反田恭平 240503
2024/5/8
気鋭のピアニスト。今日テレビで見て、プレーヤーとしてだけでなく、音楽家が食うための会社の社長を務めているし、楽団員(社員)を連れて特別授業で小学校に行くなど普及啓発活動もしていることを知った。演奏を究めつつ、音楽世界を広げるスーパーマン!
その姿には本当に憧れる。自分にはもう、それをいけばなで実現するだけの時間はなさそうだ。それでは、どうしようか。……と考えたとき、後進に託すことしか思いつかなかった。しかし、学校で教えることを通じて自分勝手な思いは生徒に通じたりしないことも理解したつもりなので、子のいない私でも親の期待は子にとって独りよがりでしかないであろうことを承知している。いけばなに対する私の心情を、何人が引き継いでくれるだろうかという期待は、相手にとってはただの負担でしかないという諦めもある。
そんなつまらないことを考えながら見ていたときに、反田恭平が一心不乱にスタジオでピアノを弾くの姿が映った。なーんだ、思い悩んでいる暇があったら、動けばいいじゃん! 理屈っぽく考えるな! カッコつけんな! と自分に言った。
コントラスト 240502
2024/5/8
昨日から色の話だ。
スマホで写真を編集するとき、「ブリリアンス」とか「コントラスト」とかいろいろあって楽しい。編集し過ぎると、実際の見た目と違い過ぎてしまうが、それも制作上の技法だと言ってしまえばとやかく言えない。
私が考えることの多いのが、作品を同系色でまとめるか、対比色を組み合わせるかの2択だ。これは、花材と花材の関係にとどまらず、花材と花器の関係でも無視できないし、いけばな作品と背景の関係においても重要だ。
そして、そもそも、いけばなをその空間の脇役でいさせるのか、主役級に目立たせるのかによっても、表現の方針はまるで正反対になってくる。ごちゃごちゃした背景であれば、同系色でまとめたシンプルな作品の方が目立つ場合もあるし、良し悪しはケース・バイ・ケースだということになる。何が正解か、一概には結論付けにくい。
さて、私の目下の関心は、いけばな全般の流行が、侘び寂びの表現から離れつつあるのではないかという危惧であり、油断すると私自身がコントラストの強い作品をつくってしまうこと。落ち着いた作品もつくりたい私である。
色とマッス 240501
2024/5/7
いけばなを構成する3要素「線・色・マッス」のうち、いける人が能動的につくり込めるのが線とマッスである。色は花材由来の要素なので、つくるのではなく使わせてもらう相手だ。しかし、3要素は互いに排他的な関係ではなく、とても密接に関連している。
たとえば、カスミソウでマッスをつくるとしよう。カスミソウを重ねて束ねて、空気を追い出すように密度をギュッと高めて球状につくったとする。しかし、悲しいかな、白は膨張色なのだ。その球が持つベクトルは、球の中心から外へ放射状に広がっていく。どんなに密度を高めても、重さよりも軽さを感じさせる。
それでは、カスミソウにスプレーで黒く着色して同じ作業をすると、黒は収縮色なので、ベクトルは球の中心に向かう。白い球の印象に対して、黒い球は重力(重さ)を感じさせる。
つまり、マッスの表現を徹底させるためには、明度の高い(白っぽい)色よりも明度の低い(黒っぽい)色でマッスをつくることだ。また、暖色の赤よりも、寒色の青でつくるマッスの方が沈んで重く感じられる。ここに色とマッスの緊密な関係が見えた。
モノ真似いけばな 240430
2024/5/7
仕草を真似ると「ヒト真似」、作品を真似ると「モノ真似」だ。私の記憶には、草月の初代家元の作品が印象深い。モノの記憶である。そして、複数の作品群の記憶は、蒼風という初代家元の生き様に関係づけられた記憶でもある。だから、もし蒼風の作品を真似たら、モノ真似でもあり、ヒト真似でもあるということになる。
記憶を完全に消し去ることはできないので、厳密に言うと、私のいけばなはどこかに誰かの作品の断片が含まれる。全くのゼロから生み出す作品はありえない。20数年もいけばなを習ってきたものを、すべて白紙にしてしまうことはできない。
子が親を真似るように、まずは真似ることから始まる。人によっては、いつまでも真似続けることが嫌になって、早い時期に独り立ちする。人によっては、我慢強く(そういう人は、別に努力などすることなく、素直に継続するものではあるが)親や先生を真似し続ける。
人は自分に厳しくすることが難しい。自分はカワイイものだ。だから、人を真似することは、自分にはないものを表現することであり、自己流で自分を甘やかさないことにもなる。
いけばなの見方 240429
2024/5/7
抽象画を見て「わからない」とつぶやく人が大勢いる。しかし、人間を見て「わからない」と嘆く人はいない。他人なんて所詮わかるわけがないのだという当たり前の諦めがあるから、わからなくったって別に不安ではないし、それを問題にすらしない。なのに、抽象画の前では肩を落として斜めに睨んで「わからない」と言う。
先日の「日本いけばな芸術展」の会場で、来場者の歩みが速いことが少々残念だった。「わからん」と言うこともなく、作品を一瞥するだけでスースーと行き過ぎるのだ。知人の作品を見つけるとワーワー言っている。それとなく立ち止まってその会話を盗み聞きすると、「このユリ真っ白できれいだわねぇ」とか「このひん曲がった枝は自然なの? 何なの?」とか、花材1つひとつに対して美しい花だ、変わった枝だと見たままを言葉にしているに過ぎない。
いけばなは、出来上がったいけばなは抽象的だが、名前を持つ具体的な花で制作されていることから、作品全体を見て「わからない」ということを避けて「このバラかわいい」とコメントすることで「わかった」と安心するのである。