離されて、絶滅危惧種のように心配される対象になってしまった。いけばなも、哲学同様に仕事や生活の場から切り離され、まるで絶海の孤島での活動だ。
ハレの花もケの花もある。展覧会の花は素晴らしいし、日常の小さくさりげないいけばなも素晴らしい。食事のスタイルと同様、いけばなのスタイルも様々あるということを大事にしたい。入学式の花もあればトイレの花もある。いけばなが、世の中のあらゆる局面に顔を出しますように。
形而上学 241003
2024/10/3
形而上学という言葉を使わずに長年暮らしてきた。暮らすというのはとても現実的で、現実離れして暮らすことは容易ではない。哲学的生活とか形而上学的生活というのは、時代と共に逆説的な感じが強くなってきて、そんな非経済的・非効率的で非実用的な暮らし方ができるものならしてみなさいと、自民党代議士から言われそうだ。
ヴィジョンというのは、現実に根を張ったままではなかなか描きにくいにも関わらず、幸福について現実的に測定できるのは給与や貯蓄などの経済的な数値だという考えによって、幸福の求め方が硬直化している日本である。このままでは、日本人は脱皮できずに死んでしまう蝉の幼虫みたいになってしまう。
さて、いけばなには花材が必要で、花材は植物でも土や石でも、水でも構わない。じゃあ、見えない空気はどうなんだ? と問われると一瞬困るが、よく考えているうちに困らなくなる。形而上学的いけばなも可能だという考えに至ると、空気などは実体があり過ぎるほどである。
他の諸般の芸術と同様に、いけばなは、目に見える花材と目に見えない思いを材料に使っている。
自分で探し出す強さ 241002
2024/10/3
中学3年生のお弟子さんがいる。彼の素晴らしさは、お稽古に来た2回に1回は、私を驚かせることである。彼がいろいろな発想でいけたり、より確実な仕掛けを自分で考えてみているとき、私は楽しみで仕方がない。
私は、教えられたやり方やテキストに載っているやり方を学ぶと、ともかく納得して、そこに懐疑的精神が生まれることはない。しかし、彼は違う。彼は、草月の「型」を破りたいわけではない。ただ、教えられることを話半分で聞いているのかもしれないし、テキストに書いてあることをあまり読み込んでいないのかもしれない。彼は、自分が取り組んでいるいけばなの作業の確実性を追い求めているうちに、私が見たこともない作業手法を見つけ出してしまうのだ。
他人に押し付けられたやり方は、それがたくさんの人に支持されていたり、数値的に証明できたりすれば安心できるが、たぶん彼にとっては、不確実なものをいくらたくさん集めても、不確実さは増すばかりなのだろう。
だから彼は、自分の手と頭だけを頼りにして、自分のやり方の正しさを強固で信じられるものに仕上げていくのだ。
雪月花 241001
2024/10/2
四角く長く黒い一輪挿しの胴の3面に、それぞれ雪・月・花の1文字が白く浮き出ている。古いものであることは間違いなく、父の時代のものか祖父の時代のものかどちらかだ。
季節ごとの風情や、気候に表れる特徴や、身近な自然の姿に対して、私たち日本人は昔から変わらず心を寄せてきたといわれる。そういう対象を象徴するのが雪月花だ。これらには、手応えという確固たる存在感はない。何しろ象徴なのだから、実体を伴っているかどうかは初めから問題としていない。
私は、いけばなで“気配”をいけたいと思っていて、でもそれはおそらく自分にしかわからないいけばなだ。他人に受け入れられるためには、少なからず手応えを感じてもらえる主張を伴わなくてはならない。
気配というのは、それそのものだけでは表せない。周辺の物事との関係としてどれが主役なのかわからないという場合に、気配が本領を発揮する。だから、写真を撮って、これが表現したかった気配だというふうに画角を決め込むのが難しい。気配を撮影するときの難関がピント合わせで、どこにもピントを合わせてはいけないのだ。